「専門家」たちのズルイ論法

     専門家の役割は、いうでもなく、専門知識がない人間を助けることにあります。だから、「専門家」とされる方々が、各々の分野で、「適切な方向」として示されたことを大衆が信頼し、導いてくれる、助けてくれる、と思ったとしても、その本来の役割からすれば、当然の話です。

     ところが、時々、その「専門家」の側から、いかにもそうした大衆の考え方を「甘い」とするような言い方が聞かれます。大概は、その方向が大外れだった場合で、要は「信用したのが悪い」という話です。

     もちろん、「専門家」という肩書を大衆が疑ってかかることは必要とは思います。「専門家」が常に正しいなんてことはない。ただ、それでもやはり専門知識のない人間は、しばしば沢山の「専門家」の意見を参考にして、そのなかから正しいと思うものを選択することになります。

     だから、前記したような言い方を少なくとも、「専門家」自身が口にすることには、やはり強い違和感を持ちます。むしろ「専門家」同士がはっきり相手を示して、そっちが間違っていて、こっちが正しかったんだ、というのならば、まだ話は分かります。ただ、同じ組織や世界の人間、関係者が、「信用した方が悪い」「甘い」というのは、正直、ずるい言い方であると同時に、「専門家」としてはやはり自殺行為だと思います。学者、政治家、マスコミ、そして弁護士も。

     時に、この文脈では、民主主義とか自由とか選択が強調されたりもします。ただ、それは一面、大衆の自己責任のハードルを上げて、「専門家」が責任を逃れようとする論調につながっています。質が保証されない弁護士を社会に沢山放出し、それに大衆が遭遇することになっても、それは選んだ大衆の自己責任、大衆を甘やかすことはない、という論調がありますが、それを取りあえず放出したい、せざるを得ない側がいうのはずるい。政府の審議会の意見書に出ていた「7、8割合格」の文字を「信じる方がおかしい」というのも、やはりずるい。

     大衆は、「専門家」のいうことが外れたのならば、「話が違う」というべきだと思います。それこそ、それを受けとめてこそ、「専門家」というべきです。繰り返しますが、権威を頭から信じろといっているわけではありません。大衆は賢く、騙されないようにならなければなりませんが、前記した権威のずるい言い分を許すべきではないと思うのです。

     先日、当ブログで、小林正啓弁護士のブログでの「弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然」という記事を取り上げ、「改革」の理屈、それがもたらすものを多くの国民は分かっているのか。分かっていなくて当たり前。こうなることをどこかの政党がマニフェストで具体的に提示したわけでも、大マスコミが懇切丁寧に解説し、「それでもよいか」と問い掛けたわけでもないからである。やったことはといえば、この国の専門家や有識者の方々が、「社会の隅々」に弁護士が登場する社会がいいことだと叫び、この国を「変えるのだ」といい、弁護士の激増政策を打ち出し、大マスコミも、そのきれいな絵をなぞって、国民に伝えただけのこと。別に国民は、頼んだ記憶がない。それなのに「弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然」な社会になるなんて、とんでもない、という感想になって当然――といったことを書きました(「『改革』の理屈への国民理解度」)。

     小林弁護士は、あくまで「改革」は国民が選択したこと、としていましたが、むしろ、国民の側からすれば、「選択した」ことにされてしまうという風にとらえるべき、と。

     これに対して、小林弁護士がブロクで、次のように反論しています。

      「しかし、そもそも国家の政策で、政党やマスコミが具体的に提示したり、懇切丁寧に解説したり、長所短所を正確公平に示して国民の選択を仰いだりするものなんて、あるのだろうか。この選択をすれば結局どうなるのか、国民が先の先まで見通して決断することなど、あるのだろうか。司法制度改革に限らず、そんなことは、まずない。それどころか、第一党のマニュフェストと正反対の政策さえ、国会を通ってしまうのが現実である。さらには、80年前の政府の馬鹿げた選択の尻ぬぐいを、われわれは未だに引き受けなければならない」
      「それでも、国家機関の意思決定を国民の選択として引き受けるのが、民主主義国家なのである。換言すれば、民主主義国家とは、国家の失敗を国民が引き受けることを正当化する政治体制なのだ」

     政党やマスコミの説明は具体的でも、懇切丁寧でもなく、国民も先の先まで決断するわけでもなく、マニフェストも当てにならない。現実はそうかもしれません、「不幸にも」。だから、そんなもの信じるのは甘い、ということでしょうか。マスコミも政党も「具体的に示した」「丁寧に解説した」「契約だ」とおっしゃった以上、それはやはり言い逃れとして責められるべきで、国民は「聞いてない」「話が違う」と何度でも声を上げていいと思います。

     誤った意思決定を引き受けるのが民主主義というのは、やはりハードルを上げて国民側の「覚悟」を迫るものですが、むしろそれが彼ら「専門家」を名乗る方々を甘やかし、彼らに都合がいい理屈になっていいわけがありません。

     ただし、その意味では、組織(弁護士についてはもちろん日弁連)が失敗を認めて、政策をはっきり転換すればよい、という小林弁護士の指摘には全面的に賛成です。専門家にも、もちろん誤りはあります。彼ら側の自覚として、それを認め、転換するというのは、いうまでもなく正しい姿勢です。ただ、その過程で、前記したように、同じ「専門家」でもいろいろいる、こっちは初めからダメと言っていた、という話は別にして頂いても、それが真実ならば、大衆としては別にいい。外形的に一色とみられる勢力のなかで、実は内部に抵抗運動があったという歴史は存在しますし、それを知る意味はありますから。

     福島原発事故以降、学者、大マスコミ、政府いずれの言い分も信じられない、むしろ疑ってかかるべきという大衆の目線は強くなっているように見えますし、それはむしろ残念ながら、望ましいと思っています。ただし、「専門家」が故意に伝えていないことも含めて、国民の選択を誤らせた責任は、あくまで彼らに負ってもらうという立場に、国民は立つべきです。もし、それが嫌だと言うのならば、彼らはせめて自説を述べたあと、必ずこう言うべきです。

      「信じるか信じないかはあなた次第です」


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    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
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