「社会生活上の医師」という期待と現実
司法改革以降、業界内でさんざん聞かされてきた、弁護士についていわれる「社会生活上の医師」という言葉には、もはや虚しさと、哀れささえ覚えます。司法制度改革審議会が「法曹」という括りで、果たすべき役割を医師に例えたこの言葉は、明らかに当時の弁護士に好意的に受け取られ、その後、この「改革」とともに、彼らがこぞって用いてきたといえるものです。
そこには、いろいろな思いが垣間見られます。「改革」に絡めて、自らへの「べき論」としての意味、その一方で社会に対しては、増員時代の「身近になる」想定だった弁護士という存在の再認識を促したり、イメージ化しようとする意味。弁護士界から発せられる業界アピールは、「みなさんはご存じないかもしれませんが」と前置きを付けているようなものが多いように思いますが、この言葉にも、どこが市民・国民にその存在についての気付きを与えようとするような響きがあります。
さらに、ここに業界的な印象を一つ付け加えるとすれば、この言葉が弁護士に好意的に受けとめられた背景として、彼らの医師という仕事に対する強い羨望が透けて見えることです。社会的地位の高さで並べられる資格業でありながら、弁護士からすれば、保険に支えられている経済的基盤も含めて、社会に保護されている存在の必要性(度)、あるいはその認知そのものの違いは明白であり、ある意味、この言葉はその点への思いを刺激する。そして、それは彼らに「改革」への期待感につながった、正確にいうと、その違いを埋めるような未来を「改革」の先に描きたかった、ようにとれるのです。
今、この言葉に感じる虚しさと哀れさの根底にあるのは、一言でいえば、そのことだと思えます。これまでも書いてきたように、そもそもこの例えには無理があったといわなければなりません。医師にとっての病気のような絶対的共通の敵を持たず、あらゆる階層の立場に立つ弁護士は、社会のさまざまな「正義」の主張を背負うことを宿命づけられています。
もちろん、弁護士は「人権擁護」を最大公約数的にとらえ、その侵害をいわば「共通の敵」のようにとらえ、また強制加入によって会員を束ねている弁護士会も、そこに存在意義や価値を被せてきました。その立場からすれば、「共通の敵」がないということに異論も出そうですが、前記弁護士という仕事の実態からすれば、少なくとも、それは決定的に社会には分かりにくい(「弁護士の『本質的性格』と現実」 「『医師』に例える思惑」)。
「なぜ、凶悪犯の罪を軽くするための活動をするのか」「おカネさえもらえば、どんな側の弁護にも立つのか」。こんな言葉が相変わらず、繰り出されることそのものが、弁護士の社会的イメージと、弁護士の前記発想や自覚との決定的に埋まらない乖離を感じさせます。
今にしてみれば、当時の弁護士たちは、この言葉の無理に、その思いや期待感はともかく、もう少し冷静な目を向けるべきだったように思います。有り体にいえば、弁護士という仕事に、医師のように、必要度が裏付けている社会の反応を本当に期待できるのかについてです。弁護士の役割の社会的認知が進めば、潜在的にお金を投入する用意がある市民が、経済的に自分たちを支えるはず。だから社会の津々浦々に進出する弁護士を社会は拍手をもって迎えるはず。潜在的ニーズがある、行政も企業も、われわれを必ずや遇して迎え入れてくれるだろう。だから、弁護士大増員も大丈夫なはず――。
「社会生活上の医師」は、その役割の重要性が認知、評価されるほど、弁護士も医師のように社会に遇される未来を描いた、マジックワードとなっていたというべきかもしれません。
「私は残念ながら、弁護士像を理想化しすぎた日弁連・司法制度改革審議会の誇大妄想ではないかと思っている。弁護士が過疎地を含めて常に身近にいるだけで社会が良くなるなんて思い上がりも甚だしい」
坂野真一弁護士が、弁護士増員で司法過疎は解消できるのかというテーマに切り込んでいる最近のブログエントリーで、この言葉の発想に関して、こう厳しく指摘しています。
また、前記「共通の敵」に関する医師との違いに言及したうえで、弁護士が裁判で勝てば勝つだけ、その勝利の数に応じて、裁判での争いに負ける相手方があふれるのだが、日弁連は、勝つべき事件だけ勝ち、負けるべき事件は負けるという、客観的正義を実現するような、理想の弁護士像を描いている可能性を指摘。負けるものは負けましょうという弁護士に誰が依頼するのかと疑問を呈したうえで、「職業が生活の糧を得るための手段であるという厳然たる事実を直視すれば、自営業者にそのような態度をとるように求めることは、不可能を強いるもの」と断じています。
一方、預かり金口座の保険会社からの損害賠償金3千万円を横領した長野県弁護士会の弁護士に、11月17日付で退会命令が出された件が、業界内で波紋を広げています。額の大きさもさることながら、最も深刻に受け止められているのは、この手の依頼者のカネに手をつける弁護士の不祥事が止まらない現実です。日弁連の預かり金口座義務づけといった対策の無力さも、決定的になっているという指摘があります(「『預かり金流用』という弁護士の現実」)。
メディアの取材に、同弁護士会会長は、謝罪とともに全会員対象の研修など再発防止に取り組む意向を示したことも報じられています。立場としては、こういわざるを得ないことは一応理解できても、あえていえば、本当にこれはこの言葉通りの形で責任が負える話なのか、という疑問を持ちます。おそらく多くの弁護士は、こうした状況の根本的な背景が、「改革」が生んだ弁護士の経済的変化・窮状にあること、そしてそれが解消されない以上、いくら倫理的自覚を促しても、あるいは片っ端から排除していくという論理で、再発防止ができない現実を知っているはずです。
自治の建て前論もあります。つまり経済的問題を理由にすることが、会の自浄作用を疑われるという発想を背景に、倫理的自覚の促進と規制で、いわば「なんとかなる」「なんとかする」という考え方です。ただ、これは前記効果の問題を考えた時、本当に利用者被害の防止を何よりも優先した対策といえるのかという疑問が湧きます。これで本当に何がつながるのだろうか、という思いになります。
「実際の弁護士像と日弁連の想定する理想の弁護士像がずれたままで弁護士増員だけが進行しても、実際には飢えた傭兵が社会の中に増えるだけで、社会正義の実現はもちろんのこと、司法過疎の解消には全くつながらない」
前記エントリーで坂野弁護士は、こうも指摘しています。弁護士(会)は、現実を直視できないまま、「社会生活上の医師」という言葉で彼らが期待した世界とは、もはや遠くかけ離れてしまったという観があります。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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そこには、いろいろな思いが垣間見られます。「改革」に絡めて、自らへの「べき論」としての意味、その一方で社会に対しては、増員時代の「身近になる」想定だった弁護士という存在の再認識を促したり、イメージ化しようとする意味。弁護士界から発せられる業界アピールは、「みなさんはご存じないかもしれませんが」と前置きを付けているようなものが多いように思いますが、この言葉にも、どこが市民・国民にその存在についての気付きを与えようとするような響きがあります。
さらに、ここに業界的な印象を一つ付け加えるとすれば、この言葉が弁護士に好意的に受けとめられた背景として、彼らの医師という仕事に対する強い羨望が透けて見えることです。社会的地位の高さで並べられる資格業でありながら、弁護士からすれば、保険に支えられている経済的基盤も含めて、社会に保護されている存在の必要性(度)、あるいはその認知そのものの違いは明白であり、ある意味、この言葉はその点への思いを刺激する。そして、それは彼らに「改革」への期待感につながった、正確にいうと、その違いを埋めるような未来を「改革」の先に描きたかった、ようにとれるのです。
今、この言葉に感じる虚しさと哀れさの根底にあるのは、一言でいえば、そのことだと思えます。これまでも書いてきたように、そもそもこの例えには無理があったといわなければなりません。医師にとっての病気のような絶対的共通の敵を持たず、あらゆる階層の立場に立つ弁護士は、社会のさまざまな「正義」の主張を背負うことを宿命づけられています。
もちろん、弁護士は「人権擁護」を最大公約数的にとらえ、その侵害をいわば「共通の敵」のようにとらえ、また強制加入によって会員を束ねている弁護士会も、そこに存在意義や価値を被せてきました。その立場からすれば、「共通の敵」がないということに異論も出そうですが、前記弁護士という仕事の実態からすれば、少なくとも、それは決定的に社会には分かりにくい(「弁護士の『本質的性格』と現実」 「『医師』に例える思惑」)。
「なぜ、凶悪犯の罪を軽くするための活動をするのか」「おカネさえもらえば、どんな側の弁護にも立つのか」。こんな言葉が相変わらず、繰り出されることそのものが、弁護士の社会的イメージと、弁護士の前記発想や自覚との決定的に埋まらない乖離を感じさせます。
今にしてみれば、当時の弁護士たちは、この言葉の無理に、その思いや期待感はともかく、もう少し冷静な目を向けるべきだったように思います。有り体にいえば、弁護士という仕事に、医師のように、必要度が裏付けている社会の反応を本当に期待できるのかについてです。弁護士の役割の社会的認知が進めば、潜在的にお金を投入する用意がある市民が、経済的に自分たちを支えるはず。だから社会の津々浦々に進出する弁護士を社会は拍手をもって迎えるはず。潜在的ニーズがある、行政も企業も、われわれを必ずや遇して迎え入れてくれるだろう。だから、弁護士大増員も大丈夫なはず――。
「社会生活上の医師」は、その役割の重要性が認知、評価されるほど、弁護士も医師のように社会に遇される未来を描いた、マジックワードとなっていたというべきかもしれません。
「私は残念ながら、弁護士像を理想化しすぎた日弁連・司法制度改革審議会の誇大妄想ではないかと思っている。弁護士が過疎地を含めて常に身近にいるだけで社会が良くなるなんて思い上がりも甚だしい」
坂野真一弁護士が、弁護士増員で司法過疎は解消できるのかというテーマに切り込んでいる最近のブログエントリーで、この言葉の発想に関して、こう厳しく指摘しています。
また、前記「共通の敵」に関する医師との違いに言及したうえで、弁護士が裁判で勝てば勝つだけ、その勝利の数に応じて、裁判での争いに負ける相手方があふれるのだが、日弁連は、勝つべき事件だけ勝ち、負けるべき事件は負けるという、客観的正義を実現するような、理想の弁護士像を描いている可能性を指摘。負けるものは負けましょうという弁護士に誰が依頼するのかと疑問を呈したうえで、「職業が生活の糧を得るための手段であるという厳然たる事実を直視すれば、自営業者にそのような態度をとるように求めることは、不可能を強いるもの」と断じています。
一方、預かり金口座の保険会社からの損害賠償金3千万円を横領した長野県弁護士会の弁護士に、11月17日付で退会命令が出された件が、業界内で波紋を広げています。額の大きさもさることながら、最も深刻に受け止められているのは、この手の依頼者のカネに手をつける弁護士の不祥事が止まらない現実です。日弁連の預かり金口座義務づけといった対策の無力さも、決定的になっているという指摘があります(「『預かり金流用』という弁護士の現実」)。
メディアの取材に、同弁護士会会長は、謝罪とともに全会員対象の研修など再発防止に取り組む意向を示したことも報じられています。立場としては、こういわざるを得ないことは一応理解できても、あえていえば、本当にこれはこの言葉通りの形で責任が負える話なのか、という疑問を持ちます。おそらく多くの弁護士は、こうした状況の根本的な背景が、「改革」が生んだ弁護士の経済的変化・窮状にあること、そしてそれが解消されない以上、いくら倫理的自覚を促しても、あるいは片っ端から排除していくという論理で、再発防止ができない現実を知っているはずです。
自治の建て前論もあります。つまり経済的問題を理由にすることが、会の自浄作用を疑われるという発想を背景に、倫理的自覚の促進と規制で、いわば「なんとかなる」「なんとかする」という考え方です。ただ、これは前記効果の問題を考えた時、本当に利用者被害の防止を何よりも優先した対策といえるのかという疑問が湧きます。これで本当に何がつながるのだろうか、という思いになります。
「実際の弁護士像と日弁連の想定する理想の弁護士像がずれたままで弁護士増員だけが進行しても、実際には飢えた傭兵が社会の中に増えるだけで、社会正義の実現はもちろんのこと、司法過疎の解消には全くつながらない」
前記エントリーで坂野弁護士は、こうも指摘しています。弁護士(会)は、現実を直視できないまま、「社会生活上の医師」という言葉で彼らが期待した世界とは、もはや遠くかけ離れてしまったという観があります。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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