「給付制」と「社会還元」をめぐる日弁連の印象

     昨年12月に法務省が発表した、司法修習生「給費制」の事実上の復活といえる、いわゆる「給付制」に関連して、確認した制度方針が法務省のホームページに掲載されています(法務省「司法修習生に対する経済的支援について」)。その「主な確認事項」には、平成29年度以降採用予定の司法修習生(修習71期以降)に対する給付制度新設、給付金額、貸与制の併存とともに、次のような一文が書かれています。

     「給付制度の導入に合わせ,司法修習の確実な履践を担保するとともに,司法修習を終えた者による修習の成果の社会還元を推進するための手当てを行う」

     問題は「修習の成果の社会還元」という点です。司法修習を終え、法曹になれば、当然、そのそれぞれの職責を全うするなかで、「成果の社会還元」は行われていくと考えられそうなところ、なぜ、ことさらにその推進がここで確認されているのか――。「給費制」廃止をめぐる議論を知っている人は、おそらく一つのことにしか、結び付けないと思います。ここで言われている「司法修習を終えた者」とは弁護士を指し、民間業者である彼らの「職業訓練」となる「修習」は本来、自弁でよく、公費の支出について、当然には社会的な了解が得られないという論調。

     すなわち、給付制を採用するのであれば、「社会還元」は条件として彼らに突き付けて当然、という捉え方につながっているようにとれます。その前提は、民間にある弁護士は裁判官、検察官とは異なるという、私益性の強調です。いわゆる弁護士会活動を含めた、「公益的」といわれる活動以外の、対価を伴う通常の個別事件への対応は、公費の支出にふさわしい「修習の成果の社会還元」にカウントしていないようにとれてしまいます。少なくとも、それだけではだめとして、それ以外の活動を、まさに条件化しているととれるのです(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。

     法務省の発表によれば、新制度の円滑な運営については、法曹三者が合意しており、当然、この「社会還元」の確認事項も、日弁連が受け入れたとれる形なっていました。そして、そのことを裏付けるある文書が、最近、ネット界隈の弁護士間で話題になっています。中本和洋・日弁連会長名で、全国の弁護士会会長あてに出されたとされる、10月17日付けの「司法修習第71期以降の会員に対する社会還元活動を推進するための手当て(取組)について(要請)」という書面です。

     その書面では、修習71期生以降について、修習成果の社会還元を推進する手当ては日弁連として「行うことになっております」としたうえで、同期以降の新規会員に対し、社会還元活動の意義・重要性やこれまでの実績を伝えるなど同活動を「積極的に行うよう要請してください」として、経験の浅い弁護士でも適切に同活動ができるための十分な研修実施や、会内外への周知・広報を弁護士会会長に求めています。

     さらに、この書面には、社会還元活動として、経済的社会的弱者への法的支援、人権擁護活動、司法過疎地域への法的サービス、法教育、コンプライアンス促進をはじめとする企業・団体への法的支援、児童相談所等地方公共団体等との連携を通じた諸活動、国選弁護、当番弁護、法律扶助等弁護士・弁護士会がこれまで取り組んできた弁護士の社会的使命に基づいて行われる諸活動などが列挙されています。

     ネット上に流出しているものの細部までが一致しているかの確認が出きていないものの、日弁連によれば、こうした要請が発出された事実はある、としています。

     社会還元活動という括り方を前提にしてしまえば、特別に異論を挟む余地はない、ととらえる見方もありそうですが、この内容にはやはり引っかかる点があります。日弁連が今、ことさら修習71期生以降について、これを要請することの意味をどうとらえるべきか、という点です。当然、これは給付制の復活に際した「手当」と位置付けられそうですが、列挙されている活動は、そもそもかつて「給費制」がとられるなかで、「社会還元活動」などと括られるまでもなく、弁護士が使命として取り組んできた活動です。

     71期生以降について、「改革」のもたらした経済的な影響もあって(要は活動する余裕がなく)、こうした活動が特におざなりになる危険がある、という見方を提示するのならまだしも、「修習の成果」として、ここを強調せねばならない、というのであれば、前記した「給付制」条件化論、あるいは「給費性」廃止論議でいわれた、「通用しない論」に、あまりに丸のりしている感じがしてしまいます。

     そもそも、法教育や人権擁護活動といった、それこそ弁護士・会がこれまで取り組んできた活動を、まるで見返りのように、国費投入を一部復活してもらったことと結び付けられる形で、今、日弁連自身が取り上げるべきなのでしょうか。弁護士がもっと事業者性を抑制し、公益性を追求しなければならない、という結果的に無理が明らかになったはずの、「改革」の中で描かれた論調(「弁護士の使命と事業者性をめぐる現実的視点」)の先に、やはり条件化されても仕方がない、公費投入にふさわしい弁護士の姿がある、といっているようにもとれてしまいます。弁護士は社会インフラである、とする、必要性を強調する弁護士会のトーンとも、大分違う印象です。

     弁護士会活動をはじめ列記されたような活動を実践するなかでも、そして、個々の依頼者に向い、対価を伴うなかで、公正な司法を実現する一翼を担うのであっても、本来的に弁護士は国に養成されるにふさわしい、という立場をとらない、あるいは、そこにこだわらないということでいいのでしょうか。

     やはり、「改革」によって、おざなりにされた「給費制」の本来的意義をめぐる議論が、日弁連自らの手で、どんどん後方に押しやられているようにみえます。


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    「改革」が変えつつある弁護士の姿

     話題になっている青山学院大学法務研究科(法科大学院)の来年度からの学生募集停止について、三木義一学長が発表した一文には、次のような下りがあります。

     「本学法務研究科は、2004年度に設置され、いわゆる法科大学院の一つとして、これまで数多くの司法試験合格者を輩出してまいりました。しかしながら、法曹の増大に対応した社会環境が十分に整わなかったこと等のために、法科大学院受験者の減少が続いてきました」

     三木学長は、募集停止の原因は彼らがどうにもできなかった志願者、入学者の減少にあり、さらにその理由の一つとして、主に弁護士と推察できる法曹の「増大に対応した社会環境」の不整備を挙げているのです。法科大学院撤退についての関係者の弁では、これまでも「改革」の想定外を強調した無念と恨み節が示されることになりがちで、ここでも結局は、自分たちの努力とは関係ないところに原因がある、ということが強調されることにはなっています(「法科大学院『本道』をめぐる現状認識と自覚の問題」)。

     ただ、今回の三木学長の弁で、一番引っかかるのは、増大した法曹(弁護士)に対応した社会環境の不整備という捉え方です。確かに、激増政策によって弁護士の経済環境が激変したことが、今日の法曹志望者減につながり、それが法科大学院を直撃した、という見方は間違っていません。問題はそこから先です。これを増員政策の完全な失敗とみて、弁護士の需要はなかった、というのであれば、むしろ話は簡単です。しかし、これが需要は絶対にある、整備すればなんとかなる(なんとかなった)という前提であるのならば、それはいったい具体的に誰に、どのようなことを求めるのか、そして、またそれが結果的にどういうことを意味してしまうかを考えなければならないはずだからです。

     「弁護士は経済的弱者ばかりを相手にしているわけではないだろ」。

     増員によって、これまでの経済的な基盤が崩れたことに対する影響を言う業界内からの声に対して、こういう声がしばしば浴びせかけられます。事実、弁護士は貧困層や弱者だけではなく、あらゆる階層の弁護をする立場にあります。おカネにならない人権問題等の活動をするには、弁護士の経済的な基盤が確保されている必要がある、という、いわゆる「経済的自立論」から、増員政策がその基盤を脅かし、そのしわ寄せはそうしたところにきてしまう、という弁護士側の主張にも、このことはぶつけられてきました。「いや、あなた方は、カネ持ちからおカネをとる商売もしているし、それができるではないか」と。それゆえに、弁護士会内にも、「経済的自立論」は封印した方がいい、という意見もあります。

     しかし、やはり私たちは、激増政策が結果的に、この「経済的自立論」が想定しているような弁護士を、この国から消しつつあることの方を心配すべきではないでしょうか。(「『経済的自立論』の本当の意味」)。「改革」の現状と、前記「経済的自立論」に批判的な論調を前向きに受けとめ、それを「自覚」した弁護士たちでこの国が満たされていくというのは、どういう状態を意味するのか、ということです。

     つまり、端的に行って、むしろ弁護士は堂々とカネ持ちの味方、よりカネを持っている側の仕事をやる存在でよし、という方向になるのではないか、ということです。「改革」の増員政策の現実と前記論調の捉え方を前提に考えれば、これは必ずしも心得違いという言い方はできません。競争とサービス業への自覚を求める「改革」が、生き残りをかけた彼らをそこに追い込んでいる、といえます。前記批判的論調は、もはや彼らからしても、「当然」と言いたくなる話なのです。

     「経済的自立」が倫理低下への歯止めになる、という論調は、いまでも弁護士のなかで聞かれます。「貧すれば鈍する」を弁護士自身が口すれば、またぞろ心得違いの批判を浴びることにもなりがちですが、一方で、この「改革」の流れのなかで生まれた、より採算性に目がいく弁護士たちが、「独立性」を担保し、その意味でプロフェッションとしての高い倫理性を保持しつつ、前記「経済的自立論」が想定していたような弁護士の役割をも果たす、という見通しに立てるのかどうかの問題です。

     三木学長が指摘した、増大した法曹(弁護士)に対する社会環境の不整備は、一体、誰にその解消の責任や努力を求めることになるのでしょうか。もし、弁護士にとって採算性のとれない無償性の高いニーズを、増大した弁護士がカバーするという前提であるのであれば、法テラスの現状をみても、弁護士任せにはできない経済的基盤の担保が、今、もっと検討されなければなりません。そうではなく、これまでの「改革」路線のように、これを弁護士の努力に求めるのであれば、その無償性の高いニーズから、彼らは当然に遠ざかり、堂々とサーヒス業の道を歩み、やがてそのニーズの担い手ではなくなるでしょう。前記した意味での「経済的自立論」など、いわれるまてもなく、口にする弁護士はいなくるかもしれません。

     基本的人権の擁護ともに、社会正義の実現を弁護士の使命としてうたう弁護士法1条は、彼らに課せられたカセだと以前書きました(「カセとしての弁護士法1条」)。彼らが、そこから外れ、遠のくことは、それだけ私たちにとって、危険なのだと。

     もちろん、この規定も、あらゆる階層を弁護する弁護士に当てはまります。しかし、今、この弁護士法1条すら不要、廃止すべきてはないか、という声が弁護士会の中から聞かれ始めています。それが一体、何を意味しているのか。人権擁護も含めて、無償性の高いニーズを、相手にしないこれからの弁護士にとって、この条文は、サービス業に課せられるには過剰なカセ、ということになっていくのでしょうか。

     弁護士・会サイドから言われ続ける「市民のニーズにこたえる」という言葉だけでは、今後、どうなっていくのか分からない、本当にその市民に有り難い存在になるのか皆目不透明な、弁護士の現実があるといわなければなりません。


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    「提訴」懲戒審査対象決定の波紋

     アダルトビデオ(AV)への出演を拒否した女性が所属プロダクションから、契約違反として2460万円の損害賠償を求められた訴訟(2015年東京地裁で請求棄却。確定)で、プロダクション側代理人を務めた弁護士について、日弁連が提訴に問題があったとして、「懲戒審査相当」の決定を出したことが、弁護士の間でも話題になっています。

     AV出演の強制、高額な請求という点からみて、不当な訴訟に加担した弁護士対する対応として、多くの人は日弁連決定に違和感を覚えないと思います。また、弁護士のなかでも、この訴訟の提訴時には、「呆れた」というニュアンスに近い批判の声を沢山聞きました。多くの弁護士の感覚としても、この提訴はその常識からズレていたととれました。

     ところが、これが日弁連の決定によって「懲戒審査相当」と位置付けられるとなると、今、別の違和感が弁護士のなかに広がっているようです。それは、この決定が訴訟の中身に踏み込んで、提訴自体を審査対象にしているところです。今回の決定で、今後弁護士の懲戒請求が、スラップといわれる巨額な請求による恫喝的な訴訟への対抗手段になるという捉え方もされていますが、逆にこのことが提訴そのものの揚げ足をとる形に濫用される危険性、また、それを恐れた弁護活動の委縮が弁護士間に広がる可能性が危惧されているのです。

     今回決定の是非は、提訴目的にどこまで着目するかが、見解を分けるところかもしれません。弁護士の行動規範を定めた弁護士職務基本規程は31条で弁護士は、「依頼の目的又は事件処理の方法が明らかに不当な事件は受任してはならない」としています。これをストレートにあてはめる人の話はここで決着します。

     ただ、その一方で弁護士として依頼者の意向を背負って、不当かどうかも含めて、裁判所に判断を求めること自体が問題にされるのはどうなのかという受けとめ方もあるのです。別の言い方をすれば、このケースとは切り離して、他の弁護活動に置き換えたとき、果たして問題にされるべきか、という感覚を持った弁護士がいたということです。むしろ、正当な活動として裁判所に持ち込む弁護士が、この手段によって反撃にあうことを重くみた意見ともいえます。そして、その先には国民の「裁判を受ける権利」や「法の支配」そのものへの影響も視野に入ってきます。

     今回の案件で、対象となった弁護士が所属する第二東京弁護士会の綱紀委員会が提訴は正当として、審査に付さない決定をして、異議申し立てで日弁連の綱紀委員会が決定を出したという経緯にも、この問題が弁護士にとって、微妙な解釈にかかわっていることをうかがわせます。一部報道によれば、日弁連の決定でも提訴が懲戒理由にされるのは「極めて例外的に場合」と限定したうえで、今回の提訴が、AV出演の強制とみなされる恐れや威圧効果に着目した結論とされています。日弁連も、懸念論のいうリスクも含め、すべて分かったうえで、あえて今回の結論を導いている、ともとれます。

     しかし、この決定で日弁連が、弁護士自治のうえで、現実問題として、何を取り、何を切り捨てたのかということは、今後も問われることになるかもしれません。


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    弁護士会強制加入制度を支えてきた論法

      戦後、被占領下で行政官庁の抵抗のなか、弁護士会主導で進められた現在の弁護士法制定。その立法過程で、法案に盛り込まれた弁護士会の強制加入制度に、GHQが当初難色を示したという話が残っています。重要法案すべてについて、GHQの審査・承認を得なければならないという当時の状況下、弁護士会関係者がリーガルセクションのオプラーやブレイクモアらを懸命に説いて、その了解を取り付けた、と伝えられています(第一東京弁護士会「われらの弁護士会史」)。

     リーガルセクションは、当初、強制加入を「好ましくない」とし、さらに日弁連会員が、弁護士会と個人弁護士であるという二重構造の必要性も疑問視したとされています。これに対し、水野東太郎や柴田武は、次のような論法で説得したといいます。

     ① 強制加入を認めないと、少なくとも刑罰に至らない程度の非行の責任や弁護士一般の信用を害する行為の責任追及を断念するか、他の機関に委ねなければならない。このことは、せっかく確立した弁護士会の自由独立を捨てるか、弁護士一般の信用の危殆を傍観するしかないことになる。
     ② 弁護士会が官庁の指揮監督を離れ、独立自由を獲得するために強制加入があり、これによって団体自治が確立され、真の法的自治ができる。
     ③ 日弁連への二重加入は、弁護士に対する懲戒手続きを各地の弁護士会が追行しない場合、日弁連が直接懲戒する必要が生じるためである。(第二東京弁護士会「弁護士自治の研究」) 

     戦後、GHQは民主化政策の一環として、明治憲法下で認められていた多くの団体の強制加入制度を廃止しており、弁護士会について「好ましくない」とした意図も、そこにあったとみることができます。「個人の自由意思を尊重し、個人に入会の権利を与える」(1949年司法書士法改正に対するGHQ修正意見)という方向。さらに強制加入の方が、むしろ国家による監督や取り締まりがしやすいというのが旧憲法下の発想であったということもあり、いずれにしてもGHQは弁護士会をその例外として見ていなかった。あるいは、逆に強制加入にして完全自治にしなければ、国家の干渉を排することができない、という弁護士という仕事の特殊性を、GHQは弁護士会の説得を通して理解したのかもしれません。

     しかし、これは現在に至る弁護士会の強制加入制度を考えるうえで、ある意味、象徴的なエピソードのように思えます。この国において、極めて例外的な強制加入による完全自治を持つ弁護士会が、個人の自由意思と対立する可能性を乗り越えても(あるいは犠牲にしても)、ひとえに対国家の干渉を排さなければならないという事実の存在と、その公共的役割があるという職業的性格、さらには自主懲戒の責任を担いきるという姿勢に支えられてきた現実です。

     別の言い方をすれば、精神的自由とか、非営利性とか、あるいは対国家の干渉を排さなければならない公共性といった点での、弁護士という仕事の特殊性をいう主張の説得力に、今もこの強制加入による完全自治がのっかっているということです。任意加入の医師にも公共性はある、ということが必ずいわれますが、やはりそれも前記弁護士の特殊性への理解にかかっています。そして、まさに今、個々の弁護士会員の経済的自由、あるいは自由意思に対して、強制加入・自治を規制としてとらえる会内意識の広がりが、前記論理の土台を内部からぐらつかせはじめているようにみえるのです。

     ある法学者が、この不安定な構造について次のように指摘していました。

     「単なる経済的自由権であれば、国家として積極的に国民の福祉のために介入することが認められるか否かが問題になり、一般の人に対する影響が少ない職業ほど、国家の介入が少なく、影響が大きくなるにつれて、積極介入が肯定されるという構造をとるはずである。ところが、弁護士の場合には、弁護士活動が重要であるが故に、国家の介入を極力排除するという要求につながっていっているのである」
     「だから、普通の職業の自由に対する規制の理論を当てはめると、うっかりすると逆方向の結論に引っ張られかねないところがある。従来からの営業と結びついた職業の自由の理論をそのまま使いつつ、結論として、弁護士会の強制加入を肯定するという論理を導こうとすると、下手をすると、完全な論理破綻を起こしかねないことが、理解できると思う」(甲斐素直「弁護士会の強制加入制度と憲法22条」)

     そう考えれば、「改革」の増員政策によって、弁護士がより経済的な環境を意識せざるを得なったというだけでなく、そこから生まれている他のサービス業と同一視するような意識傾向も、そもそも強制加入と対立する方向をはらんでいるといえるのかもしれません。この制度の本質的な意義を認めたとしても、これまでと同じような理屈と論法で、「例外」を維持できるのか。弁護士会主導層に、その点での危機感や問題意識が果たしてあるのかどうか。そこが、まず、問われていいはずです。


    弁護士会の強制加入制度の必要性についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794

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    弁護士登場の「効果」と期待感

     弁護士という存在は、法的指南をはじめ、いわゆる弁護活動といわれる、専門知識と訓練に裏打ちされた「価値」の提供以前に、その登場そのものが、ある種の社会的な「効果」をもたらす仕事といえます。それは、一つには紛争における彼らの登場が、その紛争の新たな局面を意味する「効果」です。

     私人間の紛争での、一方の側からの弁護士登場(あるいはその可能性)の宣明は、この紛争が法的な問題に発展し、あるいは司法判断に委ねる可能性までを伝えるとともに、そうしたレベルの問題であることを相手に知らしめるものとなります。もちろん、一方が専門家による攻撃防御態勢をとるということを伝えることで、両者の関係性は一気に緊張し、そのことが膠着状態であった交渉を前に進ませることもあれば、当然、相手側にも弁護士を付けるという攻撃防御態勢をつくらせることにもつながります。

     社会の受けとめ方を見ていると、前記内容的な「価値」以前の、この「効果」そのものに、非常な期待感が被せられていることに気付かされます。前記したような局面打開という意味がある場合もありますし、司法的な解決につながる過程での当然に生まれる「効果」とみれば、これ自体、取り立ててどうこういうことではないかもしれません。ただ、その一方で、「脅し」的な「効果」のみにつながる期待感の膨みには、危いものを感じることは多々ありますし、それがまた、弁護士の「用心棒」的イメージにも確実につながっている観があります。

     「有能な」弁護士をつけて、それを「登場」させることそのものが、事案の性格や法的な正当性・妥当性を飛び越えて、自らに有利に働く、あるいはそれにつながる相手の反応を引き出すはず、との思い込みは、弁護士や司法への、誤解を生み、それがまた、弁護士・依頼者間の齟齬を生み出している面も否定できないように思います。

     そして、もう一つ、弁護士「登場」の「効果」として期待されているのは、「公正さ」イメージです。組織やリーダーの「公正さ」を印象付けたい局面、あるいは、それを問われている場面で登場する弁護士たちは、コンプライアンス重視の姿勢そのもののアピールを期待された「ツール」と化す現実があります。現弁護士のなかでも、とりわけ訴追する側の経験を有する元検察官が、こうした局面で登場するのにも、実質的意味以前の、「らしさ」を生み出す「肩書き効果」への期待感は読みとれてしまいます。

     もちろん、これもコンプライアンスにおける実質的な意味がないわけではないでしょう。ただ、その「お墨付き」としての期待感の先行が、結果的に彼らが具体的に検証した範囲を越えて、イメージ戦略に彼らを利用することにつながるという目論見なのであれば、やはりその「効果」に、社会はむしろイメージに引きずられない厳しい目線を向ける必要があるはずです。

     弁護士登場に被せられる、二つの「効果」への期待感は、ある種、微妙な関係にあるとみることもできます。前者の期待感に込められた、一方当事者の心強い擁護者、「用心棒」的存在とみる目線で、弁護士登場がみられることが一般化するほどに、実は、後者の「公正さ」イメージの効果にはマイナスに働く可能性がある。有り体にいえば、単に「お墨付き」のために登場させたのではないか、という疑念は当然に生まれ、その期待に反して、効果の足を引っ張る状況が生まれるということです。

     もっとも、あくまで「公正さ」を軸に考え、「らしさ」を取り繕うと企てを阻止するという意味で、むしろこうした批判的なアプローチは望ましいともいえます。しかし、一方でそれは、弁護士の登場そのものが、「公正さ」を担保する姿勢として、当然のように社会が認めるということではなくなる方向なのです。

     今回の舛添要一・東京都知事の「公私混同」疑惑をめぐる調査での、弁護士登場も、はじめからその「お墨付き」的役割、都知事が被せた期待感の中身とつなげた話が取り沙汰されました。自らの弁明よりも、「第三者の公正さ」という言い分は、そのままの意味としては伝わらず、むしろ、追い詰められながらもなんとか続投したい彼がたどりついた手段と社会には受け取られた。そして、そのなかでは、おそらく弁護士という存在も、都合のいい「ツール」になるのではないか、という疑いの目線の中で。

     そもそも政治資金規正法上、違法にはならない、という見方があるなかで、彼は都知事としての資質を問われているわけで、彼は「どうしてこれが通用すると考えたのか」を正直に話して、それでもそうした人物が都知事にふさわしいのか、その一点が問われればいいだけのことです。そう考えれば、今、法律家にこの問題を投げかけても、今回のように「不適切だが違法ではない」という結果が返ってくることははじめから分かっていた、というよりも、それを言わせ、その筋違いの「お墨付き」効果で、苦しい立場を乗り越えようとしたととられるのは、当たり前の話です。

     弁護士としては、その与えられた役割に忠実に調査し、その立場で結果を出している、という評価になるかもしれませんが、仮にそうであったとしても、その「効果」は別の期待感のもとに利用されようとしている、といわなければなりません。

     6日に行われた会見で記者から真っ先に、その弁護士に飛んだのは、「報酬は受け取ったのか」「疑惑を抱える本人から依頼されて調査を行うことに関して客観性が確保できるのか」という質問でした。弁護士は前者には答えず、後者には「第三者委員会は基本的にそういうものだ」とだけ答えました。記者の質問は、知事の期待感を見抜き、ある意味「お墨付き」の役割を与えられたことに対する弁護士の真意をただしたものにもとれました。調査を尽くし、弁護士として「公正さ」を強調しても、その役割としては「公正さ」イメージの効果は期待通りには得られない、という、都知事にとっては皮肉な結果といえます。

     弁護士が単なる「用心棒」でないことも、単なる「お墨付き」や「公正さ」イメージの「ツール」でないことは、いずれも弁護士がその実務を通して結果を出せばいいだけのこと、という人もいるかと思います。それも、間違いとはいえません。ただ、そうでなければもちろんのこと、また、たとえそうであったとしても、弁護士の登場は、さまざまな期待感のもとに、専門家の本来的な役割とは違う形で利用されかねないということは、社会もそして弁護士自身もよく認識しておく必要があるはずです。


    成立した取り調べの録音・録画を一部義務付ける刑事司法改革関連法についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/7138

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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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