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    「国民の司法参加」論議の欠落感

     今回の司法改革で、大きな目玉として、注目されることになった「国民の司法参加」というテーマ。最終的に国民を裁きの場に強制徴用して、職業裁判官とともに、量刑まで関与させる裁判員制度にたどりつくことになったわけですが、いまさらいうまでもなく、国民のなかにこのテーマに対する強いこだわり、あるいは欲求が存在していたわけではありません。あくまで、これを根付かせようとした方々の発想に基づき、国家が上からの導入を図ったものです。

      ただ、その過程で、このテーマは、本来的には国民が当然に持つ二つの疑問に向き合わねばならなかった、いうべきです。その一つは、なぜ、強制されなければならないのか、そして、もう一つは、なぜ直接参加でなければならないのか、ということです。

     結論からいえは、裁判員制度導入に至る議論が、果たしてこのテーマに真正面から向き合ったのかは、甚だ疑わしいといわざるを得ません。繰り返された「民主的」効果、国民の意思の反映や、逆に裁判への国民の理解という効用をいう意義、「お任せ司法」論、義務化・強制の現実をあたかも極力薄めようとするかのような国民の権利論、そしてお決まりの諸外国の実践例等々。これらが、本当に前記二つの疑問に向き合い、それにこたえたといえるのか、という問題です。

     例えば、「統治客体意識」などと烙印を押された「お任せ」体質を本当に多くの国民は了解したのでしょうか。おそらく、裁判員制度を知っていても、その過程で、国民がこうした烙印を押されていることに、多くの人は自覚的でないと思います。納税者であり、資格の選抜と特殊教育を施された専門家への信頼を基に、いわば託してきた司法判断を「お任せ」扱いされること、それがあくまで司法自体の、あるいは専門家の改革ではなく、国民の直接参加を必要としなければならなかったのか、そしてさらにいえば、なぜ、この憲法にも規定がない強制が参政権に例えられるような権利になるのか――。

     有り体にいえば、このテーマをめぐる議論は前記疑問にこたえたわけではなく、制度導入を前提に、前記論法を繰り返しながら、疑問そのものは極力喚起しない姿勢がとられた。それに法曹三者も大マスコミも一体で協力した、というのが事実ではないかと思えるのです。

     ところで、この「国民の司法参加」については、陪審・参審といった「直接」ではなく、「間接」的参加という形が存在します。日弁連は2000年9月に発表した「『国民の司法参加』に関する意見」のなかで、のちに司法制度改革審議会意見書にも反映することになる、最高裁判事国民審査制度の見直し、下級裁判官任用手続きや裁判官職務評価への参加といった、「判決」ではなく、裁判官という「人」について、現行制度の透明性の向上や民意の反映を求めていくことを、「間接」参加の形として挙げています。

     ただ、実は「間接」参加とは、これにとどまらず、もう一つ肝心な形がありました。かつて小田中聰樹・東北大学名誉教授は、自身の論稿のなかで、こう書いています。

      「国民が裁判者となる制度的な司法参加のほかに、裁判批判や裁判運動・裁判闘争などの非制度的な国民参加の形態がある。訴訟資料の綿密な検討を踏まえ、問題点を広く国民に訴え、世論を喚起し、これを背景に事実と論理を説き、裁判官の良心に訴えていく――このような裁判批判と裁判運動は、刑事裁判のみならず国民の権利や生活を守るさまざまの裁判において展開され、貴重な成果を上げてきた。このことは、松川事件をはじめとする冤罪事件裁判や公害裁判の例を思い起こすだけで十分に理解することができるであろう」(『国民の司法参加』、岩波書店「日本の裁判」)

     小田中氏がいった「非制度的な国民参加」の原動力となってきたのが、ほかならない弁護士たちであることを、最も分かっているはずの日弁連が、なぜ、「制度的」参加だけに目を向け、そのことに言及しなかったのか――。裁判員制度批判論のなかで聞かれるように、国民を裁きの「共犯者」として取り込む裁判員制度が、結果として小田中氏がいう裁判批判、裁判運動にどういうベクトルで作用することが懸念されているのかを考え合せると、嫌な感じがしてきます。

     小田中氏は、こうした裁判批判、裁判運動の一層の発展の先に、優れた陪審・参審制度が生み出され、「自由と人権の砦」としての機能を果たしていく、といった未来図をここで提示していましたが、実際のわが国の「国民参加」は、不幸にして、そうではない形でもたらされました。

     思想・信条の自由も脇においた「強制」をあっさり受け入れたのと同様、あの時、制度導入ありきの発想のなかで、弁護士会はここでも本来守るべきものを捨て去ったのではないか。そんな思いがしてくるのです。


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    「量刑関与」への市民感覚

     たとえ裁判員裁判であっても、他の裁判との公平性を保つ必要があり、過去の量刑傾向から大きく外れる場合は、具体的で説得力ある説明が必要――。裁判員裁判の量刑判断について、7月24日に示された最高裁初判断は、「市民感覚」の量刑に一定の歯止めをかける形になりました。これに対して、制度の意義からは、すぐさま案の定の懸念論が聞かれます。

     裁判員制度推進派の論客として知られる四宮啓・國學院大學法科大学院教授は、同25日付け「朝日新聞」朝刊に寄せたコメントの中で次のように語っています。

      「刑の公平性はもちろん大事だが、量刑にも国民の良識を反映させようというのが制度の趣旨だ」
      「この判決の影響で裁判官が評議で量刑傾向を強調し、裁判員が自由な意見表明をしづらくなれば本末転倒だ」

     ここで問われているのは、量刑の均衡・公平さと、制度の趣旨であるところの市民の良識・感覚の反映が対立する場面であり、懸念論はいうまでもなく、量刑が市民感覚から離れることによって、制度の意義から外れることを、まず心配しているといえます。

     ただ、あえていえば、この懸念自体は、制度推進派のそれではあっても、果たして「市民感覚」なのだろうか、と疑いたくなるのです。端的にいえば、仮に事実認定に関与したとしても、そこから先、過去の量刑との均衡の重要性よりも、量刑への反映を重く見て、そこが阻害されるという懸念が、果たしてこの判決から市民のなかに生まれるのだろうか、という気がしてしまうのです。

     確かに、この制度が、強制的に呼び出した市民を事実認定のみならず、量刑にまで関与させることになった経緯には、マスコミ報道などを通した市民の量刑への不満が存在し、量刑まで「市民感覚」が踏み込む方が、制度の効用がよりはっきりするといった、推進者側のこだわりがあった、ともいわれています。

     ただ、マスコミが報じるような著名判決での量刑に、それこそ量刑相場についての詳しい解説もないまま接した国民が、たとえ首を傾げる現実があったとしても、そこだけをとらえて過去の不当量刑に「市民感覚」を、というのが、「市民感覚」といえるのかどうか、です。

     そもそも事実認定でさえ、市民が積極的な関与を求めているかは疑わしい制度で、何も量刑までという感覚がないといえるのでしょうか。むしろ真実の発見に社会経験が活かされることは、たとえ理解しても、そこから科される刑の「公平さ」が重視されることに、市民がそこまでの異論を持つのでしょうか。むしろ、自分が「裁き」の当事者になることが現実化するに至って、その「公平さ」にむしろ慎重な感覚が生まれてきていてもおかしくないように思えます。

     以前も書きましたが、制度発足前の議論の段階から、この量刑関与についても、既にはっきりとした懸念論や除外論がありました。しかし、公募でよせられた一般の意見や各種団体のなかにもあった、それらは最終的に議論に、全く反映されなかった経緯があります。この点については、いまだに首を傾げる専門家もいますが、有り体にいえば、特にこの点に異論が出なかった司法制度改革審議会の決定が押し通された格好です(「裁判員『量刑関与』問題の扱い」)。

     推進派のなかには、当初から今回のような量刑をめぐる「市民感覚」の行き過ぎが、たとえあったとしても、そこは裁判官関与と三審制による「是正」があるとする意見もあったことを考えれば、今回の最高裁の判断そのものは、制度当初から分かりきっていた結論とみることもできなくありません。いまさら「市民感覚」の反映を懸念する話なのかどうか。

     今でも国民のなかにも根強い、能力面での「裁く」ことへの抵抗感には、自分が正しい事実を見極められるかと同時に、死刑も含めて、果たして公平・妥当な量刑にたどり着けるのかという不安があると読みとることもできます(「『誰でもできる』という制度の危うさ」)。推進派が心配するような量刑への「反映」への懸念以前に、むしろ「公平」な量刑へ懸念は、市民のなかに存在していたとみるべきです。

     そう考えれば、前記今回の最高裁判決に対する、制度意義からの「懸念論」にしても、国民の本音とは遊離した、あくまで「量刑関与」の無理に目を向けさせまいとする、推進派の思惑での話に見えてならないのです。


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    「誰でもできる」という制度の危うさ

     裁判員制度とは、「人を裁くことなど誰でもできる」ということを言い続けなければならない制度、ある意味、そのことを運命付けられている制度です。もともとこの制度に対する、大衆のなかにある抵抗感には、「裁きたくない」という敬遠意識とともに、そもそも「素人に裁けるのか」という感情があります。現に毎年最高裁が行っている意識調査では現在でも、参加に対する不安の中身として、前者につながる責任の重大性とともに、素人が裁くという、いわば能力面での不安がトップに来ています(「平成25年度裁判員制度の運用に関する意識調査」)。

      そもそもが素人を強制的に裁きの場に連れ出す制度であり、かつ、制度発足前から前記したような、大衆の中の抵抗感がはっきりしていた制度だっただけに、推進する側は、なんとかしなければならなかった。そうした状況を反映して、振り返れば、この制度導入にあたっては、さながら「誰でもできる」キャンペーンといってもいいような、制度宣伝が行われました。

     最高裁長官自ら、裁判員は検察官主張の事実を認める証拠があるか「常識に照らして判断」するだけで、「そんなに過大なことを求められているわけではない」と発言(2005年憲法記念日、町田顯長官会見)。特に拒絶感が強い主婦層に向けては、女性検察官が「旦那の浮気はどうやって見つけるか?事実認定なんて、皆さんが毎日やっていらっしゃること」などと説明する始末でした。また、前記「裁く責任」を感じるという声に、推進派のなかからは、そういう自覚の人こそふさわしいから参加してほしいといった、不安を逆手にとったような論法まで繰り出されました。

     裁判の実務に携わってきた人々が、こぞって「裁く」という行為のハードルを下げるような発言をする当時の状況は、異様ですらありました。もちろん、法曹のなかには、人の生命・身体・財産に関わる重要かつ厳粛な裁判に対する、誤解を招くとする声もありました。裁判への理解を深めるなどということが、その目的に掲げている制度にあって、現実は大衆を誤解させているのではないか、ということになります。

     この「誤解」につながりかねないことを、なんとしてでも制度を導入したいあまり、裁くことの厳しさを一番知っているはずの専門家たちがやっている――。そこにこそ、この制度の歪み、ある意味、気持ち悪さがあるようにも思えます。

     素人が裁くとは、現実的にどういうことなのか。裁判員制度が「素人が裁く」意義として掲げる、彼らの常識の反映、要は「民意の反映」に絡めて、最近、「福岡の家電弁護士のブログ」が、こんな例え方をしています。

     「たとえば、医師が手術に使うメスやコヘルなどの器械類を揃えるとき、患者から『私はこのメスを使って欲しい』などと持って来られて、使うべきか?もっといえば『この部分を切除するときはこの器械をぜひ使って欲しい』などとリクエストされて使うべきか?インフォームドコンセントとの関係ではどうなのか?」
     「さらにいえば、パイロットが飛行機を飛ばすときに、前方に積乱雲があって突っ込むと危険なので回避して飛行するべきとの判断を下した。ところが、たまたまその機内の大多数の人が盛り上がってて『おもしろそうだから突っ込め』と指示したとき、『お客様は神様』だから従うべきなのか?」
     「要するに、抽象的に言えば、『専門的知見・判断を要するべきところに、「民意」が適応するのか?』という命題が◯か✕か、というだけの問題です」

     これを極端な例えとみる方もいるとは思います。推進派は、おそらく「民意の反映」は、専門的知見・判断によって左右される部分の、いわば前提となる事実に関する部分を、裁判官という人間の経験だけではなく、多様な市民の経験によって判断させるのだから問題ない、という括り方をすると思います。要は、「浮気調査」にまで例えられた、極当たり前にだれでもできる部分への関与ということと、前記例えに類する、素人の無理な「注文」が仮にあろうとも、そこは職業裁判官が「ともに裁く」ことで大丈夫ということが、またぞろ強調されるということです。

     ただ、最大の問題は、「専門的知見・判断」を本来必要のないところに、その範囲内で「民意」が求められたのか、そして、判決の結論もその結果なのか、ということが、参加した市民はもちろん、参加していないわれわれにも分からない、区別が簡単につかない、ということです。

     制度は参加する市民に向かって、裁くことは「楽です、簡単です」といいつつ、上級審の職業裁判官には、その判断を尊重せよ、というのが建て前です。尊重されるべき市民の判断が、高裁で覆されるのは、「専門的知見・判断」からすれば、結論が違うことになった、という解釈でいいのか、それとも尊重されるべき「民意」による前提的判断への不当な「介入」というべきものなのか、そんなことももちろん分かりません。

     少なくともはっきりいえることは、ここは感情的なものが介入する素人の判断ではなく、むしろ専門家の判断に委ねる方が妥当ではないか、という「裁くこと」に対する慎重な姿勢、あるいはそこから来る市民の敬遠意識が、常にこの制度を維持するためにふさわしくないものとされ、一方で「裁くこと」は「誰でもできる」という言を真に受けて、「普段着」のまま判断することに不安を感じない市民がふさわしいとされることでいいのか、ということです。いいのか、というのは、いうまでもなく、裁判員制度にとってではなく、この国の裁判にとってです。

     前記ブログ氏も言及していますが、この制度には「専門的知見」の無視、あるいは軽視というものが付きまとっていることは否定できません。「改革」がこの制度を維持する以上、市民の中にある「専門的知見」「専門家」への信頼や依存感情も「お任せ体質」として否定的にとらえ続けられることが運命づけられているといえますが、この制度の危うさは、むしろ国民の敬遠意識のなかで既に感じ取られていることのようにも思えてくるのです。


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    裁判員制度「強制」効果拡大の失敗

     最高裁が毎年行う裁判員制度に関する国民の意識調査のなかの、参加の意思を問う設問では、肯定・否定の回答がそれぞれ2種に分類されています。参加に肯定的な意見が「参加したい」と「参加してもよい」であるのはいいとしても、かねてから気になるのは否定的な意見の分類、「あまり参加したくないが、義務であれば参加せざるを得ない」と「義務でも参加したくない」の方です。

     何で最高裁は、ここで「義務」というものを挟んだ、こんな国民の意思の採り方をあえてしているのでしょうか。あくまで、「義務でも」の回答設定も、「参加しない」ではなく、「したくない」という希望で、拒否の意思をストレートに聞いた形をとっていません。いうなれば、「したくない」意思を程度であえて分けた格好です。

     これは、見方を変えれば、「強制化」に対する「効果」の分類といえます。同じ「したくない」人のうち、「強制化」の効果あるいは脅威で参加をしぶしぶ選択する人の割合。実はともに裁判員制度の必要性や参加の意義を積極的に認めているわけではない「したくない」という消極派のうち、「義務」を出されては逆らえない人と、最終的に拒否できるかはともかく、少なくとも正直な意思を表明できる人の違いともいえます。

     そして、こうした形で国民の意思を分類したい側の意図として、あることが推察できます。それは、一口にいえば、「強制化」の効果拡大です。そもそも「義務」という言葉を挟むこと自体、この制度が「強制」であることの周知・脅威の拡大を狙っているといえるものですが、要は前者の「効果」の部分への取り込みです。つまり、みんな「やりたくない」のは同じ、でも、これだけの人が「義務」ということで「納得」しているではないか、あなたはどうなの、と。あたかも「納税」のように、「やりたくない」けどやっている人もいるんだから、あなたも「義務」を自覚しようよ、国民として、というメッセージになるということです。

     だから、制度推進者がおそらく思い描いた展開は、「義務でも」の人が、「義務なら」にどんどん転換し、「義務なら」で参加した人が「参加してよかった」と発言し、やがて前記肯定的評価2種に流れるストーリー。その「強制化」の効果のストーリーが、はっきりするアンケート結果を、ここで期待しているのではないかと思うのです。そして、それは取も直さす、彼らにとって、「強制化」して「よかった」というストーリーです。

     残念ながら、制度開始5年が経っても、そういうストーリーにはなっていません。2009年度の意識調査であった「義務なら」44.9%、「義務でも」36.3%は、2013年度には前者が40.6%に減り、後者が逆に44.6%と増加。積極意見2種の合計も18.5%から14.0%に下降し、これらいずれにも該当しない「わからない」が1.3%から0.8%に。制度の実態が分かれば分かるほど、国民の意思はよりはっきりと拒否の方向に流れている、といえます。「強制化」の効果のストーリーとは、真逆といっていい状況です(「平成25年度裁判員制度の運用に関する意識調査」)

     今年の憲法記念日の最高裁長官談話では、裁判員制度について「順調」という文字が消え、「様々な課題」の存在の方に言及していますが、最高裁もこの現状には、さすがに「順調」という言葉はあてはめられなかった、という見方も出ています。

     5月23日、朝日新聞の「社説」は、5年という節目の裁判員制度を取り上げていますが、「強制化」という問題に言及しないのはもちろんのこと、このはっきりとした国民の反応を、あくまで「強制化」の失敗として見ない、あるいは読者に見させない論調に終始しています。世論調査の結果に加え、辞退率が2009年53%から2013年63%に増えていることまで紹介し、「制度が定着化とは逆行しているように見えるのはなぜか」と自問しながら、学者のコメントを引用しつつ、原因をすべて「裁判員の経験を社会で共有できていない」ことに被せています。

       「強制化」の効果のストーリーは厳然と残っているのに、「やってよかった」がもっと広がれば、あたかも主体的な積極参加意見が増えるという見方です。急性ストレス障害になった裁判員が、「強制化」の脅威ゆえ参加を余儀なくされ、それを拒否しきれなかったことを今、後悔し、もう二度と自分のような被害者を産まないでほしいと叫んでいることを「朝日」が知らないわけもありません。

     「朝日」はこの社説でも、「社会の正義は、『お上』にまかせるものではない」などと、またぞろ「お任せ司法論」を持ち出しています。しかし、肝心なことは、裁判員制度は国民の「お上に任せられない」という意識のもとに作られた制度ではない、ということです。国民の意思を反映させるという制度が、国民の意思を反映していない――。「強制化」の存在そのものが、そのことを物語っている制度の現実は、少しも変わっていないというべきです。


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    裁判員全員「辞任」の現実が示すもの 

     水戸地裁で審理が始まっていた裁判員裁判で、裁判員や補充裁判員の辞任が相次ぎ、選任手続きを最初からやり直すということが報道されています(1月16日付け、朝日新聞朝刊、第3社会面)。よく制度のことを分からないまま、さらっとこの記事を読んだ読者のなかには、裁判員は「辞任できる」という印象をもたれた方も少なからずいると思います。

     しかし、ご存知の通り、裁判員制度は制度として、「辞任」を市民側の権利として認めている制度ではありません。あくまで申し出ができることを認めているだけで、裁判所が認めた場合に「解任」するだけです。

     でも、結果として、「辞任はできる」制度となっている。これは裁判員になる前の辞退についても同様です。つまり、裁判員制度は、市民が辞任や辞退を権利として「できる」制度ではないが、実態は「できる」結果になっている制度ということです。実はここにこそ、裁判員制度の見過ごしてはならない現実があります。

     裁判員制度は、あくまで裁くことを国民に強制するという建て前に立った制度です。制度を推進したい側が、この司法参加を国民の「権利」であると、しきりといいくるめようとし、最高裁までが「参政権と同様の権限を国民に付与するもの」だと判示しても(「裁判員『強制』への消えた批判目線」)、前記のように辞任・辞退の権利がなく、罰則をもって参加を強制する制度であることは動かし難い事実です。かつて国会でも、政府参考人の司法制度改革推進本部事務局長が、辞退事由に当たらない限りは本人の意向にかかわらず裁判員となることを拒めないという意味において、法律上の義務である、とはっきりと答弁しています(2004年4月2日、衆院法務委員会)。

     なぜ、この制度は強制・義務化の道を選択したのか。前記国会答弁でも登場しますが、表向きいわれることは、国民の意見を反映させるという制度の意義から導き出される広範な層からの参加の要請、一律義務化による負担の公平性の強調、義務化しなかった場合の判断偏向の恐れなどです。ただ、これを裏打ちしている発想はたった一つ。つまりは義務化しなければ、この制度がもたない、あるいは定着化しないということです。

     そもそも強制してまでこの制度が必要とする、その意義を、国民が圧倒的に支持しているという根拠もなければ、その是非が正面から国民に投げかけられたわけでもありません。「必要」と規定したのは国家と「有識者」といわれる方々です。国民の代表が国会で決めたという強弁もありますが、その代表自体がこの制度をよく分かっていなかった、という始末です(「『国会通過』という御旗」)。

     制度を推進する側は、世論調査結果も含めて、国民がこの制度に背を向けることを十分に分かっていた。だからこそ、どうしても強制化しなければならないと考えたのです。制度発足当時の取材でも、法曹関係者や政界関係者で、国民参加の意義を認める人のなかでも、強制化・義務化には慎重論がありました。裁く側と裁かれる側について、参加や選択の自由を優先し、この国の国民の司法参加を、国民の理解のもとに進める、いわば「小さく産んで大きく育てる」形の方がいいのではないか、という声がありました。

     しかし、「改革」路線は、そういう道を選択しなかった。一気に推し進めようとする拙速主義が、国民に制度が選択されない脅威のもとに選択したのが、強制・義務化だったというべきです。思えば、法科大学院制度も同様です。プロセスの強制化は、利用されなくなる脅威によるものであり、志望者の選択の自由を認めたうえで、法科大学院の制度的価値を実績として社会に認知させていく、という方法ではありません。根拠も薄弱なまま、国民が求めたわけでもない「必要」と既定された法曹人口の極端な量産「要請」が、それを導き出す役割を果たしました。

     だが、現実はどうでしょうか。裁判員制度は結局、辞退・辞任を認めざるを得ない制度になっています。罰則も、拒否者に使われたという報告はありません。今回の件でも、解任事由がどういうものかは定かではありませんが、「辞任」申し出の全員が厳密な意味で、裁判員法16条8号の事由に該当していたと推測する方が難しく、「実情としては裁判員がもうやりたくないという申し出を裁判所が認めた」(「弁護士 猪野亨のブログ」)という見方は出来てしまいます。要は、結果として、強制しきれない制度の現実にほかならないのです。法科大学院制度にしても、利用者の選択しない姿勢が明白なっていますが、それでも続けられようとしている強制化のツケが、今度は選択されない法曹界という現実を生み出してきています。

     裁判員制度にしても、法科大学院にしても、「改革」の拙速主義の無理と、その失敗を、今、私たちは目の当たりにしているというべきです。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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