「食えるか食えないか」というテーマの前提

     相変わらず、弁護士が「食えるか食えないか」というテーマが話題になります(東洋経済ONLINE 「データで検証!『弁護士は食えない』のウソ」 「まだまだある!『弁護士は食えない』のウソ」 金融ジャーナリスト・伊藤歩氏)。弁護士が増え、経済的に困窮しているというのが事実かどうか、それがどの程度のことなのかを、さまざまな視点で検証すること自体にもちろん意味がないわけではありません。しかし、問題はその検証が、どういう「前提」を踏まえて、その先にどういう結論を導くつもりなのかです。

     いうまでもなく、まず、問われなければいけないのは「改革」の価値です。「改革」がもたらした変化の中身のデメリットに対し、メリットが本当に上回っているのか、要するにデメリットに比してそこまでやる価値があったのか、あるのかが問われ続ける必要があるということです。

     「改革」によって、増やしてしまった弁護士をどうするか、これからも増える弁護士をどうするかという問題の立て方は、前記問いかけにこだわらないのであれば、およそ転倒したとらえ方です(「『増員路線』継続のための需要探し」)。

     弁護士が「食えるか食えないか」というテーマの立て方にしても、そこが一番の問題になるはずです。データに基づく「食える」「食えない」の程度を含めた結論が、現実に即したものなのかどうかの議論はもちろんあり得ますが、こと「改革」の「価値」ということを考えるのであれば、仮に弁護士が以前とは違っても一定限度の収益のもとで「食える」とか、他の業種に比べて「まだまだ恵まれている」と結論付けられたとしても、残念ながらそれでよしとはなりません。

     これで「よし」とする方向でとらえる方には、要するにそこから先は弁護士自身の責任に丸投げする発想が透けて見えます。努力次第、逆にいえば、甘えの構造、心得違い。他の業種との比較において「やれるはず」論は、常に資格に安住してきた弁護士像の上に、その先の「あるべき論」を描こうとします。ただ、利用者市民からすれば、最も重要なことはいうまでもなく、その先に本当に利がもたらされるのかどうかです。

     十分「食える」仕事なのに、自らの利益を優先させて、増員政策に反対している弁護士の「心得違い」を質せば、大衆は本来享受できる利をもっと手に出来るはず――。この「改革」肯定論のなかで、ずっとイメージ化されてきたこのとらえ方は正しいのか。「食えるか食えないか」のテーマの立て方はここにつながります。

     なぜならば、これを抜きに考えれば、弁護士が儲けていようが、他の仕事より恵まれていようが、安定していようが、おいしい仕事であろうが、弁護士業にコンプレックスやねたみ、やっかみの類をお持ちの方以外、それらのことは利用者には全く関係のないことといわざるを得ないからです。たとえ「食える」状態にあるといっても、およそカツカツで仕事をしている弁護士よりも、おカネに余裕のある弁護士の方が安心、と依頼者市民が考えたとしてもおかしくないくらいの話です。

     この「食えるか食えないか」というテーマからのアプローチを考えるうえで、どうしても二つの「前提」を押さえておく必要があるように思います。

     一つは、やはり弁護士の「公益性」という問題です。なんだかんだいっても、弁護士という仕事が、「公益性」ということを社会から期待される、あるいは期待されてしまう仕事であることは動かし難い事実だと思います。他の仕事に比べて、それが強調されることははっきりした違いであり、特質といわなければなりません。

     以前も書いた通り、実は「改革」は、その「公益性」を強調し、むしろ強化すべきという立場に立ちました。しかし、それを何によって支えるかの基本的な視点にあったのは、「当事者主義訴訟構造の下での精力的な訴訟活動など諸種の職務活動」(司法制度改革審議会最終意見書)。つまり、日頃の弁護士の業務やそれに加えたプロボノによって支えられる、ということでした(「非現実的だった『改革』の弁護士公益論」)。

     要は日頃の業務から得られる、弁護士の経済的余裕によって、こうしたものが支えられるはず、というこれもまた、従来からの弁護士のあり方に対する批判的な視点に立つ「丸投げ」論です。そして「食えるか食えないか」というテーマが導く先に登場する「改革」肯定論とは、ここでつながっているように見えます。

     ただ、「改革」の結果としてみるべきなのは、少なくとも激増政策のなかでの「丸投げ」論の「無理」の方です。前記「改革」の発想は、弁護士「公益論」の保護策、社会のために維持できるような枠組みを考えるという話ではなく、あくまで弁護士が採算性を維持しながら、「やれるはず」というものです。しかし、現実的にはそれが困難であることをはっきりさせたのが、むしろこの「改革」であったといえないでしょうか。

     現実的に弁護士のなかには、この「無理」に対する嫌気が広がりつつあります。事業者としては当然であるはずの採算性を無視した、コスト負担の発想のもとに、「公益性」を担うという形への不満は、弁護士会活動そのものへの敬遠傾向や、果ては自治・強制加入不要論につながる流れになりつつあるように見えます。無償有償を区別しない「改革」の「需要はまだまだある」論の先には、結局、「カネにならないことを持ち込まれても対応できるわけがない」という事業者としては当然の弁護士の言い分が引き出されることになっています。

     ある意味、これは、もともと「公益性」を弁護士の「努力」に丸投げした「改革」に責任があります。もちろん、これを「やれる」と見込んだ弁護士会内の「改革」推進派とそれを支持した当時の会員弁護士にも責任はあります。犠牲的精神で臨む、臨んできたという弁護士会のプライド、あるいは根強い「公益性」に対する意識が、この「無理」、要は「奉仕者性」を現実的にどうやって支えるのかというテーマを後方に押しやってきた観も否めません。

     しかし、結果的に「改革」が「丸投げ」を続けることも、その結果、弁護士が「公益性」に背を向ける結果になることも、社会にとって有り難いこととはどうしても思えません。この点にこだわらない論調は、どうも経済的にも、お立場的にも、それで困らないと考える、そもそも問題意識がない側から繰り出されている印象があります。そして、あくまでいつ大衆が享受できるか分からない「改革」メリットが匂わされているだけです。

     もう一つは、「食えるか食えない」というテーマが押さえなければいけないのは志望者です。「食える」という形で、業界の誤解が晴れれば、志望者が戻って来るという方向の期待感含みで、これをとらえる見方があるのかもしれません。しかし、それは、かなり甘い見通しであるといわなければなりません。経済的な妙味ばかりが、この世界の魅力とはいえなくても、「案外食べれます」「他の仕事より恵まれています」というアピールになるのならば、かつての弁護士イメージとは、およそ比べものにはなりません。

     しかも、強調されるのは企業や自治体ニーズ。従来のような法廷活動などを通して、市民社会のさまざまな紛争や人権問題に取り組む、あるいは独立自営で事務所を構えて、いわゆる町弁として大衆と向き合った仕事を思い描く人たちが、志したくなる環境と将来性が、そこに確保されているという話ではありません。志望断念者のなかから「本当は公益的な活動をしたくて弁護士になりたかった」といった趣旨の声を聞くと、一体、「改革」は何を奪っているのか、という気持ちになります。

     いわれている企業や自治体ニーズに魅力を感じる方や、今、「食えている」層の弁護士に「私もなる」という人が、この世界に挑戦するというのであれば、それはそれで結構だと思います。ただ、前記「公益性」もそうですが、「食えるか食えないか」というテーマの手前にあるものを考えないことには、およそ多くの志望者がこの世界に妙味や魅力を感じてこの世界を目指すことにはつながらないと思います。同時に何を失っているのかを考えなければ、本当の「価値」にはたどりつけないのです。

     思えば「給費制」問題にしても、最後は弁護士の「食えるか食えないか」というテーマのもとに、「やれるからいいじゃないか」という発想で廃止が決定づけられてしまいました。それが究極的に、私たち社会とって歓迎すべきことになるのか――。どうもそのことに対する深い考察を排除してしまうような、そんな危うさをこのテーマには感じます。


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    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





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    No title

    余裕もをもって食えない人は淘汰されていきますよ
    横領等の不祥事で職を追われたりとか、他にいい仕事が見つかったりして転職しますから

    No title

    カネにならん仕事にまともな人材や情報が集まるはずがない。
    いい年して「法テラスの仕事やってる」なんていってると、ああーこの弁護士は仕事がないんだね、能力足りないのかな、なんて思われちゃうかも。

    No title

    弁護士の場合、その資格を取得するためにそれ相応のコストがかかるんだから「食える」というだけではダメで、コストに見合うだけの「余裕をもって」「食える」ことが大切だと思うよ。

    でないと、弁護士になろうなんて思う人はいないでしょ。
    これくらい馬鹿じゃないんだから、ちょっと考えれば分かるよね。

    世の弁護士さんには、300万でとか、500万でとか言っている人がいるらしいんだけど、滑稽極まりなくて、隗より始めよじゃないけれど、その人の事務所でそうやってんの?本当にそうなの?って思ってしまうよね。

    あと、頭の弱い人・ふつうのことが理解できない人には、言っても無駄だけどね。

    No title

    どんな商売もまず「食える」ということが大切です。
    弁護士だけ特別ではありません。

    No title

    まったくです。

    http://blogos.com/article/114728/
    (引用はじめ)
    『自白事件の国選弁護で、下手に示談でまとめて不起訴に終わらせるより、起訴させて裁判をしたほうがより多くの報酬がもらえる』と発言をする弁護士もいた。弁護士としての品格を疑う発言だ。そうした弁護士によって、不利益を受けるのは国民だ
    (引用おわり)

    弁護士の経済状況を安定させることが喫緊の課題で、そうでなければ「質が下がる」どころか「品質が粗悪すぎる」弁護を(民事でも刑事でも)されることになるということをもっと周知させるべきです。

    No title

    弁護士、裁判官、検察官を目指した大部分の人は、現実の社会の様々な不条理を目にして、少しでも道理が通る社会、人権が守られる社会にしたいという目的を持っていたと思います。

    しかし、司法制度改革路線を主導した勢力は、そういう目的を持った人間を法曹界から遠ざけ、新自由主義、国家主義的な考え方に基づき、司法を産業・経済・行政に奉仕させようという意図を隠し持っていました。その背景には、1970年代以降、金儲けが一番大事という新自由主義思想が日本全体に浸透し、アメリカからは、年次改革要望書(実質は多国籍企業や軍産複合体の要求に基づくものであり、現在のTPPにつながっている。)を突きつけられてきたという事情があります。

    日弁連主流派は1970年代以来の法曹三者協議路線の下、「大きな司法」、「社会の隅々まで法の支配を行き渡らせる。」というような看板の前で、弁護士はダメだという声に対し、原理原則を主張して司法の変質に抗するのではなく政治的な綱引きに終始し、会員弁護士に対しては戦果を強調する、かつての日本軍部の大本営発表のようなことをやってきました。

    その間、日弁連は、「弁護士はダメなので、市民の声を聞き市民の理解を得られるようにします。そのため、弁護士自治が制限されてもかまいません。弁護士激増で収入が減るかも知れませんが法曹有資格者の活動領域を広げるために何とかします。弁護士過疎についても自分達で過疎地解消のために何とかします。2年の司法修習期間を維持する予算がないのなら短縮されても結構です。刑事弁護においては悪人を弁護する弁護人は肩身が狭いので、市民の理解が得られるよう、被害者参加に協力します。司法修習生に給与を支給する財源がないのであれば、できるだけの支援をしていただければ結構です。」等々というような「市民」への妥協を続けてきました。

    かつて、弁護士、裁判官、検察官は聖職だと思って、その道を目指してきた人々は、がっかりするはずです。

    しかし、本当の問題は、司法の崩壊が進んでいるということです。私が弁護士になった40年前と比べると隔世の感があります。

    私は刑事弁護は9年前に引退しましたが、刑事訴訟について記憶に基づいて述べたいと思います。第1回公判で、検察官は起訴状朗読、冒頭陳述、証拠調べ請求をします。証拠調べ請求に対し、弁護人は、同意、不同意の意見を述べます。その後、同意された書証について証拠調べに入るのですが、その取調方法は、法廷で提示し、朗読するのが原則です(刑事訴訟法305条)。ただ、刑事訴訟規則203条の2により、裁判長は、訴訟関係人の意見を聴き、相当と認めるときは、請求により、朗読に代えて要旨の告知で済ませることができます。

    私が弁護士になってから10年以上は、裁判長は朗読に代えて要旨の告知をさせる場合、訴訟関係人である弁護人に対し、「要旨の告知でもよろしいですか。」と意見を聴いていました。弁護人としては、全部要旨の告知でもいい場合もありますが、何通かの書面については朗読でとの意見を述べる場合もあります。

    ところが、いつからか、裁判長が弁護人の意見を聴かずに、いきなり「検察官、要旨を告知して下さい。」と言うようになりました。そのたびに、私は裁判長に対し、弁護人の意見を聴かなければならないことを教えるはめになりました。

    そのような時代が続いた後、再び裁判長が弁護人の意見を聴くようになりました。ただし、その内容が以前と違うのです。「弁護人、要旨の告知は必要ですか。」というものです。こういう裁判官達が新人の判事補を指導し、法律を無視する伝統となっていくのでしょう。これに至るまでに、要旨の告知が要旨と言えず、立証趣旨の告知とほとんど変わらないものになっていたという事情もあります。

    私は、9年前に刑事弁護を引退しましたが、問題が刑事訴訟だけではないことは想像が付くと思います。

    昔、「デモシカ教師」という言葉がありました。教師に「しか」なれない教師、教師に「でも」なるかという教師ということで、教師の質が低下したことを嘆いた言葉です。現状の先には、デモシカ弁護士、デモシカ裁判官、デモシカ検察官が日本の司法を担う未来像が見えます。

    もちろん、それは権力を行使する側にとっては好都合でしょう。

    No title

    元のデータを公表して検証できる形にしなければ、
    そもそも東洋経済の出す数字が
    どれだけ信用できるのかも分かりません。
    統計を用いるのであれば当然のことだと思います。

    まあ、東洋経済の数字を前提にしても、
    年収500万円以下が4割以上ですから、
    弁護士が経済的に余裕がある職業とは
    言い難いことは明らかですが。

    No title

    数字を使えって70万円未満の確定申告事業者が40%に及ぶとか?

    ソースの属性をあいまいにしたまま、「俺調べ」で200万未満が20%とか言うののどこが数字を明らかにしていると言うのか?

    東洋経済は一応数字使って書いてるんだから、反論するなら同じようにやらないと。弁護士ならね。

    No title

    東洋経済は、雑誌も書籍も、最近は余りにもひどい内容のものが多いので、最近はビジネスマンにそっぽを向かれ始めています。

    『2011年 日本経済ソブリン恐慌の年になる!』
    ・・・ならなかった。
    『2012年資本主義経済大清算の年になる』
    ・・・ならなかった。中国やベトナムでさえ、資本主義に拍車をかけた。
    『2013年 世界経済総崩れの年になる!』
    ・・・ならなかった。
    『2014年 戦後最大級の経済危機がやって来る!』
    ・・・来なかった。

    この5年間、多くの市民がジリ貧ではあったが、東洋経済の見出しのように全世界で一斉に国家も企業の個人もクラッシュするようなことは、一切なかった。

    小学生4年になりすまして安倍政権を攻撃した青木大和を持ち上げていたのも、東洋経済オンライン。

    したがって、東洋経済の記事は、逆張りに使えば正解です。

    たとえば、東洋経済が、弁護士はまだまだ食える資格だ、というならば、もうすでに食えない資格だ、ということです。

    売れる売れないにとらわれず、腰を据えた記事を掲載してもらいたいものです。それでこそ、公益活動たる表現の自由を担うマスコミの本望というものでしょう。

    No title

    東洋経済の記事を読んで「よーしぼくちゃん弁護士になっちゃうぞー」て言う人がいるかどうかは、その後の事実が証明するでしょう。

    最後に痛い目にあうのが国民ならそれもまた受け入れるべき現実ということで。

    No title

    >食うのに困っている弁護士なんか
    >見付からなかったようですが、

    けど、自分の周りの弁護士も
    「困ってるわ~」と口では言いながら余裕そう(絶対余裕)だったり
    本当にやばいのは自分だけじゃないかという気になるが……。
    (別に「自分を見付けろ」というわけじゃあない)

    匿名ブログ(例の転職したらしい弁護士はブログを削除している)や掲示板では困った困った言っているけれども……。

    No title

    国選取り合っている弁護士を取材すれば
    食うのに困っている弁護士なんか
    簡単に見付かりそうなものだと思うのですが。

    東洋経済の記事では
    食うのに困っている弁護士なんか
    見付からなかったようですが、
    取材能力が著しく低いか、
    まともに取材する気が無いかのどちらかだと思います。

    収入少なくても、実家にパラサイトしているから
    食うのには困ってないという若手弁護士もいますね。

    そもそも、弁護士になるため、なってからの
    ハードさを考えたら、
    単に食うのに困らないだけの収入では
    なかなか厳しいものがあるでしょう。

    No title

    >志望断念者のなかから「本当は公益的な活動をしたくて弁護士になりたかった」といった趣旨の声を聞くと、一体、「改革」を奪っているのか、という気持ちになります。

    エクスターンや司法修習生の中でも「公益的な活動をしたくて」という趣旨の声だっていくらでもありますよ(最近は企業法務希望とはっきりした目的が多いですが)。その度に「意味わかってんのか」と言いたくなりますけど、これは私が業界を知っちゃってるからでしょうね。どうも弁護士になったら即、人を救えると考える人が多いですね。いやプロふぇっしょなるですからそうあらねばならんのでしょうが。つまり、断念者だろうが志望者だろうが恐らく「公益性」に持つイメージは同じだろうってことです。
    そもそも弁護士の仕事のマイナス面が公表されることがそんなになかったというのが問題だったのでしょう。「食えるか食えないか」でえげつなくなるのは弁護士だけではなく、依頼者だってそうです。どういう状況でも冷静に理性的になれる人間なぞいない。そういう人を相手にしなければならないという部分を、もっと見せるべきでした。今更遅いですし、これからはそういう人達も、弁護士も増えてくるでしょうが。○て○すの客層ときたら……。

    No title

    弁護士の「公益性」という問題です。なんだかんだいっても、弁護士という仕事が、「公益性」ということを社会から期待される、あるいは期待されてしまう仕事であることは動かし難い事実だと思います。他の仕事に比べて、それが強調されることははっきりした違いであり、特質といわなければなりません。

    もういい加減幻想であることをはっきりと明言すべきでしょう。
    弁護士の公益性ってなんですか?
    憲法に唯一記載のある私業とかバカですか?

    プロボノ?
    やりたい人が勝手にやるだけで、市民が期待しているわけでも期待する権利があるわけでもありません。
    そう思わせておけばタダで使えると思っているだけでしょう。
    社会運動は弁護士の使命とか、正直吐き気を催します。

    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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