企業内弁護士への期待感と「弁護士余り」の関係

     2001年当時は66人だったが企業内弁護士が、今年4月時点では約30倍の1927人となり、弁護士全体の5%近くを占めるようになった、という記事を、6月22日付けで共同通信が配信しています。増員政策を伴った、今回の「改革」で、この現象は確かに特筆すべきものかもしれません。ただ、この配信記事も、ここ数年の、この現象に関するメディアの取り上げ方同様、お決まりといっていい次のような括り方をしています。

     「『弁護士余り』が問題となる中、企業が新たな活躍の場になりつつあるようだ」

     弁護士全体の比率で、一定の数がこれまでになくその方向に流れているということでは、「新たな活躍の場」という表現は、必ずしも間違いとはいえません。ただ、それが「弁護士余り」という現実が存在している、という認識のもとに括られるとなると、いつもながらイメージとして社会に間違って伝えられるような違和感を覚えてしまうのです。

     2016年版の弁護士白書によれば、企業内弁護士と任期付き公務員を加えた、いゆる組織内弁護士の数で見ても、確かに2006年の186人から、2016年には1907人と10年間で10倍に膨れ上がっています。ただ、一方で、この間、日本の弁護士数は、約1万5700人増加しています。全体に占める組織内弁護士の割合でみると、この間、0.84%から5.06%へと増えていますが、それでもその間のこの占有率の増加は年0.5ポイントないし0.6ポイントです。

     このまま推移するという仮定に立てば、10年以内に組織内弁護士が全弁護士の1割を占めるようになる、という見通しも立つかもしれません。ただ、それが現状、「弁護士余り」という状態があるなかで、弁護士が増え続けることへの対策として、あたかも期待できる「解」になるようなイメージにとられるとすれば、それは果たして大丈夫なのか、と言いたくなるのです。

     なぜ、今、企業内弁護士が増えているのかについては、大きく二つのことがいわれてきました。グローバル化、日系企業の海外進出が進むなかで、現地法人の設立やコンプライアンスの構築、M&Aなど、企業が直面した案件に対応する法務部門の要員として、弁護士を抱え込むニーズが生まれていたという、受け入れ側の事情。そして、もうひとつは「改革」の弁護士増員政策による、いわゆる就職難によって、法律事務所で修養するというモデルの崩壊、さらにリーマンショックの影響もあり、経済的により安定を求める若手が企業を目指したという事情。企業側からすれば、後者の事情が、前記の事情への対策に、より彼らにとって有利な環境を提供した、要は採用しやすい条件がもたらされた、ということになります。高い顧問料でつながっていた法律事務所と企業の関係も、この段階で逆転した、という見方もありますし、さらに、ここに弁護士を使いやすいものにする、という「改革」の真の意図があった、という指摘もあります。

     ただ、大事なことは、意図したか意図しないかはともかく、彼らにはこうした「改革」による変化の恩恵を受ける意思はあっても、それを積極的に支えるつもりなど毛頭ないということです。メディアに出る声も含めて、企業関係者の「改革」の増員政策に絡んだ発言を聞けば、彼らは繰り返し釘をさしているのです。あくまで採用は自社の戦略であり、より使い勝手がよければ、われわれは、われわれの都合によって、必要な分だけ採用するだけ。ゆめゆめ増員した弁護士の「受け皿」になるなどという期待感を持ってくれるな、と。このスタンスは、今も、これからも変わらない、といっていいと思います(「『企業内弁護士』の将来性と激増論の線引き」)。

     それは別の言い方をすれば、彼らは提供される側として、常に要求し、期待する側ではあるけれど、要求され、期待される側にはならない、ということです。企業内弁護士が拡大するということは、前記その規模的なこともさることながら、「弁護士余り」の状況を前提に考えたとき、それはどこまでいっても所詮、そこから逆算された対策の「解」には成り難い。結局、弁護士界が、いつか組織内志向のものだけが目指すような、前記比率において彼らが絶対的に多数を占める世界になるか、それとも、この世界そのものが志望者にとって見向きもされないものになるまで、「弁護士余り」という状況自体が大きく変わらないことを意味するようにとれるのです。

     前記統計でも明らかのように、いまだ弁護士を目指してこの世界に来た人の大半は、組織内弁護士を志向しておらず、そこにこそ「弁護士余り」という状況があるわけですが、かといって今後の志望者の意識が変わることも、そもそも組織側が、それを今後、どこまで受け入れるかも現在も全く不透明です。数に見合う「受け皿」がみえない以上、いうまでもなく「弁護士余り」は確実に続くことを想定しなければならないはずなのです。

     司法改革の結果を直視し、法曹人口や法曹養成の在り方を問い直す活動を展開する有志グループ「これからの司法と法曹のあり方を考える弁護士の会」が6月16日、政府の法曹養成制度改革推進会議が打ち出している司法試験合格者年間「最低1500人」方針から、「1000人以下」を視野に入れたさらなる減員を求める声明を発表しています。

     声明のなかで同会は、10年間で1.8倍に弁護士人口が増えるなかで、裁判事件数は逆に減少傾向を示し、弁護士会等の相談件数が増えず、需給のアンバランスが生じているなかで、前記したような勤務弁護士制度の変容、OJT機能の弱体化で、「国民に対し弁護士の質を保証するという点で大きな不安が生じてい」ると、改めて訴えています。「弁護士余り」という状態は、私たち利用者にとっても、悠長なことを言ってられるものではない、というべきなのです。

     いくら組織内弁護士が増え、組織こそがこれからの弁護士にとって期待できる活躍の場であるとしても、「弁護士余り」という現実の前に、私たちはまず、「改革」が一体、何を生み出しているのかの方を直視する必要があります。


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    「国民的基盤」論の危い匂い

     司法改革や、弁護士会のあり方をめぐって、法曹界の議論のなかで、度々登場してきた「国民的基盤」という切り口には、共通したある匂いを感じてきました。それは、さも正当な、大前提として語られるこの言葉のなかに、現実の国民の意思のようなものが、現実的にどこまで汲み取られてるのかが見えない、その危さの匂いです。

     そもそも「民主主義国家」であるわが国では、朝野を問わず、「国民」を冠した政策決定や主張には、当の国民として疑ってかかった方がいいような、ご都合主義的なものが存在してきましたが、法曹界の「国民的基盤」論にも同様のことがいえる、といっていいかもしれません。「上からの」と付けたくなるような一方的な期待と、勝手な民意の忖度に、国民の意思がどこまで反映されているのか、現実を本当に視野に入れて、実現可能性は語られているのか、要はどこから逆算された決定・主張なのかが分からないという話です。

     2001年の司法制度改革審議会最終意見書の中で、この「国民的基盤」は、国民の司法参加、要は結果的に裁判員制度導入を正当化するための文脈で登場します。

     「国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が、自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される。国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果、司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる」
     「そもそも、司法がその機能を十全に果たすためには、国民からの幅広い支持と理解を得て、その国民的基盤が確立されることが不可欠であり、国民の司法参加の拡充による国民的基盤の確立は、今般の司法制度改革の三本柱の一つとして位置付けることができる」

     何を言いたいのかはもちろん分かりますし、「国民からの幅広い支持と理解」が民主主義国家で、もはや錦旗のように掲げられても、そのこと自体、もちろん間違っているとはいえないし、抵抗感を覚える人もほとんどいないかもしれません。しかし、ここで展開されるような形、つまりは「改革」が描いたようなシナリオで、司法が「国民的基盤」を構築したり、直接参加によって司法への理解が進むということそのものを、国民はどこで受け入れたのでしょうか。

     あえていえば、昨日まで専門家への信頼を前提に、その養成のための税金も投入し、司法に正当な法的判断を委託し、期待していた側が、逆に彼らに期待される側となり、ひいてはこれまでの、その信頼を前提とした関係性を「お任せ司法」だ「統治客体意識」だと、心得違いのようにいわれることは、果たしてどうなのでしょうか。

     その結果こそが、はじめから現在に至るまで、国民に背を向けられている裁判員制度の現実というべきです。あえて皮肉をいえば、これこそが、国民の意思、国民が求めているものを視野に入れない、上からの一方的な「国民的基盤」構築論の結果です。

     弁護士会内の法曹一元や、弁護士自治をめぐる議論で登場する「国民的基盤」論にも同様なものがみてとれます。裁判官の任用に「国民的基盤」が求められ、弁護士がキャリア裁判官よりも、その「国民的基盤」を有しているという前提。弁護士自治は「市民の理解と支持」という基盤のもとに存在しなければならず、その基盤のうえに存在し続けるべきという前提――。

     法曹一元については、臨時司法制度調査会の議論から、弁護士を給源とする根拠となる弁護士の優位性をめぐり、なぜ、弁護士だけがそうした「基盤」をより持っているという前提に立てるのかで、弁護士側は反論にさらされてきましたし、また、今、弁護士側が社会に当時よりも、この前提を説得力をもって証明しているとも言い難い。司法改革路線は結果的に、法曹一元実現を現実的に遠ざけたともいえます(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)

     前記司法審最終意見書と同じ年に日弁連が採択した総会決議では、前記「市民の理解と支持」のもとに弁護士自治を維持・発展させる努力がうたわれました。これ自体、ともすれば多数派市民の理解が持ち出されることで(権力側にそう利用されることで)、自治本来の意義である権力対峙性を揺るがすことを懸念する見方が示されました。(「『国民的基盤』に立つ弁護士会の行方」)

     しかし、もし、この決議が意味してしまうような「多数派市民」の理解が自治の前提になるというのであれば、そもそもその「多数派市民」が積極的に弁護士自治の存続をその本来的意義を理解して求めているという現実が存在しているとは思えないし、多くの日弁連の会員自身がそのことを確信しているようにもみえません。自治の本来的な意義を社会に伝え、むしろ権力との対峙を余儀なくされた少数者にとっての最後の砦となることから、その理解の基盤を作っていく努力自体はもちろん肯定されていいと思います。しかし、前記決議を日弁連が採択する本音は、むしろそういう方向ではなく、「多数派市民の理解」の上に乗っかっていけば、見離されないであろうという期待の方です。

     どこまでいっても、「国民的基盤」を無視していいことにはならない、という反論もありそうです。しかし、国民が何を求めているのか、何を求めてきたのかという視点を欠いた期待感を、前提としてしまう政策・主張には、結局、それなりの結果が待っている、と理解しておくべき、といわなければなりません。


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    激増政策の中で消えた「法曹一元」

     日弁連が組織として、司法試験合格者年間3000人を目指すという「改革」の法曹人口激増方針を受け入れることになった2000年11月の臨時総会決議について、当時を知る弁護士のなかには、これを「歴史的」という言葉を冠して語る人がいます。ただ、言うまでもないかもしれませんが、これには多くの場合、皮肉なニュアンスが込められています。その後の弁護士業と法曹養成を劇的に変えてしまう大失策を、この時、日弁連が堂々と選択してしまった、という捉え方です。

     当日の臨時総会の議事は約9時間にも及び、日弁連としては簡単な選択ではなかったといえますが、結論は賛成多数ですから、前記のような意味で語る人は、当時、反対に回ったか沈黙していた会員であり、今さらそんな皮肉は口にできない立場の会員も少なからずいることは推察できます。当時の状況を考えれば、既にこの決議の2ヵ月前、既に3000人方針で一致を打ち出していた司法制度改革審議会の席上、当時の日弁連会長自らが、同方針で「十分に大丈夫」と太鼓判を押してしまっていたのですから、日弁連主導層は、もはや前のめりになっていた、ということは確かなのです(「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」)。

     今でも日弁連のホームページで見ることができるこの決議の提案理由を、改めて読むと、非常な違和感を感じます。あるいは当時を知らない、今や多くの会員の中には、この内容が入ってこない、よそよそしいものを感じる人も少なくないのではないか、と思います。

     「21世紀の弁護士は、なによりもまず、自らの公益性と倫理性を自覚し、我が国の弁護士の輝ける伝統を引き継いで、人権の擁護に取り組む存在とならなければならない。この弁護士の公益性と倫理性の自覚は、弁護士人口が増加し、法曹一元制が実現して、弁護士がより広い役割を担う存在となったときにも、弁護士職のアイデンティティとして保持されなければならない」
     「法曹一元制の下で市民感覚豊かで真に独立した裁判官と、質の高い豊富な量の弁護士が存在すれば、市民の権利の適正かつ迅速な実現が可能となり、それが司法に対する信頼を高めて、新たな需要を喚起するという好循環も期待できる。弁護士の共同化、専門化が促進され、より使いやすく、より信頼できる司法を実現することもまた可能となる」
     「我々の展望する21世紀の社会では、弁護士が、自由・公正並びに透明性の高い法化社会の進展に寄与し、それを維持発展させるために、地域的にも、分野・領域的にも、社会全般に進出し、市民に助言する専門的法律実務家として活動することが求められるであろう」

     こうした描かれた将来の弁護士像や、自らが求められる社会の展望が、需要の好循環などが生まれていない未来を知ってしまった人間からすれば、「3000人」という既定方針から逆算された、それを「大丈夫」とするための都合のいい「予言」が並べられているように見えてしまいます。

     ただ、そのこともさることながら、この提案理由への違和感を決定付けているのは、前記引用部分以外にも、全編にわたり度々登場する「法曹一元」という言葉です。ここでしつこいほど繰り出されることになった、この日弁連・弁護士会の長年の悲願。これが、どういう意味を持っていたのか――。結論からいえば、「法曹一元」論は「改革」に利用された、ということになると思います。

     1964年に意見書を発表した臨時司法制度調査会の議論で弁護士側は、法曹一元実現の条件として、法曹人口の不足が突き付けられる格好になっていました。弁護士から裁判官を採用させるという法曹一元にあっては、給源の確保という意味で、増員政策と親和性があったといえます。そして、その悲願達成は、1990年代に会内に多数いた、臨司以来の会内の有力な法曹一元論者を、「3000人」方針を含めた「改革」路線に動員する役割を果たした、ととれるのです(「『法曹一元』論が果たした役割と結末」)。

     既にこの決議の段階で、提案理由も認める通り、司法審の「改革」路線からは、法曹一元とは不可分の関係であるはずの判事補制度の廃止の芽はなくなっていました。それを分かった上で、この提案はなされています。多くの会員が、法曹一元の実現を革命前夜のごとく、当時熱狂を持って受けとめていたかというと、少なくとも私の目にはそうも見えませんでした。懐疑的な声はいくらもありました。ただ、「改革」推進の旗を振る人たちほど、この実現をことさら口にし、そして前提のように語っていた印象が残っています。

      しかし、現実はどうなったか――。日弁連自らが、会内に抵抗があった激増政策への合意形成のために、利用することになったこの悲願は、まさに皮肉にも、その政策によって完全に後退させられた、いまや葬られたという状況にまでなったといえます。それは大きく二つの点で、明らかです。

     一つは、法曹一元の根拠においてです。弁護士(本来的には経験を積んだ弁護士)から裁判官を採用するというこの制度にあっては、弁護士の優位性が前提となります。なぜ、弁護士でなければならないのか――。より国民生活に近い在野の法曹経験が生かされるという建て前になりますが、前記臨司でも、弁護士側は反対派から、この点の根拠を突かれています(「尊敬される弁護士と『法曹一元』」  「弁護士任官と法曹一元の距離」)

     「改革」がもたらした、現在の弁護士大量増員時代が、現実的にこの優位性を高めることにつながっているとは、とても思えません。競争と生存に直面した弁護士たちがサービス業としての自覚を高める一方、依頼者のカネにまで手をつける不祥事に、日弁連・弁護士会が頭を悩ます時代です。社会は、そうした存在をどうしても裁判官の前に経るべきものととらえるでしょうか。少なくとも、この「改革」以前に比べて、よりその説得力が増したと到底思えません。

     そもそも国民生活に近い、といっても、弁護士は、時に庶民とも対立することもある、あらゆる階層の弁護をする存在である点から、このロジックの説得力に懐疑的な見方は、当時から弁護士界のなかにもありました。それだけに、法曹一元実現には、この点で、より強く、こうしたものを社会に提示していく必要が前提的に存在していたはずなのです。

     そして、もう一つは弁護士会内の認識においてです。前記したような「改革」が生み出した環境のなかで、実現のリアリティだけではなく、果たして多くの会員、特に会内で多数になっている若い層の会員にとって、いまでも法曹一元が悲願なのかは、甚だ疑問です。弁護士の経済的な状況から、任官の条件が経済的妙味をもたらすものならば、関心が向くのではないか、と言う人がいました。しかし、弁護士が弁護士として豊富な経験を積める状況がなければ、法曹一元の本来的な意義に合致しないばかりか、経験不足の人材の給源になるのであれば、それこそ社会への説得力はありません。

     「改革」が、そうした裁判官予備軍になる弁護士を養成するのに適した環境を与えるどころか奪い、社会のイメージとしても弁護士の優位性を遠ざけ、なおかつ個々の会員の意識からも一元を遠ざけたといえます。そして、いまやこの言葉を弁護士が口にすることも少なくなりました。法曹一元を目指すのであれば、この激増政策はとるべきではなかった、といってもいいはずなのです。しかし、日弁連主導層は、このことをいまだに認めていません。あるいは将来、法曹一元という言葉が完全に消えた時代に発行される日弁連の年史には、この悲願の顛末が、どう記されることになるのでしょうか。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
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    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
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