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    オウム死刑執行への抗議と日弁連の存在意義

     オウム真理教の教団元幹部らへの異例の大量死刑執行の報が流れた直後から、ネット空間を中心に弁護士の間では、あることが話題となり、ざわつきはじめました。「日弁連はどうするか」「日弁連はどうせやるんだろうな」と。日弁連会長が、この執行に対して抗議声明を出すということ。それを当然と受けとめられない、あるいはその影響を気にする声が溢れ始めたのです。

     そんな異論、懸念をよそに、予想通り、菊地裕太郎会長は執行された7月6日付けで抗議の声明を発表しました。

     「犯罪により身内の方を亡くされた遺族の方が厳罰を望むことは、ごく自然なことであり、その心情は十分に理解できる。一方で、刑罰制度は、犯罪への応報であることにとどまらず、社会復帰の達成に資するものでなければならない。それが再犯の防止に役立ち、社会全体の安全に資することになる。人権を尊重する民主主義社会であろうとする我々の社会においては、犯罪被害者・遺族に対する十分な支援を行うとともに、死刑制度を含む刑罰制度全体を見直す必要がある」
     「死刑に直面している者に対し、被疑者・被告人段階、再審請求段階、執行段階のいずれにおいても十分な弁護権、防御権が保障されるべきであり、再審請求中の死刑確定者に対する死刑の執行はこの観点からも問題の残るものである」

     声明のなかでも触れられていますが、日弁連は2016年10月の人権擁護大会で、2020年までに死刑制度廃止を目指すべきことや、刑の言渡し時には「仮釈放の可能性がない終身刑制度」、現行の無期刑が仮釈放の開始時期を10年としている要件を加重し、仮釈放の開始期間を20年、25年等に延ばす「重無期刑制度」導入の検討などを盛り込んだ宣言を採択。今年3月には、すべての死刑確定者に対する死刑執行の停止、特に再審請求中の死刑確定者に対する死刑の執行及び心神喪失の疑いのある死刑確定者に対する死刑の執行を停止を求める要請書を提出しています。

     それを考えれば、今回の執行に当たり、整合性という意味でも、会長声明が出されるのは当然と言えば当然であり、むしろ日弁連として何もアクションをしない方が不自然です。しかし、それでも弁護士の中に、冒頭のようなざわめきが起こるのは、前記宣言を含めた死刑制度に対する日弁連の姿勢への会員コンセンサスが不十分であり、不満がくすぶっている現状を反映しているとみることがてきます。

     この問題で問われているのは、大きく括ってしまえば、二つのことであるといえます。一つは、この日弁連の行動が果たして「政治活動」といえるものなのか、そしてもう一つは強制加入団体として妥当なのか、です。もちろん両者は被っていて一つととらえてもいいかもしれませんが、後者は「政治的」と括られないものも含めた是非が問われる可能性に関わるものです。

     日弁連の活動を「政治的」という括り方で批判する意見は会内外に古くから存在してきました。そして、今回についても、これを「政治活動」として、「政治活動をしたいのであれば、弁護士個人で行うか、弁護士で構成された任意の政治団体で行うべき」という意見が出されています(井戸端会議・瓦版)。

     前記引用したような主張をする日弁連の活動が、まず「政治活動」なのかで意見が分かれ、それによって、あるいはそれにかかわらずとも、思想・信条という観点で、会員の意見が大きく分かれている問題に対しては、強制加入団体の性格からいってふさわしくない、という異論があり、どちらにしても結論は「任意団体でやれ」ということになります。

     しかし、ここで問われるのは、人権擁護団体あるいは専門職能集団としての日弁連・弁護士会の存在意義です。これまでも書いてきたことですが、それが仮に「政治的」という烙印を押されようとも、あくまでその立場から言うべきことは言い、行動すべきことは行動しなければなりません。むしろ、「政治的」という烙印を押される度に、あるいは多数派世論の厳しい視線にさらされる度に、それを恐れて、沈黙し、筋を通せない専門家集団に存在意義があるとはとても思えません(「『左傾』とされた日弁連の本当の危機」 「弁護士会が『政治的』であるということ」 「発言する日弁連の不安要因」)

     前記声明の内容は、専門家集団として、今後社会が制度の存廃を議論するうえでも、社会に提示していい、問いかけていい、一つの見識だと思います。むしろ、今回のような、重大事件での執行、反対すれば世論を敵に回す可能性があるときに、これを発信できるかどうかという意味では、まさに日弁連の存在意義がかかった試金石であったといえます。

     それでも、強制加入団体としては、その構成員の意思が反映されるべきで、それが統一されていない以上、これは妥当でない、配慮されるべき、という意見もあります。ただ、この点については、司法判断においても、一つの決着点が示されていることです。弁護士法1条に引きつけて、この目的の実現という範囲においては、こうした会の意思表明・活動には正当性があり、およそその範囲内では、特定意見を会員に強制するものではない。会員の思想・良心の自由の問題を完全に切り離して、会の行為の正当性が認められるという司法判断です(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)。

     つまり、有り体にいえば、日弁連・弁護士会としては、そういう主張なのかもしれないが、会員個人として私は違う、ということがあり、それも完全に認められているということです。それが認められているのは、その司法判断でも示されているように、そうしなければ個々の会員の活動には限界があり、弁護士法1条に掲げられた使命である基本的人権の擁護と社会正義の実現が達成できない、もしくは制限されてしまうということです。それが社会に周知されるかどうかの問題になります。

     個々の会員に異論がある場合、日弁連・弁護士会がその案件について対外的な意見発出ができない、活動もできないとなれば、それこそ夫婦別姓、戦後補償、憲法にかかわる問題、あるいは誤判・冤罪事件への対応に至るまで、事実上制約されてもおかしく、ともいえます。

     しかし、一番の大きな問題は、むしろ、今、多くの会員が、どうしてかつてのように割り切れなくなったのか、ということの方ではないかと思います。これまでだって、日弁連・弁護士会の活動が個々の会員意思を必ずしも反映してきたわけではなく、それを承知で会員は異を唱えず、前記した会と会員の関係を暗黙のうちに了解してきました。依頼者や顧問先の会社関係者から、会の意思表明に絡んで「先生も同じ考えですか」と問われ、困惑したといった話は、昔からありました。それでも、前記司法判断が引き出された、国家秘密法をめぐる会の意見表明が問題化したころは、少なくともそこに表向きこだわって発言する会員は少数派だったようにみえました。

     結局、「改革」がもたらした経済的異変によって、個々の弁護士会員は、こういう関係そのものを認められなくなってきた。よりそんなことよりも会員の利益を優先する弁護士会を求める欲求が会員に高まった、ということが大きいのだと思います。これまでがおかしかった、あくまで政治活動だ、という会員もいるでしょうが、「会員の利益になる活動さえしてくれていれば、あとは、死刑賛成だろうが反対だろうが、改憲賛成だろうが反対だろうが、別に好きにしてくれて構わない」という、ある意味、これまで前記会の活動を容認し、支えてきたサイレントマジョリティと同様の発想の、あるいはそこに戻り得る会員の意思も存在しているというべきです(「『新弁護士会設立構想』ツイッターが意味するもの」 「『普通の業者団体』という選択と欲求」)。

     しかし、それも前記したような日弁連・弁護士会の存在意義を前提として、その上に成り立っている話です。この会員世論の流れが、その前提そのものを全く不要とする方向にに進めば、過去がどうであれ、すべてが失われ、あるいは制約されていくことでしょう。日弁連・弁護士会が、もはやそうした分岐点にさしかかりつつあることも分かっておかなければなりません。


    弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794

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    No title

    活動家の刑弁教あるいは刑弁族が牛耳る日弁連。
    声明内容が完全に空想と被害妄想をベースに斜め上を行っており、シンプルにカルトです。
    上層部(執行部、理事)は肥え太りながら、食うや食わずの貧しい信者(会員)から金品を巻き上げるところなんかも、そっくり。

    No title

    詳しくは知らないが,昔の日弁連は総会決議などを行って,各種の人権問題について意見表明を行っていたと思う。
    しかし,今の日弁連は,広く会員からの意見集約を行わず,何十年も前の総会決議などに基づいて,延々と「従来の方針」に基づく会長名義の意見表明などを行っている。これは,当該総会決議後に入会してきた大多数の会員の意見は一切反映されないということだ。
    ここ数十年の間に,会員の顔ぶれは大きく変化し,個々の弁護士の人権に対する意識も変わってきている。京都弁護士会では死刑廃止の決議案が反対多数で否決されたそうだが,全国規模で会員の意見集約を行えば,日弁連でも同様に総会決議で死刑廃止の決議案が否決される可能性は大いにある。
    そのような可能性があることを認識しながら,日弁連が敢えて「従来の方針」を貫こうとするのは,いわば会内民主主義の否定である。私には,このような日弁連の暴挙を敢えて擁護しようとするブログ氏の思想は理解できない。

    No title

    宮崎県弁護士会は本年6月29日の定期総会において、「死刑執行の停止及び死刑制度の廃止に向けた取り組みを求める決議」を可決しました。

    弁護士法第1条は、弁護士は基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とし、その使命に基づき法律制度の改善にも努力するべき責務を定めています。

    死刑制度は、権力者に対し、正当防衛や緊急避難のような正当性の根拠なく個人の生命を奪う権限を与えるものであり、重大な人権問題の一つです。

    今回の死刑執行は、天皇の代替わり前にオウム事件を片付けておくことと、死刑制度を支持する世論を背景に、国家権力が個人に対する生殺与奪の権を持っていることを国民全体に知らしめることを目的に敢行されたと推測されます。

    刑罰を応報とする見地から死刑を根拠付けようとするのは、刑罰を執行するのが神ではなく人であるという限界を考えていない説であり、犯罪の一般予防的見地から死刑を根拠付けようとするのは、人の生命を手段とする生命軽視の考え方です。

    被害者の報復感情によって死刑を根拠付けようとするのは、復讐による殺人自体が何ら正当性を有せず、それ自体が殺人罪であることを看過していると言わなければなりません。


    参考
     米国の弁護士でもあり作家でもあるスコット・トゥローという人が次のように言っています。
     「一九八〇年代に遺族の権利運動が盛んになった基盤には、被害者遺族はしばしば刑事手続き上、脇に追いやられ、何も知らされず、忘れ去られてすらいた、という現実がある。しかし、この運動が盛んになったのが、レーガン政権中であったのも偶然ではない。この時代、安全というものが政府の行為の中では数少ない受け入れ可能な目標であるとする、古典的自由主義者による市場本位のイデオロギーを容認する風潮が高まっていた。その機運に頼って、法制度が安全を提供できない場合、国民は、法の権威を自分たちのものとみなす資格があると考えるようになった。つまり、死刑判決においては、時には被害者が司法制度の事実上の所有者となった。」
     「死刑制度を支持する法律家が、「被害者のことを考えれば当然だ。」というよく知られた呪文を用いて死刑を正当化するが、この表現を押し進めていけば「別の結論を指し示す」ことになるため、私には最たる欺瞞と思えてならない。つまりこの議論を拡大すれば、この理屈自体が覆されることが自明となる。ひとたび我々が被害者の幸せを中心的関心事にし、死刑執行が彼らにとって最大の慰めになると見なすならば、ある家族にはこの救済を認め、他には認めないといった原則を採ることはできないはずである。個々の遺族の視点からすれば、喪失感、怒り、そして殺人犯の処刑を見ることから個々の遺族が得る慰めは愛するものがベルトウェイ・スナイパー事件で非業の死を遂げようと、酒店強盗のさなかに衝動的に発砲された銃弾で殺されようと、同じである。被害者第一主義では、殺人犯を区分するために意味ある基盤を認める余地が存在しない。」(指宿信外共訳「極刑」65頁~)

     被害者の権利運動が米国で盛んになったことが、死刑制度支持者の増加の背景となっていること、そして、「古典的自由主義者による市場本位のイデオロギー」を容認する風潮がその下地になっていることが指摘されています。彼は「古典的自由主義者」と呼んでいますが、1980年代に米国で支配的となった思想こそ「新自由主義」、「ネオ・リベラリズム」と呼ばれる思想です。これは、端的に言えば強者の自由主義、支配層の自由主義です(デヴィッド・ハーヴェイ著「新自由主義」)。

    それでも、アメリカでは死刑の判決には通常の刑事手続ではなく、スーパーデュープロセスと呼ばれる何重もの関門が設けられています。日本では、非常に安上がりに死刑判決が確定し、再審も極めて狭き門になっていますが、えん罪防止のために何ができるかという議論さえ起こりません。それ自体が、日本における生命軽視、人権軽視の風潮を世界に示しています。

    No title

    京都弁護士会は死刑廃止の決議を反対多数で否決しました。
    民主主義的帰結として、京都弁護士会は日弁連の死刑廃止会長声明とは対立します。
    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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