「司法参加」義務化の前提

      「血税」という言葉の語源は、1872年の太政官布告で兵役義務を称したことに由来するそうです。今、「血のにじむような」努力をして国民が働いて収めたという、税金の尊さをいうこの言葉の「血」とは、もともと本物の血、国民が国家のために戦場で流す血を意味していたことになります。

     国民が「血」を差し出すことを義務化していた時代の言葉が、どういう経緯で現在まで使われることになったかは分かりませんが、少なくとも血に代わり、国民の労力が税となって提供される重みにも、この言葉が使われることが、どこかの時点で「ふさわしい」と判断した日本人がいたのではないかと思えてきます。

     ところで、「司法への国民参加」先進国とされている米国では、かつて裁判官が陪審員になることを拒否した人間に対して、兵役を引き合いに出して、説諭したという話を聞いたことがあります。つまりは、お前のやったことは兵役を拒否するのと同じようなものなのだ、と。

     日本人に、「司法への国民参加」を国家への忠誠をかぶせたような論法が通用しないのは当然ですが、わが国では、これが権利であるなどと言われながら、突如として義務化・強制化がなされました。その実は「統治客体意識」だ「お任せ司法」だのと、国民側の「心得違い」が並べられ、あたかも「民主化」の手段であるかのような言が、それを正当化する根拠としていわれました。

     しかし血税は、どういう扱いになっているのでしょうか。国民が「参加しない」司法を支えてきたのは、いうまでもなく国民の税金です。司法の権威を信じ、その判断の正当性をそこに託すことで、そこで税金が使われることに国民か了承を与える関係が成立していたはずです。その司法に問題があったとしても、その原因が国民の「お任せ」にあり、それを解消する唯一の手段が国民の強制直接参加であるなどということが、本来、国民にとって、当然の話として受けとめられる方が不思議ではないでしょうか。

     要するに、他国の事情がどうであれ、兵役義務を引き合いに出す米国のように、国民を納得させられるような「司法への国民参加」義務化の根拠が、わが国の裁判員制度にあらかじめ存在しているような受けとめ方にならなくても当たり前だということです。

     内田樹・神戸女学院大学名誉教授が、最近自身のフログで、司法改革へ疑問を投げかけ、裁判員制度については、次のように下りも出てきます。

      「司法が市民の身近になるのはよいことである。司法判断と市民感情のあいだの乖離はできるだけ少ない方がいい。それに反対する人はいない。でも、それは『これだけのコスト』に見合う成果なのか?いつも口うるさく『効率』とか『費用対効果』とかいう官庁がどうしてこれほどわずかの『いいこと』のために、司法制度の基礎部分に手をつける気になったのか」

     この論稿について、内田氏のような著名な有識者がこうした見解を発表することを歓迎する意見がありますし(「福岡の家電弁護士 なにわ電気商会」)、私も同氏の意見は全体としてその通りだと受けとめました。一方で、小林正啓弁護士はブログで、裁判員制度で「よいこと」があったか分からないとする同氏の主張に対し、「内田先生のような知性にして、この程度のことがわからない」ことに「ちょっと失望だ」としたうえで、裁判員制度の目的は、「主権者としての自覚」を国民に持ってもらうことで、「裁判員になった人や、一般国民が、その自覚を持ったなら、それは『よいこと』」なのだとしています。

     しかし、小林弁護士のいうような「民主主義の健全な形」として、国民の直接参加を強制・義務化するほどの必要性を、当の国民がこの制度に対して感じているのかはそもそも疑問ですし、少なくとも、そのことがストレートに問いかけられてスタートした制度ではありません。仮に、その目的のなかに何らかの正しさを見つけても、内田氏のように「コストに見合う話なのか」という疑問をぶつけるのは、それこそ血税を収めている側からすれば、むしろ健全ではないかと思えるのです。小林弁護士が何をいわんとしているのかは分かりますが、それでも疑うべきなのは、内田氏の「知性」ではなく、やはり裁判員制度の方ではないでしょうか。

     人が裁かれる場を、あたかも民主主義の教育の場のようにいう推進派の主張を問題視する弁護士もいます。ここにしても多くの国民に了解されているという前提には立てません。民主主義に払われるコストにしても、不断の制度改善の必要も、押し付けられた理念や目的のうえに成り立つとするのは、それこそ民主主義としては本末転倒です。たとえ、どんなに「民主主義にいいビタミン剤」といったところで、無理やり口をこじあけて入れるのは、もはや民主主義ではありません。


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    テーマ : 刑事司法
    ジャンル : 政治・経済





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    No title

    小林弁護士の主張はほとんど屈折していると私は見ています。

    小林弁護士は言います。「裁判員制度の目的は、『主権者としての自覚』を国民に持ってもらうことにある。『主権者としての自覚』とは、『国家権力者としての自覚』ということだ。裁判員になった人や、一般国民が、その自覚を持ったなら、それは『よいこと』なのである。」と。

    ここでは野村二郎著「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社2004年)から、色川幸太郎弁護士が最高裁判事に就任の際述べたとされる「アメリカにはガバメント・マインデッド・ローヤーという言葉がある。時の権力に都合のいいように考える法律家だ。戦前の日本の裁判官は国家秩序に奉仕し、間違ったこともあると思う。裁判官はピープル・マインデッド・ローヤーでなければ」という言葉(47頁)を引用すれば十分だと思います。

    職業裁判官をガバメント・マインデッド・ローヤーとするだけでは足りず、国民全体に統治主体意識を持たせ、ピープル・マインデッドからガバメント・マインデッドに教育しようとするのが「よいこと」であるはずがありません。

    No title

    ご指摘ありがとうございます。
    かつて裁判所でそうした対応があったということを聞いたので書きました。一部修正致しました。権利としての認識がなされてきたところも、日本と異なる事情であることはご指摘の通りです。

    No title

    アメリカの兵役義務はとっくの昔になくなっているし、アメリカの陪審は陪審の裁判を受ける権利、つまり権利として認識されてきた歴史があります。
    プロフィール

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
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