裁判員に対応した司法の危うさ

     戦中、戦後、一貫して反権力の立場に立ち、多くの冤罪事件を手掛けた正木ひろし弁護士(1896年-1975年)は、裁判について「科学的」ということにこだわった人です。科学的に事件処理をするということを貫き通すことこそ、真実に迫ること。このスタンスが、彼の基本であったといってもいいと思います。

     彼は、彼が生きた当時の日本の司法が、科学的に事件を処理することの訓練をおろそかにしていると感じていたようです。裁判の遅延という問題について、彼はこう言っています。

      「もし、攻防の当事者と裁判官とが、正確な論理的証明法と、その結果の認識方法について、訓練を受けているならば、裁判の期間は、おそらく3分の1、5分の1という減り方をするだろう」(「エン罪の内幕」)

     司法自身が「精密司法」をかなぐり捨て、「国民参加」のためという大義を掲げた「迅速裁判時代」を迎えている今、正木弁護士が言っていた「科学的事件処理」はどうなってしまったのだろうか――。そんなことを考えてしまう弁護士の裁判員裁判体験談が、「裁判員制度はいらない!大運動」発行の「全国情報」9月1日号(35号)に掲載されていました(「初めての裁判員裁判を経験して」棗一郎弁護士)。

     都内在住の母親(当時30歳)が長女(当時5歳8ヵ月)の左右の上腕をつかんで、上半身を激しく揺さぶるなどして、急性硬膜下血腫で死亡させた(傷害致死罪)とされた幼児虐待事件の裁判員裁判。被告人は4~5回強く揺さぶっただけで急性硬膜下血腫が発症するかという因果関係が最大の争点となり、弁護側は無罪を主張、客観的中立的な医師の鑑定を強く求めて争った。しかし裁判所は遂に、鑑定を採用しなかった――。

      「おそらく、裁判員は一般市民なので、専門的な医学鑑定書が出てきても理解できない、読む時間がないということだろう。裁判員裁判は短期間の集中審理ですぐに判決を出さなければならないから、じっくり事件や争点を検討している暇はないからである」(棗弁護士)

     裁判自体は、なぜか最終期日に供述を翻し、もっと激しく揺さぶったと証言して罪状を認める展開となり、弁護側は無罪を争えなくなって、結果、判決は6年の実刑に。医学的な因果関係は解明されないままに終わってしまいます。否認事件で難しい争点が判断の対象とる事件で、果たして裁判員裁判に真実発見と適切な量刑が望めるのか、と棗弁護士は疑問を呈しています。

     今、裁判が証拠に基づくのではなく、社会通念や感覚によって行われている、という声が聞こえてきます。今回のようなケースで、客観的な知見に基づかない判断の、いわば穴をそうしたものによって埋める裁判が、実はこの国で国民参加のもとに、着実に根を張り出しているのではないか――。そのようなことを危惧してしまいます。もちろん、それは参加を強制されている市民の問題ではなく、この制度自体がはらんでいる危うさ、誤判・冤罪の落とし穴が、そこにあると見るべきです。

     正木弁護士は、もちろんこうした形での国民参加が現実化し、「迅速裁判」が進められる日本の司法の未来を想像していなかったと思います。現実は、皮肉にも彼が言ったのとは、全く次元が違う形での遅延解消策が選択されたということになります。いうまでもなく、裁判員となる市民は、正木弁護士のいった「訓練」は受けていません。もっとも、彼の立場からすれば、そもそも誤判・冤罪を防止できなかった、これまでの裁判を「精密司法」と呼ぶことも、また、それを裁判遅延の原因として「精密」をやめるということも、納得できる話とはとても思えませんが。

     今、「裁判員時代」の名のもとに、この国の司法で巻き起こっている「迅速化」という拙速化が、果たして真実に迫り、冤罪を生まない「科学的」なものなのか。まずは、そこから考える必要があります。


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    テーマ : 刑事司法
    ジャンル : 政治・経済





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    No title

    > これまでも平行線だったと思いますので、

     それは河野さんに、「理解しようとする意思(または努力)」 が欠けているからだと思います。


    > 申し訳ありませんが、これ以上議論するつもりはありません。
    > とりあえず、これもご意見としてうかがっておきます。

     私は議論しようと思って書き込んでいるのではありません。たんに、河野さんや、河野さんのブログを読まれる方々に 「違う捉えかた」 を伝えようと思っているだけです。

     私と河野さんとは、考えかたが異なる部分もありますが、河野さんの問題意識も (すくなくとも多少は) わかっているつもりです。

    No title

    memo26さん

     これまでの誤判を生みだした司法が問題なかったと書いたことはありません。むしろ今の司法制度改革は、誤判・冤罪というテーマを直視していません。正木弁護士がいったような解決策とは、結果として違う方法が「改革」として選択されたということをいっており、結果として彼がいっていた科学的事件処理とは違う方向に進んでいる、ということを申し上げました。

     これまでの弁護士のなかにも、質の低い弁護士がいなかったなどとは一言もいっていません。今の「改革」が結果として、より質が担保されない形で、大衆が外れを引く可能性が高くなる、「資格」の保証よりも自己責任を重くとらえるのは、こと弁護士と大衆の関係においては酷だといっているのです。

     とりあえず、弁護士を大量に放出させて競争させれば良化するという考えのmemo26さんとは、これまでも平行線だったと思いますので、申し訳ありませんが、これ以上議論するつもりはありません。

     また、裁判員制度が「裁判が証拠に基づくのではなく、社会通念や感覚によって行われている」という表現が不適切かどうかも、ぜひ、毎号裁判員制度の実相を伝えている「全国情報」や裁判員制度の問題性を指摘するをお読み頂いてからご判断頂きたいと思います。感覚で裁判が行われていいなどとは全く思いませんし、証拠軽視につながる懸念があるから主張しているわけで、陪審制の理念だから、云々、という論法にいたっては全く理解できません。とりあえず、これもご意見としてうかがっておきます。

    No title

    > 今、裁判が証拠に基づくのではなく、社会通念や感覚によって行われている、という声が聞こえてきます。

     証拠に基づいて、社会通念や感覚(=社会常識)によって判断する、というのが陪審制の理念なのではないでしょうか? 陪審制イコール証拠軽視の裁判、といった印象を与えかねない河野さんの表現は、不適切ではないかと思います。


     ところで、今回の河野さんの記事内容からは逸脱しますが、

    >「もし、攻防の当事者と裁判官とが、正確な論理的証明法と、その結果の認識方法について、訓練を受けているならば、裁判の期間は、おそらく3分の1、5分の1という減り方をするだろう」

     上記引用部分は、まさに、「これまでの攻防の当事者(=弁護士)」と「裁判官」の質が低かったということを述べていると思います。河野さんは、いつも「司法制度改革によって法曹の質が下がる」「これまでの弁護士の質は高かった」といった趣旨の記事を書いておられますが、上記引用は、弁護士自身が、旧制度下の法曹の質が「低い」と考えていたことを示すもので、だからこそ制度改革が必要である、と考えるのが適切であるように思います。

    No title

    裁判員制度を導入したことは、もっと俯瞰したレベルで考えるに、刑事裁判の規範というものを、科学的、客観的事実にこだわる姿勢を捨てたことに他ならないのでしょう。
    欧米における陪審では、冤罪という概念が相対化しているというべきで、それに賛同するか否か、という点が陪審、参審を認めるか否かの分かれ道だと思います。

    すなわち、欧米の価値観では一神教文化のもと、全知全能の神ならぬ人の身には絶対は無い、という前提条件で審理がされています。
    その世界では、客観的な意味における冤罪という概念はあり得るでしょうが、陪審員には冤罪という概念がありえません。
    審理の場に出てきたものがすべてであり、それ以外には分かり得なかったこと。陪審であろうが、職業裁判官であろうが、それは変わりない。であるなら、民主主義の根本として国民だけが国民をさばくことができる、という立場から陪審制度が正当化されるわけです。

    その文化的根っこが無いので、冤罪が起きれば裁判員は悩むでしょうし、社会は批判をするのでしょう。文化的な面で欧米化しない限りは、その矛盾に苦しむと思います。

    その観点から、量刑判断のみを裁判員にさせるほうが、緻密司法を維持しつつ、裁判所の社会化に資する量刑判断を確保できただろうに、と思うところです。
    また、有罪、無罪を職業裁判官が決定したのちであれば、心理的負担も幾ばくか和らぐ効果もあるでしょう。

    裁判に一般国民が参加すること自体は良いと思うのですが、罪状認定まで裁判員にさせる制度設計に無理があったと、個人的には考えますね。

    BLOGOSで拝読しました。

    的外れでないことを祈りたいのですが、かなりの国で(アメリカ型の陪審であれ、ドイツ型の参審であれ)裁判に民衆が参加しているのですが、そういう国の民衆も大半は「科学的に事件を処理することの訓練をおろそかにしてい」るはずですが、不都合はなかったのでしょうか? あれば、刑事裁判の民衆参加は絶滅すると思うのですが、聞いたことがありません。

    もっとも、民事では、民衆参加が狭まっている、と聞いたことはありますけど。
    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
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    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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