弁護士会が「政治的」であるということ

     日弁連・弁護士会が「政治的」であることについて、今の若手会員はかつてよりも敏感であるという人がいます。あくまで感覚的な捉え方のようで、そうした意識調査の結果が出たという話は聞きません。ただ、そうした捉え方もよく聞くと、「政治的」という意味そのものにこだわっているというよりは、弁護士会との関係を、かつてよりも「実利的」に捉えるドライな発想があるという風に置き換えられそうな話です。

     若手に限ったことではありませんが、「改革」の激増政策が弁護士にもたらした経済環境の悪化によって、強制加入によって高額な会費の支払いを求められる弁護士会の在り方への会員の目線は変化しています。そのなかで、日弁連・弁護士会の活動の「政治的」であるという意味が問われる以前に、より内向きの要求、有り体に言えば、「もっと会員にプラスになることをやれ」という声が高まっている観はあります。

     それを前記したような「若手」ということで結び付けるのであれば、そこにはインターネットの登場で、ある種の「本音」がかつてより格段に露出していることや、「改革」競争時代をはじめから刷り込まれ、よりビジネスを意識してこの世界に来ている層が、弁護士会のこれまでのスタイルによりなじめなくなっているということも加味して考える必要があるもしれません。

     ただ、この日弁連・弁護士会が「政治的」かどうかというテーマについて、私たちは、今、むしろ別の観点を押さえておかなければならないように思うのです。これまでも書いてきたように、「政治的」というテーマは、この「改革」以前にも、強制加入団体としての会員の思想・信条との関係でしばしば取り上げられてきました。多様な政治的思想・信条を持ち、かつ、多様な階層の弁護に当たる個々の会員が強制的に所属することになっている団体が、一定の方向性を持つ「政治的」なテーマについて意見表明することの妥当性です。

     しかし、これについては、以前もご紹介したように、司法判断としては一定の結論が出ています。今から24年前に、日弁連の国家秘密法案反対運動をめぐり、会員の思想・信条の自由の侵害を問題視し、弁護士111人が原告となり、日弁連を相手取り起こされた訴訟の一、二審で示された判断です。結論からいえば、弁護士法1条の使命実現のための弁護士会の活動を会員個人の思想・信条の問題と完全に切り離し、会の行為の正当性を認めました。そこには社会秩序の維持や法制度の改善が個々の弁護士の活動では限界があること、逆にいえば、弁護士会という組織体でなければ成し遂げられないという、その活動の積極的な意味を見出しているといえるものでした(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)。

     そして、このことは日弁連・弁護士のもう一つの立場を明らかにしたといえます。それは、時に「政治的」という批判を乗り越えなければ成し遂げられない役割を宿命的に背負っているという、この組織の現実です。在野の法律専門家集団として、人権擁護団体として、「政治的」との批判を受けとめても超然として発言しなければならないということです。たとえそれが、「政治性」を帯びていようとも、あるいは既成政党の主張と同じ方向を向いたとしても、その使命から言うべきことは言う。むしろ、それを「政治的」ととらえるならば、そのことそのものが筋違いの「政治的」な捉え方であると跳ね返さねばならない。いうまでもないことですが、「政治的」と批判される度に、沈黙する団体では、およそその使命を全うすることができるわけもないからです(「金沢弁護士会、特定秘密法反対活動『自粛』という前例」)

     その意味でも、弁護士会の活動と個々の弁護士の立場を切り離した前記司法判断は現実的だったといえます。もとより、そこまでの姿勢を個々の弁護士に求めるのが困難であることもまた、そこに読み込まれているようにとれるからです。

     こう考えると、今、私たちが日弁連・弁護士会について懸念し、注意深く監視しなければならないことは何なのでしょうか。「公平性」あるいはあたかも「政治的」に偏向しているかのような、権力側からの批判の前に、大マスコミが筋を通した権力監視や批判が出来るのかが問われ始めている時代に、同様に権力に対峙しても筋を通さなければならない日弁連・弁護士会がちゃんと物申す団体であり続けられるのか。まさに私たちにとって、最後の砦になれるのかどうか、いよいよその真価が問われるのではないでしょうか。

     そして、このことは現在の司法「改革」路線に対する姿勢にもいえるかもしれません。「オールジャパン」の名のもとに、日弁連・弁護士会が前のめりに「改革」路線に突き進んだ1990年代から2000年代初頭、政財界の人間が口にした言葉は、「大人になった日弁連」でした。問題性について徹底的に主張するのではなく、「提案型」という言葉とともに、物分かりがよくなり、ともに肩を並べて推進する側に回った彼らへのどこか皮肉をこめた賛辞です。その結果がどうなったのかは、いまさら繰り返すまでもありません。この「改革」路線にしても、筋を通す突破力がなければ、いまやどうにもならないところまできているのではないでしょうか。

     それこそ、皮肉なことに、その「改革」の結果が若手弁護士たちの生存環境を直撃しているにもかかわらず、その結果として、もし、今、彼らの冒頭のような弁護士会に対する目線が生まれているのだとすれば、そのこともまた結果として、「沈黙する弁護士会」につながっていきかねないことを考えておかなければなりません。


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    弁護士会が左翼的な政治活動をしなければならないなどとは,弁護士法のどこにも書かれておらず,単に左翼活動家が従来の弁護士会執行部を牛耳ってきたことから,そのようなイメージが形成されているだけのことです。
    弁護士会の総会で,弁護士会は左翼的な政治活動をすべきではないという意見が多数を占めれば,もはやそのような活動をすることはできません。別に宿命でも何でもないのです。
    また,法科大学院制度になってから,法曹になる人は現役法曹ないし富裕層の子弟が多くなり,富裕層でなければ弁護士業界では生きていけない風潮が強くなっています(弁護士による横領事件が多発している現状では,富裕層でなければ依頼者の信頼を得ることも困難です)。
    富裕層であることを売りにしている人たちにとって,自らの思想信条と相反する弁護士会の左翼的主張は非常に違和感があるでしょうし,弁護士=左翼=貧乏人というイメージを持たれれば,商売上のイメージダウンにもつながりかねません。
    弁護士人口の大半がロー卒になれば,弁護士会の体質も必然的に変わるでしょうが,それはロー卒の若手が経済的に苦しく人権活動をする余裕がないという理由だけでなく,弁護士として生き残る人の大半が,そもそも人権活動の必要性を感じない富裕層出身者になるという理由もあると思います。

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    弁護士会は政治活動なんぞにうつつを抜かしている場合じゃないのですが、現実逃避の手段として、あるいは不満の矛先をそらすために、殊更に政治活動を利用している雰囲気があります。
    プロフィール

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
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    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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