「二割司法」の虚実
時々、この社会には、すごいパワーを持った言葉というものが登場します。人々の間への浸透力を持ち、印象に残るとともに、時にその人々を突き動かしてしまう言葉です。
みなさんは「二割司法」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。この言葉の意味は、「わが国の司法は本来果たすべき機能の二割しか機能していない」ということです。じゃあ、残りの八割は、どうなんだということになりますが、この言葉が意味するわが国の実態としては、泣き寝入りとか、政治決着とか、行政指導とか、ゴネ得とか、暴力団による解決とか、いわばよろしくない形になっているということになります。
実は、この言葉は、まさに法曹界ではこの十年、前記のようなパワーを持った言葉として存在してきたのです。なぜかといえば、この言葉がある意味、法曹関係者を奮起させることになったからです。つまり、二割しか機能していない機能不全をなんとかしなければいけない、もっともっと法律家は頑張らなきゃいけないのだと。
これを聞いた法曹関係者も、大マスコミも、あるいは市民も、そうだそうだという話になりました。
この言葉を提唱したのは、元日本弁護士連合会会長で、「平成の鬼平」としてマスコミの寵児となった中坊公平さんという方です。司法改革という流れの中で語られた、彼のこの言葉は、「改革」のスローガンの一つとなりました。彼が提唱した「改革」路線は、弁護士界のなかで「中坊路線」とまで呼ばれ、彼は「ミスター司法改革」とまで言われました。
「二割司法」という言葉は、すごいパワーを持って「改革」を先導しました。二割にとどまるのは、それを支える法曹の数の少なさにあるとの考え方からは、年間3000人という大量増員路線を生みだしましたし、裁判にかかる時間の短縮といった制度改革や、裁判員制度創設につながる、司法に民意という方向も後押ししました。
弁護士だけでなく、裁判所、検察庁も含む、いわゆる「法曹三者」がそれぞれの立場で、この言葉を制度改革や運用改善への自戒の言葉として、受け止めた観があります。
結構、結構ということで、「改革」が進められて、気がつくと大量増員路線がいろいろなひずみを生みだしてきました。若手弁護士の就職難、弁護士全体の経済的な沈下、法曹教育の限界と質低下の現実。
じゃあ、「二割司法」は何だったのか、と振り返れば、なんと「二割」という根拠はありません、という話なのです。武本夕香子弁護士が書いているブログがありますので、是非ご覧になってみてください。
結論からいうと、二割という機能不全は提唱者のいわば感覚的なものだったのです。むしろ、この国の司法に機能不全があったとしても、八割という評価には問題がありました。ニーズという意味では、まだこの国に膨大な潜在的ニーズがあるということを意味してしまったからです。しかも、以前にも書きましたが、それは司法にお金が流れ、あるいは大量の弁護士を支える、いわば有償のニーズと、弁護士がボランティアとしてもやるべき無償のニーズが、今日に至るまで区別されずに語られることになりました。
結果、もっともっと数を増やさなければならない、増やしてもそれを支えてくれるニーズは、この国に沢山あるのだから、という「改革」主導派の意見になっていってしまったのです。
要するに、八割という「眠れる大鉱脈」の幻想に、弁護士界全体が傾いた結果が、今の大増員を基調とした「改革」の現状です。もちろん、弁護士の中には、はじめからこの「改革」路線に疑問符を投げかけていた人々はいたのですが、一貫して旗振りをしている大マスコミの論調の中で、大衆に十分その声が届いたかといえば、それは疑問です。
「二割司法」のすさまじい威力というべきでしょうか。今は法曹界を去った提唱者の「中坊公平」という人物についての評価は、この世界でもさまざまですが、少なくとも名(迷)コピーライターであったということだけは間違いないようです。

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みなさんは「二割司法」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。この言葉の意味は、「わが国の司法は本来果たすべき機能の二割しか機能していない」ということです。じゃあ、残りの八割は、どうなんだということになりますが、この言葉が意味するわが国の実態としては、泣き寝入りとか、政治決着とか、行政指導とか、ゴネ得とか、暴力団による解決とか、いわばよろしくない形になっているということになります。
実は、この言葉は、まさに法曹界ではこの十年、前記のようなパワーを持った言葉として存在してきたのです。なぜかといえば、この言葉がある意味、法曹関係者を奮起させることになったからです。つまり、二割しか機能していない機能不全をなんとかしなければいけない、もっともっと法律家は頑張らなきゃいけないのだと。
これを聞いた法曹関係者も、大マスコミも、あるいは市民も、そうだそうだという話になりました。
この言葉を提唱したのは、元日本弁護士連合会会長で、「平成の鬼平」としてマスコミの寵児となった中坊公平さんという方です。司法改革という流れの中で語られた、彼のこの言葉は、「改革」のスローガンの一つとなりました。彼が提唱した「改革」路線は、弁護士界のなかで「中坊路線」とまで呼ばれ、彼は「ミスター司法改革」とまで言われました。
「二割司法」という言葉は、すごいパワーを持って「改革」を先導しました。二割にとどまるのは、それを支える法曹の数の少なさにあるとの考え方からは、年間3000人という大量増員路線を生みだしましたし、裁判にかかる時間の短縮といった制度改革や、裁判員制度創設につながる、司法に民意という方向も後押ししました。
弁護士だけでなく、裁判所、検察庁も含む、いわゆる「法曹三者」がそれぞれの立場で、この言葉を制度改革や運用改善への自戒の言葉として、受け止めた観があります。
結構、結構ということで、「改革」が進められて、気がつくと大量増員路線がいろいろなひずみを生みだしてきました。若手弁護士の就職難、弁護士全体の経済的な沈下、法曹教育の限界と質低下の現実。
じゃあ、「二割司法」は何だったのか、と振り返れば、なんと「二割」という根拠はありません、という話なのです。武本夕香子弁護士が書いているブログがありますので、是非ご覧になってみてください。
結論からいうと、二割という機能不全は提唱者のいわば感覚的なものだったのです。むしろ、この国の司法に機能不全があったとしても、八割という評価には問題がありました。ニーズという意味では、まだこの国に膨大な潜在的ニーズがあるということを意味してしまったからです。しかも、以前にも書きましたが、それは司法にお金が流れ、あるいは大量の弁護士を支える、いわば有償のニーズと、弁護士がボランティアとしてもやるべき無償のニーズが、今日に至るまで区別されずに語られることになりました。
結果、もっともっと数を増やさなければならない、増やしてもそれを支えてくれるニーズは、この国に沢山あるのだから、という「改革」主導派の意見になっていってしまったのです。
要するに、八割という「眠れる大鉱脈」の幻想に、弁護士界全体が傾いた結果が、今の大増員を基調とした「改革」の現状です。もちろん、弁護士の中には、はじめからこの「改革」路線に疑問符を投げかけていた人々はいたのですが、一貫して旗振りをしている大マスコミの論調の中で、大衆に十分その声が届いたかといえば、それは疑問です。
「二割司法」のすさまじい威力というべきでしょうか。今は法曹界を去った提唱者の「中坊公平」という人物についての評価は、この世界でもさまざまですが、少なくとも名(迷)コピーライターであったということだけは間違いないようです。

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