ある陪審評決への注目

     1914年パリ。当時、フランスの大蔵大臣で、急進派のジョセフ・カイヨーは、就任早々、所得税への累進課税導入など、着々と革新的な経済政策を打ち出しました。これに対し、保守派が反撃を開始。なかでも保守系の大新聞「フィガロ」の主筆兼社長だったガストン・カルメットは、連日、カイヨー蔵相に対し、収賄をしたとかドイツのスパイであるなどといった、筆誅を加えました。

     しかし、さまざまな彼への攻撃でも、社会があまり動かないことに業を煮やした同紙は、カイヨー夫婦の結婚前のスキャンダルな経過を、双方で交わされた手紙を公表することで暴露すると予告。これに対して、蔵相夫人のアンリエット・カイヨーは、主筆・カルメットに面会して、同紙が攻撃するような行為の不存在、プライバシーに関する公表の不当性を抗議し、掲載の中止を求めます。

     ところが、カルメットは、この求めを頑強に拒絶。結果、カイヨー夫人は、隠し持っていたピストルで、彼を撃ち、即死させてしまいます。現職蔵相夫人による大新聞社主筆の射殺は、それだけでもセンセーショナルな事件として取り上げられて当然のものでしたが、その後の展開は、これを歴史的事件として記録にとどめることになります。

     この事件の被告人アンリエット・カイヨーは、陪審裁判にかけられますが、1週間後、陪審員は、カルメットの死が、カイヨー被告人が発射したピストルの弾丸に起因することを認めながら、評決では「無罪」を言い渡したのでした。

     実は、この事件の顛末に、戦前の日本で、陪審制度導入を推進した法曹たちが注目していた形跡があります。推進論者として知られた花井卓蔵も著書「訟庭論草」で取り上げています。もちろん、彼らが注目したのは、陪審という制度の強力な威力だったというべきです。

     法曹人物譚を残したことで知られる小林俊三弁護士は、著書のなかで、こう分析しています。

     「この評決について私の感じたことは、陪審というものは、犯罪的事実であっても、国民大衆がその被告を罰することを欲しないときは、このような無罪の評決をする場合も許されるのであって、これこそ前記花井博士がいう『陪審は司法に民意を酌むの制度なり』『陪審は裁判上国民の自由を保障す』『人の良心は法律よりも明快なる解決を与ふ』『陪審は裁判官をして司法民意の精神を養わしむ』等の趣旨に合致するものと考えるが、いかかであろうか」(「私の出会った明治の名法曹物語」)

     さて、この事件と評決を、今の弁護士、さらには社会がどう受け止めるかを考えてみれば、およそ小林弁護士のようなものにはならないと思います。人を死に至らしめる犯罪の事実をもってしても「無罪」を言い渡す妥当性の問題ということよりも、それを成立されるほどの、徹底して「民意」「裁判上の国民の自由」を尊重する、あるいはそれにゆだねることを妥当とみる考え方自体が、ほとんど存在しないのではないか、と思えるからです。そこまで「民意」にゆだねることを民意がよしとしないということです。

     そこには、いうまでもなく、当時の弁護士たちが陪審制度導入に込めた精神のありようをうかがい知ることができると同時に、裁判員制度推進派の弁護士たちが今、その意義としていう、司法への民意の反映とは、明らかに違うものを見ることができます。いまや、このエピソードにむしろ危険なものを感じる大衆、あるいは弁護士もいるだろうことを考えると、民意の反映のとらえ方そのものが、その時代の法意識を反映しているような気がしてくるのです。

     実は、前記アンリエット・カイヨー事件の無罪評決には、こんな話も伝わっています。事件当初、被告人アンリエットに対し冷たく、またカイヨー蔵相を「国賊」呼ばわりした世論は、カルメットが反フランスのプロパガンダにかかわっていたことが伝わると一転。これがアンリエット無罪評決につながり、彼女は一躍「愛国的な暗殺者」に祭り上げられたというのです。

     この評決に注目し、そこに陪審制度への期待を被せただろう当時の日本の弁護士たちが、この伝えられている事実を知っていたかも、知ったうえでなお前記のような思いを込めたのかどうかも分かりません。ただ、少なくとも現代社会に生きる人間としては、むしろ民意反映の恐ろしさを伝える、このあとの話の方にリアリティを感じてしまいます。


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    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


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