弁護士の使命と事業者性をめぐる現実的視点

     一事業者である弁護士が、ある種身を削って、公益的な仕事を行っていくことの無理が、いまや普通に弁護士の口から聞かれます。弁護士法の「基本的人権の擁護と社会正義の実現」という弁護士の使命に対する解釈としては、あくまで有償案件、つまりは事業者として成立する仕事を手掛けるなかで実現されていけばよい(そうした業務のなかでも十分にこの規定が意味をなしている)ことの方を強調する人は、かつてから弁護士会のなかにもいましたが、いまや当たり前のように、それが言われます。

     さらにいえば、若手のなかには、この使命規定の無用論まで口にする人さえ出始めています。この使命規定が、有償案件について対価を得て、サービス業としてこなすこと以上の社会の期待を、この仕事に被せることにつながっているという見方。そこから、弁護士自身がもはやこの規定に共感できない、理解できない、という状況が生まれている、といえるかもしれません。

     これは、改めて言うのもおかしな話ですが、あくまで「改革」の結果です。弁護士増員によって経済的により厳しい立場に立たされた弁護士は、これまで以上に弁護士の事業者性を意識し、また、余裕がなくなった。その結果として、弁護士会活動や自治・強制加入を含めて、この前記使命のもとで、あいまいに許容してきた部分や、現実に参加していた部分について、強くこだわり出した(こだわらざるを得なくなってきた)、ということなのです。

     その意味では、かつて弁護士の改革について主導した中坊公平弁護士が、事業者性の犠牲の上に公共性を追求することこそ市民が求める形であるとして、あたかもそうした弁護士を生み出すかのように描かれた「改革」の結果と、現実は真逆なりつつあるようにみえます。当時、この捉え方に異を唱えなかった多くの弁護士たちの意識を思えば、大量需要の発生による弁護士業の揺るぎなき経済的安定、いわばちょっとやそっと事業者性を犠牲にしても、多くの弁護士がそれを死活問題として目くじらを立てない、余裕ある未来を思い描いていた証明ではないか、とすら思ってしまうのです。

     本当にこの国に、前記使命から有償ではない無償の(採算性がとれない)、弁護士が取り組まなければならない案件が大量に存在し、それを一事業者である弁護士が引き受けなければならないというのであれば、何度もここで書いているように、基本的に医師における保険制度のように(保険には限りませんが)それを経済的に下支えするものが検討されなければならないはずです。むしろ、そのことを「改革」結果がはっきりさせた、といえます。

     ただ、あえて逆のことをいえば、弁護士の事業者性を犠牲にする中で、前記使命が実現されていく、という形が、好都合といえる社会的な事情が、ひとつだけあるように思います。弁護士・会がかかわってきたそうした案件が、必ずしも社会的なコンセンサスを得られるものではない、という現実です。少数者・弱者の人権、誤判・冤罪事件など活動、さらにいえば刑事被疑者・被告人の弁護はいうに及ばず、他人の民亊事件の救済・援助に至るまで、なんらかの形で税金が投入されることそのものに、実は抵抗がある。

     「なぜ、『犯罪者』に」「なぜ、他人の紛争に」というところから説き起こさなければならないことが存在しているのが、弁護士の仕事を取り巻く現実なのです。最近の当ブログのコメント欄で、「法テラスは勤勉な納税者に見返りがない」として、本人訴訟の当事者は納税者であるのに、「貧乏で非課税の相手方」が法テラスで弁護士を付けているのは不条理、不公平という見方が出ていました。これも現実といわなければなりません(「弁護士『多様性』後退という結果」)。「明日は我が身」的な論法で、当事者的理解を求めるのは、弁護士会の主導層の一部が考えている以上に困難である現実が、弁護士の仕事を取り巻いているのです。

     だとすれば、といわなければなりません。「改革」の結果として、弁護士はやはりより事業者性こだわり、かつて弁護士・会が支えてきた分野に目をそむけ、かつ、それでも所詮弁護士の経済基盤を下支えする制度的議論など生まれない(弁護士会主導層が強調するほど、そこまで弁護士がインフラ視されていない)。そうであれば、かつてのような形の方がよかった、というよりも、実はそれでしか支えられないものが存在したのではなかったか、と。つまりは経済的な安定や余裕を奪えば、実は失われるものが存在していた、という問題なのです。

     一事業者としては、いわば特殊な使命を持つ弁護士が、それを自ら実現することに、もちろん社会は異を唱えない。むしろ、税金を投入する制度的担保よりも、よほど歓迎されるでしょう。それを不十分ながら担保する経済的な安定が、現実的にあったときの方より、弁護士の意識・動向を含め、前記「改革」後の状況の方が、社会にとって有り難いと果たしていえるのか、という気持ちにどうしてもなるのです。これによって、自治を含めて弁護士会そのものが崩壊していくのであればなおさらです。

     かつて弁護士が自力ともいっていい形で、主導的に支える協会によって、法律扶助制度が運用されていた時代、それにかかわっていた「扶助閥」ともいわれた弁護士たちが、異口同音に「われわれは国家がやるべきことを自力でやっている」という趣旨のことを、胸を張っていうのを耳にしました。国の責任という点も、ある種の限界を感じていた点も当然ありましたが、一方で、ある種の自負が原動力になっていた面もあったようにとれました。そして、そういう犠牲的な意味での自負が、弁護士会活動のなかに現在に至るまでずっとあることも事実で、そこがまた今や会員のコンセンサスが得られなくなってきている、ともいえます。

     過去のような、経済的な余裕に支えられた弁護士の公益的活動も、「改革」が描いた事業者性の犠牲の上に公益性が求められるという未来も、ましてや前記自負で取り組む活動なども、いずれも所詮無理だったし、どれも望ましい形ではなかったのだ、というのであれば、ただ単に「改革」がもたらした、弁護士のさらなる事業者性の目覚めを、私たちは当然の結果として受けとめればいいということになるのかもしれません。ただ、そうであればなおさらのこと、過去との比較において、私たち利用者は現実的に何を失ったか、あるいは失いつつあるのかも知っておかなければならないと思うのです。


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    弁護士「多様性」後退という結果

     弁護士の「多様性」は、利用者市民に直接跳ね返ってくるテーマといえます。専門的資格業という意味では、試験と修習を経て、一定の資質や能力が限りなく均一に備わっている、そのことを出来る限り、現実的に、資格が保証しているという形以上に、利用者市民が安心できるものはないはずです。資格のあり方としては、付与する側も、支える側も、それを理想として、あるいは究極の目標として、それに近付ける努力をすべきだし、その姿勢から資格への信用も育まれていくと思います。

     ただ、ここで言いたい弁護士の多様性の確保とは、限りなく均一に備わっているはずの能力によって、さまざまな層の利用者市民の、さまざまな問題を解決し得るというだけではなく、現実的にその受け皿となる弁護士側の意思や環境が、依頼者市民にとって有り難い形で担保されているかどうかの問題であるということです。

     弁護士が、あらゆる階層の立場の弁護をする存在であるということは、これまで、だから「少数者や弱者の味方とは限らない」「反権力や人権派とは限らない」「富裕層の弁護だってする」という方向で強調されてきた印象があります。弁護士の一般的なイメージに対するアンチテーゼとしていわれている面はあるかもしれません。ただ、現実的には、逆に弁護士会の多数派が、「少数派弱者の味方」や「反権力」だったというわけではなく、むしろもともと少数派なのです。

     むしろ「あらゆる階層」に対応する社会的な役割を担っているのであれば、従来から必ずしも経済的妙味のない案件でも引き受ける意思のある人材がどれだけ確保されているのか、さらにいえば、彼らが現実的に活動できる環境がどれだけ整っているのかが重要なのです。そして、多様性の確保とは、全体的にみれば少数であったとしても、そうした人材が確実に含まれることにこそ、本当の意味があるはずなのです。

     言葉としては「多様な人材」の確保をうたった司法改革は、その意味では、全く逆の効果を生み出しているようにしかみえません。増員政策によって競争・淘汰を意識することになった弁護士たちは、以前よりもはるかに採算性を意識し、意識せざるを得ない状況に追い込まれました。いまや企業や自治体に勤務する組織内弁護士が弁護士の未来を背負っていくような扱いになっており、それがあたかも「改革」が生み出した「多様な人材」であるかのような扱いもありますが、自由業弁護士として培われ、担保されていた多様性は逆に失われつつあるようにみえます(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。

     修了の受験要件化という強制化を伴った法科大学院制度という新プロセスは、そのうたい文句とはうらはらに、誰でもチャレンジできた旧司法試験体制よりも、はるかに社会人など「多様なバックグラウンド」を持った人材には高いハードルを課すことにななり、現実的には彼らを排除するものになりました。新法曹養成制度における「多様の人材」確保という目標設定そのものが疑わしいものに思えます(「『多様性』のプライオリティ」)。

     給費制廃止や法科大学院制度をめぐり、「おカネ持ちしかなれない」という指摘は繰り返しなされてきましたが、経済的な意味での人材の階層化も、明らかに旧制度より懸念されています。そもそもプロセスが重視される教育でない方が、これまでいわれてきた在野性ということにつながるような反権力性や反骨精神が育つという意見もあります(永井俊哉ドットコム)。

     これまで以上に弁護士が採算性を追求し、無償性の高い業務への関心をなくし、結果的に少数者弱者の権利擁護や人権、反権力といった分野の担い手も、減らしていく――。かつて「増員させなければ同志も増えない」とばかり、母数を増やすべきという発想から、人権派の弁護士が増員必要論を唱えたことがありました。相対的少数派の立場がそうした発想にさせたことは理解できますが、現実は増員が、既存の同志もまた経済的に追い詰め、より新人も参入できない環境を作ってしまったといえます。意思ある人材と生存できる環境の両方が備わる必要だったのです。

     冒頭書いたような資格の保証はなく、質は競争・淘汰の成果と利用者市民の自己責任、多様性は後退し、市民は以前のように立ち上がってくれる、かつ良質な弁護士には、より出会えないかもしれない現実。現実に何が失われているのかを直視しなければ、「改革」に対するフェアな評価はできない、といわざるを得ません。


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    破壊された関係をめぐる無理への認識

     個人経営型の法律事務所が、当たり前のように新人弁護士の受け皿になり得ていた時代には、それなりに分かり易く、無理のない両者の関係が存在していました。経営弁護士が新人弁護士に期待したのは、自分が獲得した仕事を忠実にこなす労働力であり、新人はあくまで給料を与える労働者でしたが、そこには基本的に二つの認識があったようにみえました。

     一つは新人が新しい仕事を獲得するのは所詮期待できないし、それは無理という認識。そして、もう一つは、修養期間を経ない新人を一人前の弁護士のように、いきなり依頼者市民に当たらせるのは危険であるという認識です。彼らの立場は、ボス弁にこき使われる苦しい時代という表現もされますが、新人はかつて、この中で仕事を覚え、新規獲得の方法も学び、そして早ければ3年~5年で、あるいは多少の、のれん分けにあずかって、退所・独立という道に進めた。

     ボス弁からすれば、新人を抱えることは、もちろん大幅な売り上げアップを期待するものではなく、また、期待する必要もない経済環境もあり、独立で送り出せば、単純に代わりの労働力としての新人を入れればいい。これを今、弁護士界内から聞こえてくるような、新人の「使い捨て」のようにいう人は、当の本人も含めて、当時、いるわけもありません。

     それはあくまでこのシステムとそれを支えた環境には、無理がなかった、あるいは少なかったからにほかなりません。要は、新人はイソ弁としての修養期間を経て、無理なく、独立への道を思い描き、歩みを進められ、ボス弁は無理なく、後進を育てることができた。そして、同時にそれは、社会放出される弁護士についての、利用者にとっての安全という意味でも、一定限度貢献するものとなっていたようにみえました。

     それだけに「改革」の増員政策の結果として、事務所に机だけをかりる「軒(ノキ)弁」や、いきなり独立する「即独」が登場したとき、非常に気になったのも、これに対する既存弁護士の無理への認識でした。いうまでもなく、長年業界で繰り返されてきたこのスタイルを認識し、自らもそのなかで一人前になった彼らこそ、その無理とその負の影響を一番分かっていておかしくないと思えたからです。

     ノキ弁は経営者がらすれば雇用のハードルを下げることにつながり、新人としてはわずかに仕事のおこぼれにあずかったり、とりあえず名刺を持てるというメリットもいわれます。ただ、それは独立への修養が確保されたかつての状況とは比べものになりませんし、さらには修養を経ない新人に自らの事務所の信用をくっつける名刺を与えて果たして依頼者市民は有り難いのか、という視点が欠落している点でも、隔世の感があります。

     もっとも、ノキ弁に向って「お前、思ったより全然稼げないじゃないか」という愚痴を公然とぶつける親弁がいるという話まで伝えられていますから、もはや新人への目線は根本的に変わりつつある、ということもいえるかもしれません。それも一番の問題は、かつてと今とでは、どちらが依頼者市民には有り難い話なのか、ということになります。

     いまでも弁護士会内から、増員政策への批判的立場で出されるアピールでは必ず負の影響として、OJTの喪失が指摘されるように、雇用する個人事務所の弁護士を直撃した経済的環境の激変よって、まさに業界で長年当たり前になってきた関係は崩れはじめました。即独やノキ弁が登場する時代のOJTの確保については、会内の「改革」推進派のなかにも、それなりの危機感があり、支援の動きも出てきましたが、ただ、常に気になったのは、冒頭の「無理」に対する認識です。「改革」の現実の前に、彼らはそれをどこまでこだわるべき「無理」と考えたのか、そして、それを責任としてとらえたのか――ということです。

     「改革」批判者のなかには、その無責任さを直接批判する人たちもいましたが、「改革」推進者と多くの沈黙するその支持者は、不思議なくらい「ご時世」というように、仕方がない現実として、あるいは「改革」を推進・支持する側にありながら、どうすることもできない現実として受けとめたように見えました。少なくとも、彼らはこの現実をもって、あるいは自分たちが百も承知の「無理」の認識をもって、「改革」の結果を批判するわけではなかったし、有効な解決の見通しを持っていたわけでもなかった。

     弁護士の就職状況は既に回復傾向にあるようにいう見方もありますが、「市民のための『改革』」とは矛盾するような町弁の衰退(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)に沈黙し、企業内弁護士の将来性に注目して、会員にもっと弁護士の魅力や将来性の発信を求める「改革」推進派の、現在の姿勢も、この「無理」について(社会が思い描き、志望者が期待するような独立開業型の資格の今の姿を含め)、果たしてそれを良心的に伝えるものなのか、という根本的な疑問を持ちます。

     この間の「改革」による弁護士の経済的異変に着目した経済誌などは、決まって弁護士界内に既に階層が存在するように色分けし、大手事務所、新興事務所、中小の町弁と、それぞれに働く新人弁護士の姿をイラストで伝えたりしています。ビシッとスーツを決めた大手事務所の弁護士と、町弁、ノキ弁、即独弁護士の少々くたびれた姿には、極端・誇張しすぎという声も業界内からは聞こえてはきますが、それでも現実を社会に伝えようとする姿勢から考えれば、弁護士会推進派や主導層よりも、よほど良心的ではないか、という気さえしてくるのです。


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    「改革」と弁護士処遇をめぐる誤解

     一時代前の多くの弁護士たちには、基本的に自分たちが社会から処遇されないなどいうことは考えられなかったと思います。少なくとも、正当に処遇されないかもしれないという不安感は、たとえ報酬に対する依頼者の不満に接することがあったとしても、希薄だったのではないでしょうか。

     それは、この「改革」に対する彼らの当初の受けとめ方のなかでも、変わらなかったようにみえました。弁護士の間では、いわゆるこれまでの自分たちの「敷居が高さ」を反省として受けとめる言を度々耳にしましたが、これも本来弁護士に頼るべき人が頼れない環境を自ら作ってきたという捉え方の反省でした。

     法曹人口増の必要性への捉え方も、弁護士会の市民へのPRも同様ですが、常に自分たちは社会から必要とされ、必要とする人たちが実は潜在的に沢山存在しているという見方が根底にあります。だから、弁護士を増やせば、弁護士への誤解を解けば、報酬が透明化されれば、アクセス障害をなくせば、身近に弁護士がいれば、市民は頼ってくる。「改革」が自分たちに突き付けた努力も、そのこととして受けとめた。そして、その先に疑いもなく、自分たちは処遇される、要は自分たちに適正におカネが投入されるのだ、と(「日弁連『フレンドリー』広告の見え方」)。

     「改革」はどうもそうではない、ということを、既に多くの弁護士たちに気づかせることになったようにみえます。この誤解には、二つの要素があるように思います。一つは度々書いているように、自分たちが必要とされるという、いわば需要の有償性・無償性をごちゃまぜに理解していたこと。いうまでもないことですが、無償性の高い需要が沢山あり、そこに弁護士を求める必要論があったとしても、その受け皿になる多くの弁護士にとっては、不適正な処遇が当然のこどく待ち受けていたのです。

     そして、もう一つは、それにもかかわらず、弁護士会内を含めた「改革」主導層は、弁護士の公共性やさらには「奉仕者性」までをアピールした、とい点です。事業者性(採算性)を維持しながら、あるいは一定限度、それを犠牲にすれば、弁護士は社会の必要論に応えられる、という描き方になります(「『改革』が曖昧にした弁護士業と商業主義」)。弁護士自らか、これを可能といえば、ある意味、弁護士がとてつもなく儲けている(ちょっとやそっと事業者性を犠牲にしても、社会の無償性の高いニーズにこたえられる)と自認しているととられても不思議でありせんし、それは社会的なイメージとも合致してしまいます。

    無償性の高いニーズに向き合わなければならないのてあれば、弁護士は本来、どこからか助け舟が必要だったのです。しかし、そうした方向の議論はされなかったし、ある意味、弁護士会自らが、その「改革」スタンスによって、そうした方向の芽を摘んできてしまったのではないか、と思えます

     公共的なサービスに対して、自らが納税者であることを掲げて、無理難題を要求する層が、この社会に一定限度存在するという話を聞きます。無償でやるのは当然、普通の民間ではできないことでもやるのが当然、と。市民が行政に要求するものは、もちろん当然に認められていいものもありますが、どこか弁護士が自認した「公共的」イメージと、儲けているイメージとつながった「できる」という姿勢が、民間事業者でありながら、まるで前記公共サービスに要求するような無理を、一部弁護士に突き付ける市民を生み出しているようにすら見えるのです。

     企業内弁護士(インハウス)の急増を取り上げた8月21日付けの日本経済新聞朝刊の記事が、IT企業などでインハウスの需要が高まり、司法試験合格者の減少と、修習制度がインハウス育成に合っていないことから、人材供給が追い付いていないと報じ、これを受ける形で、同新聞法務報道部は、「弁護士は余っている」という見方は当てはまらなくなってきている、とツイートしました。

     しかし、この記事には、採用する側の意向ばかりで、不思議なくらい弁護士の適正処遇に触れるところがありません。ある弁護士ブログが指摘しています。

     「募集に応募がないのは、提示している条件が低いことが原因でしょう。相応の対価を支払おうとはしない求人は、そもそも需要とは言えないのです。法科大学院への学費負担、司法試験不合格のリスク、司法修習の貸与、学部卒業時に就職しなかったことによる逸失利益。これらの経済的負担やリスクを負ってまで弁護士となったことに見合う対価が得られなければ、これから弁護士になろうと思う人は出てこないでしょう」
     「この記事に対する一番の違和感は、たしかに企業が提示した条件に応募がなかったのだとしても、その企業があまり困っている感じがしないところだと思います。企業にとっては、『いると便利』かもしれないが、『いなくても別になんともない』のが、今のインハウスの実態ではないでしょうか」(「Schulze BLOG」)

     つまり頭から、弁護士を適正に処遇していない可能性を疑うことなく、「弁護士が余っている」わけではないと、決めつけているのです。沢山いながら、こちらの条件をのんで来ないのは弁護士の勝手、ということになりますし、そういうイメージが一般化すれば、それこそ前記ブログ氏がいうような「改革」が生んだ、今の弁護士の現実につながる問題に、ますますたどりつけないはずなのです。

     しかし、ここには弁護士・会側の責任もあります。「改革」のなかで、自分たちが何を誤解し、どういうスタンスが逆に社会の誤解を招き、またその誤解を止められず、自らの適正処遇に跳ね返る現実を生んでしまっているのかーーそうした視点が必要なはずなのです。


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    「改革」が曖昧にした弁護士業と商業主義

     弁護士の業務広告の「解禁」が注目され出したころ、ある広告業界の人間が、これに懸念の声をもらしたのを覚えています。「弁護士・会は大丈夫だろうか」と。もともと全面禁止されていた弁護士の広告が、1987年に「原則禁止・一部解禁」となったときも、2000年に「原則解禁」となったときも、広告業界では、これに注目し、そこにビジネスチャンスがないかを模索する動きがありました。

     しかし、当初、同界関係者からは、ほどなく少々肩すかしを食らった、当てが外れた、という声を沢山聞くことになりました。それは、予想以上に当の弁護士が広告に食いついてこなかったから、でした。当時の多くの弁護士のなかには、広告で依頼者を集めるということに、まだ、抵抗感があった。彼らは、意識として、広告と弁護士業務をつなげてみていなかったし、まだ、手段としても妥当なものとはとらえられなかったのです。

     ただ、前記広告業界の人間が、「大丈夫か」と懸念したのは、そのことに関してではありませんでした。それは端的に言えば、そうした弁護士の広告に対する消極的な意識のことではなく、むしろ広告そのものへの認識についてでした。弁護士会の広告規制緩和の方向は、常に情報公開という目的だけで議論されているように見えるが、実際の広告はもっと積極的な顧客誘引を目的としたものであり、その目的のために、手段が駆使されるのが広告なのだ、と。

      「解禁」といっても、本来のあるべき弁護士の姿、あるいは他のサービス業とは違う実害をにらんで、規定によってさまざまな規制がかけられている弁護士広告。それを一見した広告業界関係者のなかには、「こんなに手かせ足かせでは、広告として難しい」、要は前記駆使できる手段を駆使できない、という人もいました。

     しかし、前記関係者はそうではなくて、もし、弁護士が弁護士業の特質から規制をかける方が、ふさわしい、それの方が依頼者への実害がない、と考えるのであれば、この方向は果たして「大丈夫なのか」というのです。競争が激化すれば、そうしたあるべき形を乗り越えて、むしろ現実の広告、つまりは、顧客誘引につながる、それなりの誇張や有利な情報の抽出、正確な事実よりも、より顧客が魅力に感じるような比較や表現などが駆使される現実に、弁護士は徐々に取り込まれるのではないか、というのでした。

     ここで感じたことは、結局、弁護士業と商業主義の位置取りは、一般には分かりにくいという現実でした。そして、いま、改めて考えてみれば、この「改革」の推進論のなかでも、弁護士自身がどこかこのテーマをあいまいにしてきたように見えるのです。

     弁護士の増員政策による、これまでになかった競争状態の到来に、多くの弁護士は、これまでとは違った一サービス業としての自覚の必要性を感じた、ようにみえます。逆に「改革」が自分たちに、その覚悟を求めたのだ、と。当然、弁護士の特殊性よりも、むしろサービス業としての一般性により着目し、他のサービス業が駆使している手段を、もっと自分たちも選択すべき、という方向になります。

     ところが、「改革」路線、また、これを受けとめた弁護士会主導層は、ある種建て前ともとれる姿勢をとり、ストレートにそうした自覚を会員に求めたわけではなかった、といえます。むしろ、そこで強調されたのは、それまでの個々の弁護士が当事者主義訴訟構造のながて実践してきたものでは足りないとする、プロボノを含む「公益性」、それを受けとめる「奉仕者性」だったのです。

     以前も書きましたが、弁護士の「改革」を主導した中坊公平弁護士は、当時、弁護士像に対する二つの考え方を提示し、「一つは、当事者性・事業者性を中心において、公益性を希薄化させる考え方。もう一つは、当事者性・公益性をともに追求しつつ、そのこととの関係で事業者性に一定の制約が生ずることを是認する考え方」として、「市民や社会が求めているのは後者」と結論付けていたのです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     「改革」の先には、これまでサービス業として商業主義を意識してこなくて済んでいた弁護士たちが覚醒を余儀なくされ、社会はこれからそういう弁護士たちを見ることになるのだ、ということよりも、これまでなんだかんだいって儲けていた弁護士が、「改革」によって、逆に事業者性を制約してまで、「市民や社会の求め」に応じて、公益性に目覚める、と。それが「改革」なのだ、ということを弁護士にも、社会にもアピールしたことになります。

     この「市民が求めているのは後者」という断定は、あたかも前記公益性と事業者性の両立が、弁護士の一存で、いわば心得一つでなんとかなると描いているようにとれますが、逆にそれが成り立たせるための現実性、採算性という視点を遠ざけた、といえます。

     ただ、「改革」について肯定的にみていた会員のなかにも、この点を懸念する見方はあったのです。2004年に行われたシンポジウムである「改革」推進派の弁護士は、こんな認識を示していました。

     「21世紀の日本の弁護士の特徴は、弁護士人口の増加、それからこれからの日本の社会構造が、だんだんと弁護士のサービスを必要とする社会構造になっていくということで、弁護士の活動の場が非常に大きくなっていくと予想しています。(中略)企業の社長から、政府機関、国際機関、NPO等でも活躍される方が増えていくのではないか」
     「弁護士の専門家、業態の多様化、例えば過疎地に公設事務所ができたり、弁護士100人規模の事務所がたくさんできたりというようなことで、非常にバラエティーのあるニーズに応えていくことができるようになるのではないか、と思います。また、規制緩和が進んで、市民が弁護士にアクセスしやすくなるのではないか」
     「弁護士間の競争が、これは弁護士人口がふえたりして激しくなりますから、例えば、弁護士の報酬等が一層透明化して、いわば市民に利用しやすい市民本位の弁護士制度に多少ともなっていくのではないか」
     「逆に幾つかの課題が生じることも事実ではないかと思います。(中略)弁護士の産業化現象、あるいはコマーシャリズムというものが浸透していく可能性があります。これは規制緩和の裏返しの問題ですけれども(中略)今までは弁護士はある程度特別な職業とみられていたのですが、だんだん普通のサービス業だと考えられるようになる」
     「そうすると、弁護士はサービス業なんだから儲けてもいいじゃないかと考えるようになる人が、かなりふえてくるのではないかということであります。こうなりますと、金のある人には業務を提供するけど、そうでない人には提供しないというような問題も起こってくる、そういう可能性があることを私は憂慮しています」(シンポジウム「21世紀の弁護士像及び弁護士会のあり方」

     これを読んだ、「改革」論議を知らない、若い弁護士のなかには、後段で指摘されている「課題」か、そもそも、なぜ「課題」なのかも伝わらないかもしれません。いうまでもなく、弁護士増員を通して「改革」が突き付けた現実からすれば、産業化もコマーシャリズムの浸透も、サービス業としての採算性の追求も、当然帰結ととらえておかしくないからです。

     今、「改革」の結果を知ってしまった目線でみると、前段の効用は非常に楽観的な、「改革」への期待の羅列でしかないという気持ちになりますが、それ以上に、当時の視点で考えて見ても、後段のような課題(これを課題とみるならば)が生じることが分かっていながら、どうして前段の「成功」が成り立つと考えられたのかに、不思議な感じがしてきます。前記中坊氏の見立てとも重なりますが、一定のサービス業化は求められても、弁護士の心得次第で増員弁護士が生存し、弁護士が市民や社会の求めにこたえられるほどの、経済環境が生まれるといった、とてつもない楽観視があったとしか説明のしようがない、といわざるを得ません。

     一方で「改革」の自覚として受けとめながら、その成果・結果を成り立たせる現実や条件を切り離して、都合よく、描いている――。あの日、広告業界関係者が弁護士広告への弁護士・会の姿勢に感じたことも、このことではなかっかと、いまさらのように思うのです。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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