傷つけられた「マニフェスト」

      「マニフェスト」の語源は、ラテン語の「手」(manus)と「打つ」(fendere)の合成語というのが、通説だそうです。「手で打つ」から「手で感じるほど明らか」が派生し、「はっきり示す」という意味になったと。語源は所詮語源ですが、この成り立ちを見てしまうと、手に取るようにはっきり示されてこそのマニフェスト、という気にはなってきます。

     マルクスの「共産党宣言」にも登場することで知られるこの言葉ですが、今日、わが国でわれわれが目にすることになっているマニフェストは、直接的には19世紀にイギリスで政策綱領をそう呼んだことの流れです。

     日本でこの言葉が言われ出したとき、もともとわが国にある「公約」とどこが違うんだ、ということがさんざん言われました。そして、その都度、マニフェストの意義を強調される方々が言われたのは、要するにその特別な重みです。つまり、そこには具体的な数値目標が示され、より実効性を担保させることにその意義があるのだ、と。当然、具体的に示された政策目標は、国民に対して、はっきりした達成度が分かるものとなり、それが次の選挙での審判につながる。その言い逃れのできない緊張感が、政治家たちを国民との約束遵守に向かわせる、ということです。

     民主党政権とは、この「マニフェスト」への国民の期待感のうえに、樹立できたものといっても過言ではありません。菅直人・前首相は、かつてこれを国民との「契約」と表現し、長沼昭・元厚労相は、「国民からの命令書」とまで言いました。政治家やマスコミが好んで使うマニフェストという言葉と考え方が、多くのこの国の国民に浸透し、なじんでいるかどうかとはかかわりなく、少なくとも民主党が掲げたこの言葉は、この国の今回の「政権交代」の決め手となった、決め手として使われたのは紛れもない事実です。

     その後の民主党政権が、この「マニフェスト」の実現について、いわばぼろぼろであることは、多くの方々が指摘するところです(「弁護士兼光弘幸の気まぐれブログ 」)。そのことは民主党政権の実力としても、「政権」を取りたいがために盛られた公約の不適切さとしても、問われることは当然です。ただ、さらに別の突っ込みどころがあるように思えてなりません。つまり、マニフェストという存在は、どうするつもりだということです。

     要するに、民主党は今後、選挙でマニフェストをどう掲げるつもりなのか、いや、どう国民の前に掲げられるのか、ということです。つまり、あれだけ「国民との契約」と強弁した存在は、これからは、実は国民の意思を確認するまでもなく、自由に政党間のその後のやりとりで変わる内容として、これを掲げるのか、ということです。

     ここ一連の民主党の姿勢をみると、もはやマニフェストというものに筋を通す気持ちがないのではないか、という思いを強くします。公約というものが絶対でなく、修正が必要であるというにしても、もし、マニフェストという国民との契約にこだわるのであれば、それには筋の通し方があります。

     6月16日付け朝日新聞朝刊1面は、「政権交代の回路壊した」と題する曽我豪・政治部長の論評を掲載しています。「日本の政党政治が追い求めた政権交代のサイクル」がやっと循環し出したときに、民主党はそのサイクルを「起動させるかなめの公約をかなぐりすてた」、消費税は「やる」に変わり、「『国民の生活第一』ととなえながら、肝心かなめの社会保障の公約さえ、主体的な判断でなく、ただ、自公両党を振り向かせるためにだけ棚上げした」――。

     曽我氏は、このことで「サイクルの正統性と国民の信頼は激しく傷ついた」としていますが、これは同時に、マニフェストという「契約」の信頼性そのものが、国民にとって履行されない、もしくは履行にこだわってくれない結果として、決定的に傷ついたことを意味しています。もし、この「契約」によって、前記したような国民と政治家の間の緊張感をもった関係を、本当にこの国につくることが目指されたのだとすれば、マニフェストという存在自体を貶めることにつなげた民主党の責任は大きいものがあります。

     さらにいえば、今の民主党主流派のマニフェストが傷つくことを全く顧みないように見える、その姿は、この存在に対するもともとの強弁と熱意の方を疑わせます。履行されない、するつもりのない契約は、国民の期待感を募り、単に集票のために利用することが、その目的だったのだと。そして、これからも何度でも、そのように利用されるものなのだ、と。

     皮肉にも、民主党の「マニフェスト」が、結果として私たちの前に「はっきりと示した」ことは、そのことだったように思えます。それよって、いつか国民の目が肥えればいいという人もいそうですが、その前に、契約の無力さとともに、底なしの不信感の谷に墜ちていく感じは拭いされません。

     最近、ある市民からこの件に関して、面白いことを言われました。

      「今の政界の主な登場人物たちをみると、弁護士が沢山いるようだけど、その人たちは、その感性で、国民との契約違反については何とも思わないの?」

     もはや「弁護士議員」という存在に、そうした感性を期待すること自体、そもそも疑問といってしまえば、それまでですが、裏切られた側からすれば、そう言いたくなることは理解できます。


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    まとめtyaiました【傷つけられた「マニフェスト」】

      「マニフェスト」の語源は、ラテン語の「手」(manus)と「打つ」(fendere)の合成語というのが、通説だそうです。「手で打つ」から「手で感じるほど明らか」が派生し、「はっきり示す

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    No title

    法律学・法学としての憲法の想定する国会議員の姿は、そもそも全権委任型であるので、マニュフェストに違反しても契約違反と同列に考えることはないと思います。
    弁護士で憲法を学んだことがあるということであれば、マニュフェストがあろうが無かろうが、どの政党から出馬しようが、全国民のために議論し、議員として意思表示(採決に票を投じる)するのであれば、全く問題はない。その結果責任は、選挙によって審判されるのみ。
    むしろ弁護士であれば、そのように考えるのが普通だと思います。

    勿論、一般の理解と相違することは、その通りです。
    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


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