日弁連の「失敗」への姿勢

     「日弁連は失敗を認めない組織である」という捉え方をする会員が以前より増えた印象があります。こういう話をすると、「いや、日弁連は昔からそういう体質だ」という一部ベテランの声も聞くことになります。日弁連の主導層のなかにある、ある種のプライドや運動方針的な考えから生み出される、「無謬性神話」を貫こうとする姿勢が、かつてなかったか、と言われると、判断は難しいものになります。

     ただ、冒頭の印象は、明らかに今回の司法改革にかかわるものです。前記「無謬性」体質があったとしても、これまでの日弁連の歴史のなかで、ここまで広く、明確な形で尾を引くことなる執行方針の失敗が問われる、テーマそのものがなかった。要は今回の「改革」以前の日弁連には、ここまで多くの会員を巻き込み、その批判の目を向けられるような、そしてこの資格の未来を決定付けてしまうような、テーマを抱えることも、そうした局面に立たされることもなかった、という現実があります。少なくとも「改革」の結果への評価・姿勢は、「失敗を認めない」という体質への認識を、会内に浸透させることになったととれるのです。

     「改革」に対する失敗を認めないということは、歴史の改ざん・隠ぺいであるという捉え方もできます。「改革」の成立に至る経緯について、一貫して肯定的な捉え方をする「日弁連『改革』史観」に基づくといっていい推進派関係者の著作物や弁護士会史の記述、さらにこの結果に対する評価をめぐり、「改革」路線に呪縛されているような主導層の発言にも接してきました(「日弁連『改革』史観に基づく内向きアピール」 「『失敗』を認めない日弁連会長」)。

     法曹人口増員をめぐる、1990年代半ばの日弁連の迷走劇の経緯が、日弁連の正史「日弁連50年史」から抹消されている事実を取り上げた、小林正啓弁護士の著書「こんな日弁連に誰がした」の中の印象的な記述があります。同書を読む限り、小林弁護士の認識としては、司法試験合格者数の年1000人、1500人以上が法曹養成制度改革等改革協議会で議論されているなかでの、日弁連の1994年臨時総会での「800人」関連決議、翌年同での「1000人受け入れ案」の各採択は「失敗」で、日弁連が当時、人口増に徹底抗戦せず、早期に一定の増員に応じていれば、その後の増員の展開は違った。むしろこの姿勢は、仇になったというものにとれます。

     この評価については議論があるところだと思いますが、こうした経緯を歴史に留めない日弁連の姿勢について、彼は同書で次のように厳しく指摘しています。

     「この記述によって日弁連は、歴史を後輩に語り継ぐという責任を放棄した。自分のやったことさえ後輩に語り継げない日弁連に、歴史問題で偉そうな口を叩く資格もなければ、若手弁護士に対して、わけ知り顔で説教する資格もない」
     「筆者が最も腹立たしく思うのは、過去の執行部の失敗ではなく、失敗を語り継ぐという先輩としての責任の放棄である。なぜなら、失敗を後輩に語り継げない組織は、同じ失敗を繰り返して滅亡するからだ」

     これは、その通りだと思います。そして、この姿勢は、今の「改革」論議を知らない多くの若手会員の、「改革」の現状に対する評価に影響しているようにもとれます。結果に対する肯定的な評価からは、諦念が導き出されても、過去の失敗を克服して取り返すべきものも、現在、止めることができる失敗の継続も、見えてこないからです。

     日弁連が認めない「失敗」の歴史には、専門的職能集団には似つかわしくない、二つのキーワードが浮かんできます。それは、焦燥感と孤立への恐れです。「改革」当初の日弁連主導層のなかには、これまでの日弁連の活動の「成果」に対する焦りといら立ちがあったようにみえます。例えば、長年の悲願である「法曹一元」にしても、絶望的といわれた刑事司法にしても、あるいは法曹養成におけるイニシアティブにしても、日弁連活動の壁に対する焦りがあればこそ、その突破口を「改革」への期待につなげてしまった。

     裁判員制度を陪審制度への「一里塚」とし、刑事司法の現状打破の「風穴論」と結び付ける方向も、「法曹一元」現実化への担保と弁護士増をつなげたことが、激増の現実的無理という視点をぼやけさせることにつながったことも、さらに法科大学院制度を中核とする新制度に、最高裁支配の研修所教育から脱却した、弁護士会主導の法曹養成を夢見た弁護士を登場させたことも、活動「成果」への焦り・いらだちとつながっていた、といえるように思います(「『法科大学院』を目指した弁護士たち」) 。

     そして、その焦りに拍車をかけたのが、「改革」論議のなかで味わうことになった孤立への恐れだったようにみえます。「市民に近い法曹」という自信が、弁護士不足という切り口のなかで、「ニーズに応えていない」という方向からの、このままでは孤立するという恐れによって揺らぎ出した。自省的な受けとめ方と、ことさらに「市民のため」を強調する日弁連の「改革」主張は、それを反映し、そして逆に時に筋を専門的職能集団として、筋を通すためには多数派市民とも対峙する、孤立を恐れないという発想を後方に押しやり、さらには「オールジャパン」の名のもとに、対峙してきた権力との位置取りもぼやかす形で、「改革」の旗をふる側に回った――。

     前記小林弁護士が指摘した1990年代半ばの日弁連の迷走劇にも、執行部の焦りと孤立への恐れが読み取れるものでした。

     その結果どうなったか、といえば、「改革」に期待を被せた悲願達成は、いれもむしろ遠ざかり、逆に弁護士は失敗の代償として、経済的に安定した地位と資格の経済的な「価値」を失い、さらに弁護士会は会員離反と自治の内部崩壊の危機まで抱えることになりました(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」 「弁護士の『地位』と失われつつあるもの」 「『弁護士自治』会員不満への向き合い方」)

      「改革」の結果について、弁護士会のなかに様々な評価の仕方があること自体が悪いわけではもちろんありません。ただ、焦燥感と孤立への恐れにとりつかれた日弁連は「失敗」しているのです。やはり「失敗」を後進に伝え、そこから学ぼうとするようには見えない「改革」と日弁連の現実は、小林弁護士が言った滅びへの道を進むものに見えてしまうのです。


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    「普通の業者団体」という選択と欲求

     大きく括ってしまえば、日弁連・弁護士会には、弁護士法1条の弁護士の使命に由来する「人権擁護団体」という性格と、弁護士という資格者が加盟している「業者団体」という性格があります。しかし、現実的には、これまで圧倒的に前者の色彩が強い団体だったといえます。会主導層の意識も、ずっとそちらから会運営を捉えてきたととれました。

     しかし、弁護士会外の人間と話すと、このことが日弁連・弁護士会という存在への理解に微妙なズレを生んでいる、端的にいえば、とても分かりづらいものにさせてきた面があるように思えるのです。弁護士という存在が、人権のために「貢献」する存在ということは理解し、それがゆえに、そこに社会が無償の「貢献」を期待する面もありながら、会としてみた場合、しっかりとそこに「業者団体」としての性格を読み込んでいる――。

     つまりは、「普通の」業者団体のように、日弁連も弁護士会も、業界の利益を優先させているだろう、当然個々の会員の利益につながるような立場で活動しているだろう、と。高い会費をとった強制加入だと聞けば、だからこそ、多くの会員は納得しているのだろう、という理解の仕方を耳にすることもありました。

     「改革」に関していえば、それこそ弁護士増員をめぐっては、こうした典型的な理解の仕方のズレにしばしば出会うことになりました。日弁連・弁護士会は、業界の利益のため、要は個々の弁護士の生活のためだけに、競争を回避する目的で、一丸となって増員に反対し続けている。そこでは会員も一枚岩なのだ、という誤解です。「普通の」業者団体的な理解としては、むしろ当たり前であり、そのために日弁連・弁護士会がなんらかの政治力を駆使しているだろう、という理解も何の不思議もない。弁護士議員も政界にそういう役割をもって送り込んでいるのだろうと、という見方までありました。

     しかし、現実は大分違います。日弁連・弁護士会は、年間司法試験合格者3000人を目標とした増員政策を推進する方向を選択しています。それには経済的な意味での甘い皮算用があったとしても、その理由は必ずしも業界や個々の弁護士の利益から逆算された選択ではなかったし、また、その後慎重姿勢になりながらも依然、増員基調の方針が続き、積極的に弁護士過剰状態解消へ舵を切らないことにしても、同様です。そもそも、この一連の姿勢を、業界内の人間が、前記疑われる「業者団体」として業界の利益を追及したり、既得権益擁護のために活動してくれたものとは、誰も思っていないのではないでしょうか。

     これもある意味、不思議なことですが、この「改革」路線を日弁連・弁護士会が受け入れた時代、その後の弁護士の業務を含めたあり方や拡大、弁護士の将来像についての議論は会内でさんざんされながら、それはやはり今思えば「業者団体」的ではなかった、といえます。自治とそれを支える懲戒制度、人権擁護活動など弁護士会活動、法研究や制度提言という活動が取り上げられ、個々の会員の活動については、需要が生まれてくる未来が何度も語られてはいても、日弁連・弁護士会が会員のことをどう考えて、この「改革」路線を突き進もうとしているのか、という点では、誰も何の感触も持てなかったのではないか、とすら思うのです。

     そして、今を考えてしまえば、むしろこれからは積極的に、ある意味純粋に日弁連・弁護士会が「業者団体」化することを望む会員は確実に増えているようにみえます。「改革」が個々の弁護士に、より一サービス業化への自覚と、会費への負担感を膨らましたことを考えれば、それは当然の帰結といえます。逆に言えば、冒頭のような「人権擁護団体」に軸足を置いた会運営に一定の会内コンセンサスが得られてきたのも、結局、それを許してこれた会員の経済的環境が確保されていたということも否定できないところです(「『弁護士自治』会員不満への向き合い方」 「『左傾』とされた日弁連の本当の危機」)

      当フログのコメント欄にも、弁護士会を任意加入団体にして、自民党に政治献金をしよう、コストを政治力に回そうという意見が投稿されています。つまりは、冒頭の社会の目線通りの団体になれ、と。「業者団体」としての会員の不満は、いまや自治・強制加入撤廃への要求につながっているように見えます(もっとも純粋「業者団体」化すれば、自治の根拠そのものが揺らぐわけですが)。一方、未確認情報ながら会の主導層からは、個々の会員の現状が目に入らず、前記「改革」論議の時代と同様の、現状とズレた、会員の気持ちがさらに離反しそうな楽観論が聞こえてくるという話もあります(武本夕香子弁護士のブログ 「弁護士「貧富」への認識というテーマ」)

     ただ、一番の問題は、では、「改革」が生んだ現在の会員の状況を踏まえ、日弁連がより「普通の業者団体」化すれば、それだけで本当にこの社会にとって有り難いことになるのか、ということです。「これを選んだのも国民」と言う業界関係者がいますが、「改革」の結果からこうなったといわれても、社会にとって有り難くないのであれば、何のための「改革」だったのか、とは言わざるを得ません。

     「改革」の必然ではなく、結果的に何が失われようとしているのかから、やはり考えなければなりません。


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    「改革」の先に登場した「アディーレ」

     今では当たり前のような、弁護士とその利用者が広告によってつながる関係を、この方向を受け入れた、多くの弁護士が果たして本心から望んでいたのかといえば、甚だ疑わしいといわなければなりません。以前も書いたように、日弁連は弁護士の業務広告について、1987年に「原則禁止・一部解禁」、2000年に「原則解禁」と舵を切りましたが、当初、それを選択した弁護士たちの広告に対する反応は極めて鈍かったのです(「『改革』が曖昧にした弁護士業と商業主義」)。

     効果や同業者の反応に対する様子見というムードが会内にあったことや、広告としての効果への疑問もありました。しかし、それ以上に当時の多くの弁護士たちは、実は会内の反対論者が強弁していた、広告という手段を用いることへの根本的な懸念、そもそもこの資格業には合わないのではないか、という疑念(「『弁護士広告』解禁論議が残したもの」)を、本音の部分では払しょくしていなかったようにとれました。

     彼らは予感していたのです。この資格業が本当に広告競争に乗り出す未来が来るとすれば、その時、真っ先に利用者が犠牲になることを。一方的に広告を大量に打てる弁護士が、必ずしも良質な弁護士とはならないこと、そして広告という手段で公開される情報によって、利用者の適正な選択が保証されることにはならないであろうことを。要は本気を出せば、いかようにも自らの利のために誘導できる立場を利用し、それを優先する同業者が現れかねないことを、他らない弁護士自身が一番分かっていたのです。

     ただ、ある意味、不思議なことではありますが、総会に出席した多数派の会員は、いわばそうした十分理解できる同業者からの懸念論を乗り越えて、この方向を選択します。利用者は情報提供を求めているということと、それに対する弁護士の姿勢が問われる、という、いわば時代の要請という受けとめ方が、彼らをこの方向に進ませたのです。しかし、決定的に弁護士の背中を押すことになったのは、「改革」だったというべきです。

     弁護士増員が決定的となり、弁護士がさらに国民にとって身近な存在となることが掲げられるなかで、他のサービス業では当たり前の広告という手段を弁護士だけが拒否することはしにくい、さらにあるはずの潜在需要が顕在化せず、これまでにない競争やサービス業としての自覚を迫られるなかで、手段としての広告をより否定しにくい状況となり、そしてそのころには、どんどん広告を打ち出す弁護士が現れはじめ、現実が先行していったのです。

     もっともこの流れは、広告問題に限ったことではありません。増員政策そのものが、多くの会員が持っていた懸念、疑念、弁護士本人であればこそ、分かっている「改革」推進論の同業者が描いている未来図の無理、つまりは急激な増員に耐えられる経済需要が生み出されるという話の危さへの認識を、「改革」の勢いのなかで、乗り越えて選択されていったという事実があるのです。

     そして、いうまでもないことですが、この引かれた「改革」のレールのうえで、競争もサービス業としての自覚も弁護士広告も当たり前の、かつて同業者が本音で持ち合わせていた懸念や疑念を乗り越える必要もない、新たな弁護士たちが、新たな養成の枠組みのなかで誕生してきたのです。

     別の言い方をすれば、旧来から存在していた弁護士にとって何がふさわしいかという捉え方よりも、そうした前提や枠にとらわれない、既成の弁護士のスタイルを壊さねば生きられない時代の弁護士として、彼らが生まれてきた。その意味では、広告も含めてサービス業として極めることから、まず逆算してこたえを出すような生き方を選ぶという意味では、「改革」路線に忠実な存在の登場だったといえるのです。

     そしてまさに、その「改革」時代の象徴、申し子といえる存在が、アディーレ法律事務所だった、といって過言ではないと思います。「過払いバブル」の波に乗り、大量のテレビCMを打ち、多数の弁護士と事務員を擁して、全国展開して、その規模と知名度で業界上位の法律事務所に躍り出た彼らは、「改革」時代にこそ、生み出された、既成の弁護士像にとらわれない、弁護士業を一事業として発想する存在として注目されました。代表の石丸幸人弁護士は、もはや組織成長のためには、リーガルサービスとの親和性も不要とし、さらに最近では医療を市場として弁護士業界よりも注目し、今後の事業展開として、もはや「アディーレ」とのシナジー効果すら、笑い飛ばして否定する、という発想の持ち主です(「『ビジネス』が強調される弁護士の魅力度」 「法律事務所系『回転ずし』という現象」 「弁護士支援という『アディーレ』の挑戦」)。

     しかし、「アディーレ」に対して、同業者や会の目線はずっと厳しいものがつきまとっていました。それには、いくつかの側面がありました。一つは彼らの派手な広告戦略に対する個々の同業者の目線。仕事を取られていくという現実的実害とともに、前記したような広告がもたらす依頼者の不利益という問題を引きずりながら、それは一面、経済的に全体が沈下する弁護士業にあって、「やっかみ」という同業者の感情的側面としても、しばしば取り沙汰されることになりました。所属弁護士に関する苦情が多いことを理由に、東京弁護士会から司法修習生への合同就職説明会への参加を拒否され、裁判にも発展(今年2月、東京地裁でアディーレ側が敗訴)。このときも、これは所属弁護士や取扱事件数の多さによるもので、苦情の発生率は低いといった、アディーレ側から弁明もなされ、さまさまな見方があるなかで、現実的には業界内では逆風という、一般的な捉え方がされていたのも事実です。

     ただ、この「アディーレ」への業界目線に対して、ある種の違和感を指摘する関係者もいます。つまり、それはやはり「改革」との関係です。「改革」路線が彼らを生み出したのではないか、彼らの登場は十分予定されていたのではなかったか、と。増員政策による競争激化と、一サービス業化への自覚が促進されるなかで、基本的に彼らこそが忠実にそれを実践し、その新たな可能性のなかで、あるいはその先を見据えた、彼らこそ多様な弁護士業へのチャレンジャーだったのではないか、と。

     それを考えたとき、「改革」派会主導層や会員たちの彼らへの冷ややかさはどう考えるべきなのか、という話です。「改革」路線を問題視する側のなかにも、この点で、矛盾にも近い違和感を感じている人がいます。見方をかえれば、前記したような会内の懸念を乗り越えて選択された「改革」の問題性に触れずに、当然に生まれた彼らの姿に眉をしかめている、とみえるからにほかなりません。

     その「アディーレ」が、過払い金請求の着手金を無料・値引きするなととする広告を掲載していたとして、景品表示法違反で消費者庁から広告禁止の措置命令を受けていた件で、東京弁護士会から事務所に2ヵ月、石丸代表に3ヵ月のそれぞれ業務停止の懲戒処分を言い渡されたことの波紋が広がっています(「弁護士法人アディーレ法律事務所らに対する懲戒処分についての会長談話」)。全国85支店、180名以上の所属弁護士の業務ストップによる依頼者への甚大な影響に、弁護士会や同業者が対応に追われる事態に発展しています。

     法律事務所が組織的な違法行為を多数回反復して行ったということは、弁護士会が消費者庁よりも厳しい措置に出る、当然の理由とされるでしょうが、一方で、当事者の不利益は、業務停止の影響の方が大きいとか、罪刑の均衡の問題を指摘する声も会内から聞こえてきます。そして、そこには弁護士会あるいは会内と「アディーレ」のこれまでの経緯、いわば因縁のようなものを被せる余地も作っています。

     しかし、今回の事態に至った「アディーレ」について、私たちが最もこだわるべきなのは、やはり「改革」との関係ではないでしょうか。弁護士・会が、まさに懸念、疑念がありながら、選択した「改革」の先に、彼らは現れた、そして、懸念のなかで想定していた通り、結果として利用者が犠牲になっている、という現実です。

     「アディーレ」については、日弁連への審査請求や効力停止の申し立ても予定されていると伝えられ、事態はまだ流動的ですが、一方で、今後の経営不安もささやかれ始めています。今回の事態を受けて、「彼らは『改革』の申し子ではなく、徒花なのではないか」という同業者がいました。「改革」路線は正しくとも、違法は許されない、彼らは行き過ぎた、という推進論者の弁明も聞こえてきそうですが、どこで弁護士・会はボタンをかけ違えたのかを問うことこそ、今、大きな意味があると思います。


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    「左傾」とされた日弁連の本当の危機

     産経新聞が、予告していた通り、日弁連の「政治偏向」に焦点を当てた連載企画「戦後72年 弁護士会」の第2部を5月18日から5回にわたり掲載しました(「日弁連『偏向』批判記事が伝えた、もうひとつの現実」)。「左傾のメカニズム」と題し、2016年会長選、対外的意見表明のシステム、国家秘密法反対運動への司法判断、資金と会費、日本弁護士政治連盟を取り上げて、日弁連が「左傾化」しているとして、これでもかと危機感を煽っています。

     率直に言ってしまえば、「左」という文字を見ただけで目くじらを立てる人たちや、あるいは同紙の読者にはウケがいいのかもしれませんが、果たしてこうした取り上げ方で、今、日弁連は問題視されるべきなのか、という印象を持ってしまいました。基本的な関心度も含めて、ここまでがなり立てなければならないこととして受けとめられるのかもさることながら、本来、日弁連に対して、国民が心配しなければならない方向が逆のように感じてしまったのです。

     強制加入団体と会員の思想・信条の自由という問題の切り口はありますし、結論はともかく、日弁連の会員自身がその点にこだわるのは、理解できます。シリーズ第1部から、この産経の企画でも、ちょこちょこそこにつながる会員の声を抜き、その点に言及しています。しかし、この企画の狙いは、明らかにそこにとどまりません。産経は、日弁連に「左傾体質」があるとして、どうしても問題化したい、弁護士でありながら政治闘争をしていてけしからん、と言いたいのです。

     ただ、実はこの産経の企画自らが、日弁連の現状を別の視点でとらえるヒントに言及しています。それは5月21日付け第2部3回目で引用されている小林正啓弁護士の次の分析です。

     「日弁連の反安保など政治闘争路線に反発を覚える弁護士は若手になるほど多いとされる。それは、イデオロギーというよりも、『高い会費を無駄に使うな』という経済の問題だという」
     「小林は『これからの日弁連はかつてのような左右ではなく、上下に分裂していく』と予言する」(原文敬称略)

     これは以前、当ブログでも取り上げた、同弁護士の日弁連の現状を端的に言い表した的確な分析です(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)。ただ、産経の書き方では、それこそ日弁連の活動をけしからん「左傾化」「政治闘争路線」という前提で書いているので伝わりにくいのですが、そもそも前記当ブログエントリー(「日弁連『偏向』批判記事が伝えた、もうひとつの現実」)でも書いたように、これを「政治活動である」とか「特定の政治勢力の主張と被る」といった批判を受けても、人権擁護を使命とする専門家集団として、その存在意義をかけて譲れない活動とみた場合、どういうことになるでしょうか。

     日弁連のそうした対外的な活動が、必ずしも積極的な支持ではなく、黙認を含めた会員の姿勢で成り立ってきた現実があることを考えれば、結果として、今、何が失われようとしているのかは明らかです。国家秘密法反対運動に関しての司法判断(1992年東京地・高裁)が、会員個人の思想・信条と切り離すという考え方で、日弁連という組織でしか弁護士法の使命が達成できないことがあるという結論を導いた背景には、裁判所もこうした日弁連の現実を読み取っている、とみることもできるのです。

     黙認といえば、結局、会員がこだわらない環境が日弁連の活動を成り立たせてきたということになってしまいますが、産経の前提に立たなければ、「改革」による弁護士の経済的な環境の激変、これまでには感じないで済んできた会費負担感の上昇によって、結果的に何が行われなくなってしまうのか、という視点で、私たちはとらえられるはずなのです。

     そう考えると、私たちが、今、日弁連について、懸念すべきなのは、「左傾化」よりも、むしろ「右傾化」の方ではないか、と思えます。しかも、政治、社会が「右傾化」しているようにとれる今、その中で専門家集団として筋を通す組織が消えるという危機感の方が、産経の「左傾化けしからん」の切り口より、ある意味、説得力を持つのではないでしょうか(「『NO』と言える弁護士会」)。権力にも、時に多数派市民にも忖度することなく、日弁連にはきっちりいうべきことを言ってもらわねばなりません。そうでなければ、それこそ何のための弁護士自治か分からない、というべきです。

     弁護士自治・強制加入不要論も含めた、日弁連の組織と活動をこれまで支えてきたものを失わせる方向の、前記したような会員意識の変化は、日弁連・弁護士会の弱体化という、「改革」の真の目的をうかがわせるものといえます。日弁連主導層は、これまで何が日弁連がその存在意義をかけて譲れないはずの活動を支えてきたのか、そして「改革」の影響を直視し、それを維持するために、まず、今、何をすべきなのかに、危機意識を持って向き合うべきです。


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    「いらない」論の深層

     今、弁護士会からは、さまざまな「いらない論」が聞えてきます。司法修習、法科大学院、弁護士自治・弁護士会強制加入、そして、その意味も含めた日弁連・弁護士会まで。改めて言うまでもありませんが、さまざまな異なる意図や方向性を持った、これらに対する不要論は、今回の司法改革が結果的に生み出したという点では、共通しています。そして逆に、それらの立場を大きく分けているのは、弁護士会内にある「改革」に対する肯定的・否定的の二つの立場、とみることができます。

     弁護士会内の前者の立場は、「改革」に対する積極的もしくは消極的な肯定論に依拠しています。有り体に言えば、本心からか強がりからかはともかく、増員政策や法科大学院を中核とした新法曹養成制度導入は間違っていない、課題を残しながらいまだ決着ついていないという主張か、この「改革」は相当予定とは違うが、もはや取り返しがつかないから、それをいったん受け入れ、この現実を前提に自分たちの要求は示そうという主張に分けられます。

     一方、後者の否定的立場は言うまでもなく、「改革」の失敗を直視し、やり直せ、もしくはこれ以上被害を広げないために、「改革」路線をストップさせろ、という立場になります。個人によって、この認識には濃淡がありますが、基本的に「取り返しがつかない」「手遅れ」という見方ではなく、今からでも元に戻せ、戻せるはず、というニュアンスが、その主張に込められます。

     弁護士会内から聞こえてくる修習不要論には、以前から大きく2種類のものがあります。一つは法科大学院制度と結び付いたもの、もう一つは実務的な内容のニーズにかかわるものです。前者は官僚裁判官批判と結び付き、最高裁支配の研修所教育から脱却した、法科大学院を中核とする新法曹養成は、弁護士会が法曹養成についてイニシアティブを握る千載一遇のチャンスととらえた弁護士たちが当初から念頭にあったものです。いわば、弁護士会内法科大学院擁護派の源流につながっている見方といえます(「『法科大学院』を目指した弁護士たち」)。

     一方、後者はとりわけ企業系・渉外系志向の若手弁護士らが、研修所での刑事弁護などの教育の必要性を疑問視する見方から聞かれたものですが、声には出すかはともかく、ベテラン層にも、その見方に一定の理解を示す弁護士がいたことも事実です(「司法修習不要論への足音」) 。

     法科大学院関係者のなかには、志願者減という現実を抱えるなかで、予備試験も司法試験合格率も、そして司法修習の存在も、本道主義死守のためにはなんとかしてもらう、という発想が見え隠れすることがあります。もちろん法科大学院が文字通り、中核的立場として、それらに代替する役割をしっかり果たすのであれば、話は別かもしれません。ただ、新法曹養成制度の実績として、それは示されているのか、という根本的な問題に突き当たります。

     弁護士会内の修習不要論は、そうした大学側の思惑と一致して、法科大学院本道主義を支えるものとなる可能性があります。そしてそれは、志望者減、新プロセス強制が多様な人材確保へ障壁になっているという結果から、旧司法試験再評価と同義の、受験要件化廃止を含む法科大学院廃止論とは、当然に対峙することになります。

     弁護士自治・会強制加入不要論の台頭は、弁護士会内の「改革」推進派にとって、最も想定外のことだったといえるかもしれません。「改革」の弁護士激増政策の先に、会員のそうした要求が会内部で高まっていくという事態が、当初の彼らの頭に浮かばなかったのは、ひとえに増員政策が、個々の弁護士の経済状況を痛打する形で、ここまで失敗するとは思わなかったということで説明がつきそうです。

     あそこまであるとされた潜在需要が、弁護士を増やしても顕在化しないという悪夢。そのなかで、会費の高額さを含め、弁護士会の強制加入の負担感は、弁護士会自身が旗を振ってしまった「改革」の結果として、会員には重いものとしてのしかかり、いまやそれはこのその結果を受けとめて、生きていこうとする会員にとっては、取り払われるべき「規制」として意識されるまでなったといえます。

     「『改革』を知らない世代が増えた」という言葉が、会内のベテラン層から異口同音に聞えてきます。その世代は、弁護士自治の本来的な存在意義への現実感もさることながら、この現状と「改革」を結び付けていないだけに、より当然に、より純粋に「規制」撤廃としての自治不要論に傾斜する可能性をはらんでいます。「改革」による喪失感はなく、もちろん元の姿への現実感がないだけに、そこに戻せるという現実感もない。だから必ずしも「改革」の責任という批判的な立場には共感せず、むしろ会員自身の生存をかけて、競争状態にさらしながら競争の足を引っ張る不当性を問題視している、ように見えます(「『弁護士自治』崩壊の兆候」)。

     「改革」路線を基本的に肯定的にとらえている会主導層が、「改革」の結果として生み出されている、こうした自治の内部崩壊につながる会内世論の台頭を楽観視しているようにもみえるのは、あるいは彼らの立場からは、そうしたことは、依然あってはならない、認められない結果である、ということ意味しているのかもしれません。結果として、想定外そのものを認めていないということにもなります。

     なぜ、今、このことをあえて取り上げたのかといえば、こうした弁護士会内の、さまざまな「いらない」論を聞いていると、「改革」が一体何のため、誰のために行われ、今も行われようとしているのかが、ますます分からなくなってくるからです(「『前向き』論への視点」)。「改革」の、この結果を分かっていたならば、「改革」は実施させなかったかもしれない、という仮定が成り立つのであれば、不要論の向こう側にある「改革」は、果たして本当にあるべき法曹養成やあるべき弁護士会に向いたものなのか――。やはり、どうして今、こういうことになっているのかを抜きにしては、私たちはその本当のこたえにたどりつけないように思えます。


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    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


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