弁護士過疎対策の本当の壁

     過疎地での弁護士確保が困難になっている現実をNHKがローカル番組で取り上げています(ホットニュース北海道「過疎地域 弁護士確保の課題」、5月11日放送)。番組は、北海道にしか流されませんでしたが、現在もネットで見ることができます(北海道 NEWS WEB)。

     道内には12の日弁連設置の公設事務所があり、派遣期間2~3年で、毎年過疎地勤務希望の弁護士が2、3人派遣されてきたが、このところ応募者が減少し、昨年度は1人だけ。スポットが当てられた、3年前開設の本別町の公設事務所に勤務する34歳の弁護士は今月で任期を終え、公務員への転職を考えているが後任は決まっていない、としています。

     「ゼロ・ワン」対策といわれてきた、日弁連の弁護士過疎地対策が壁にぶち当たっていることをうかがわせる内容です。番組は、過疎地赴任を希望する弁護士が少なくなった背景として、「ここ数年、弁護士のなり手が一時期に比べて減少し、都会の事務所に就職しやすくなったことも原因」とし、「このまま希望者が減り続けると公設事務所の任期を終えた弁護士も後任が決まるまで居続けなければならず、ますます希望者が出なくなる悪循環に陥る」としています。また、公設事務所がこれまで過疎地勤務を希望する弁護士の「熱意だけで支えられてきた」がそれが限界を迎えている、という認識を示しています。

     これらの現状認識は、基本的に正しく現実を伝えていると思います。ただ、問題はそこから先の捉え方です。「移動距離に応じて手当てを増やすとか、事務員を無償でつける」など「現場場の苦労を減らす、具体的な対策」を弁護士会に求めるだけで、この番組を終えているのです。それは、「熱意だけで支えられてきた」という前記現状認識からは、むしろちぐはぐな感じがします。いってみれば、この対策がなぜ、「熱意だけで支え」てこざるを得なかったのかに、踏み込まずに、答えを導きだそうとしてるようにとれてしまうからです。

     弁護士過疎対策は、弁護士増員政策の一つの根拠とされましたが、実際に「ゼロ・ワン」地区解消に導いたのは、同政策ではなく、むしろ「有志の精神」だと、これまでも書いてきました(「弁護士過疎と増員の本当の関係」 「弁護士増員をめぐる『改革』の外れと執着」)。つまり、弁護士の総数を増やせば、コップの水が溢れるように、都会から地方に弁護士が流れるとか、増やせばそれだけ勇者も増える式の発想で、過疎が解消されていくという単純なイメージ化はできない、ということです。

     そこには、つとに業界内でささやかれてきたように「『ゼロ・ワン』はなぜ『ゼロ・ワン』として、そこに存在していたのか」という問題が横たわっているということです。つまり、「存在しない」ということには、弁護士業を成り立たせる経済的事情が厳然と横たわっており、まず、そこからアプローチしなければならないはずだということです。必要論が強調され、採算性の不足を有志の精神、ここでいう「熱意」で支える制度が立ち行かなくなるのは目に見えていたというべきなのです。

     ここで問われるべきは、そもそもそういう発想ではなかったのか、ということ。むしろそれを考える地点に戻るべくして戻ったのではないか、ということなのではないでしょうか。日弁連の過疎地型法律事務所(ひまわり基金法律事務所)には、所長が退任後、同地域で引き続き個人事務所として開業している、いわゆる「定着」が実現しているところがあり、地域や個人の事情で問題解消の可能性にもバラツキがあります。しかし、この番組の結論のように、弁護士会になんとかしろ、と投げかけるだけで、なんとかなる問題とはとても思えません。弁護士会が結局、経済的に持ち出すという形の対策は、いうまでもなく、会員の持ち出しであり、それまた弁護士増員が招いた経済事情のなかでの持ち出しであることを考えなくてはなりません。

     ましてや「なり手の減少」だけを切り取って、前記発想に立ち返り、だから弁護士は増やし続けろ、という結論になっては、元も子もないといわなければなりません。地域で必要ならば、行政が捻出するなど、会を含めた弁護士持ち出し以外の経済的支えが検討されなければ、早晩壁にぶち当たる。インフラといわれながら、それほどには必要性を重んじて捻出されない、あるいは検討されないという弁護士の扱われ方そのものを悲観する声は業界内にありますが、避けて通れない根本問題はそこにあるというべきです。

     番組冒頭、今月札幌市内で行われた、弁護士志望の学生たちを集めた説明会で北海道弁護士会連合会理事長が、こう語る姿が映し出されていました。

     「北海道の弁護士には、この司法サービスを広い北海道の隅々まで行き渡らせる極めて重い使命を負っている」

     その自覚そのものは、正しいという人ももちろんいると思います。ただ、この言葉だけを切り取られると、政策が一つの結論に到達しても、やはりまだ「有志の精神」に訴えているような、そして、同じことが繰り返されてしまうような、そんな気持ちにさせられてしまうのです。


    地方における弁護士の経済的ニーズの現状についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798

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    「改革」のあいまいさと職業モデルの関係

     今回の司法改革が、弁護士の「ニーズ」と括られるものの、有償性と無償性を明確に区分してとらえなかったことは、これまでも書いてきたように、「改革」の結果に大きなツケとなって回ってきた、といえます。いうまでもなく、その最も明らかな結果は、あれほど「ある」「眠っている」あるいは「生まれる」とされたニーズも、少なくとも必要とされた大量の弁護士を経済的に支えるほど存在しなかったことです。

     そして、市場原理を重んじる「改革」が必然的にたどりつくことが予想され、現にその方向で進んでいる弁護士のビジネス化と、前記結果によって生まれた「生存」のテーマ化によって、弁護士ニーズの有償・無償の区分という問題を、多くの弁護士がいまさらのように気付かされる結果になったのです。

     弁護士という仕事が、この区分を明確にしないで済む時代が終わった、「改革」がそれを終わらせたのだ、という捉え方をしている弁護士は、いまや少なくないと思います。「経済的自立論」といわれたような、有償のニーズを弁護士がしっかりと安定的に引き受けることができるからこそ、無償分野を手掛けられた時代が終わった、と。「市民のための『改革』」というであれば、そのことと「改革」の評価を結び付けてとらえる視点は、ひとつあり得るとは思います(「『経済的自立論』の本当の意味」)。

     しかし、なぜ、この点があいまいなまま、「改革」が着手されたのか、さらにいえば、弁護士会主導層の姿勢も含め、あいまいにならざるを得ないものを、この仕事が引きずっているのかを突きつめれば、まさにこの仕事が引きずってきた職業モデルというテーマ、あるいは議論に辿りつく、といえます。

     これについて、かつて森山文昭弁護士が的確にまとめた論稿を発表していました(「弁護士制度改革と弁護士像――新しい人権モデルの提唱」〈「いま弁護士は、そして明日は?」エディックス〉)。それを参考にさせて頂きながらまとめれば、まず、従来弁護士という仕事には、在野性ということと結び付けてとらえる見方が支配的でした。弁護士は在野法曹であるからこそ、基本的人権の擁護と社会正義の実現という弁護士法1条の使命を達成できる。明治以来の権力との闘いのなかでその精神が形成され、権力との対抗関係を維持できる立場こそ、弱者・少数者の人権擁護も含め、この仕事の職責を全うできるというものです(「在野モデル」)。

     しかし、弁護士の仕事の多様化が進むにつれて、このモデルに対する批判的見解が有力視されるようになってきた。例えば、弁護士業務の大半は対等市民間の紛争解決を目指す一般民事がほとんどで、権力対峙性をはらむ業務は一部であるとか、あらゆる階層の弁護もする業務の非階層性(例えば、公害発生企業のような人権を侵害をした側の弁護も行う)をこのモデルが説明しきれないという指摘です。

     そして、このモデルに対するカウンターモデルとして登場したのが、弁護士を政治的に中立な「プロフェッション」であるという捉え方です(「プロフェッションモデル」)。いま、この捉え方は、後述するような採算性を追求するモデルと調和的にとらえている弁護士もいますが、少なくとも当初強調されたのは、公共性であり、それへの奉仕性で、要するに聖職者や医師と並べた扱いだったのです。

     当初の司法改革路線も、その中における弁護士改革も、表向きまさにこの描き方が強調されるものだったといえます。司法制度改革審議会意見書の建て前にしても、弁護士会内「改革」主導層から出された「お布施論」にしても、その後の「成仏理論」にしても、ビジネス化という「改革」の行き先が分かっていながら、強調された(「弁護士報酬『お布施』論の役割」 「弁護士『成仏理論』が描き出す未来」)。

     その当然の反応として、実は、このモデルはむしろこの「改革」に市場原理、自由競争を被せた側から批判されることになります。弁護士が「プロフェッション」であることを理由に、弁護士業務に自由競争はなじまないとして、業務改革を阻害している、と。弁護士増員、業務広告自由化、外国弁護士の参入、弁護士補助職導入などで、この「プロフェッション性」が弁護士会側の反対論拠となっているという捉え方にもなっています。

     正確にはプロフェッション性の否定というのではなく、市場原理、採算性と両立する形が求められたということです。実は、ここ辺りから、この「改革」における弁護士という仕事のあいまいさにつながっていきます。つまり、プロフェッション性をビジネス化に抵抗する理論的支柱とする見方からは、さまざまな解釈が導き出されてくるのです。例えば、森山弁護士も挙げていますが、プロボノの義務化にしても、プロフェッションであればこそ、個々の弁護士業務に公共性が内在しているから義務化に反対という結論も導き出されれば、プロフェッションであればこそ、義務化に応えよ、という論も導かれる。弁護士増員にしても、ビジネス化には反対であっても、プロフェッションの公共性に着目すれば、それに応える数がいる、という論に引きずられることにもなる。

     森山弁護士は、こうした点を弁護士の「従来の活動の弱点」としていますが、ここをつくのが、結局、ビジネスと割り切る考え方ということでした(「ビジネスモデル」)。有償・無償の区別なくとらえた「プロフェッション性」の捉え方が、どこか弁護士の利己的で保身的なスタンスと結び付けられ、ビジネスと割り切る考え方こそが現代的であるという捉え方のなかで、営利目的を排除して担ってきた、あるいは担うとしてきた部分が、あいまいのまま取り残さる形になったのです(「弁護士『プロフェッション』の行方」 「『生業』と『ボランティア』というテーマ」)。

     むしろ、今となってみれば、有償のニーズに対するどんな誤算があったにせよ、弁護士会主導層があいまいさを分かっていながら「改革」に突っ込んだことを批判する見方は会内にもあります。ならばこそ、この部分を問題にすることそのものから、関心が離れつつあることも理解できなくありません。弁護士業務を「ビジネス」と括ることに、かつてほど抵抗がない弁護士は、こうして誕生したのです。そもそもそういうことを考えないで済む、企業内弁護士が人気であるということは、経済的安定志向だけでなく、この意味でも象徴的なものにとれます。

     しかし、あえていわなければならないのは、弁護士の「ビジネス化」の景色として映っているものが、弁護士の目と社会の目では違うということです。いまや多くの弁護士からすれば、あるいはこの流れに、「改革」のあいまいさも責任も振り返る価値すらない、必然的なものとして捉えられるかもしれません。しかし、そう社会は割りきれているのでしょうか。

     利用者にも分かってもらわねば、ということを昨今強調する弁護士は多くなりましたが、「かつての弁護士とは違います。利用者もビジネスと割りきって下さい」というアピールを積極的にされているわけでもありません。そして、すべて分かった上で、この結果を利用者は有り難い「改革」の成果と受けとめるのでしょうか。この「改革」を社会が望んだと括られることには、やはり違和感があります。


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    弁護士の活動と経済的「支え」の行方

     この国で弁護士が「足りている」「足りていない」という議論は、ずっとぼやけた土俵のうえで、行われているような印象があります。ある分野の「足りない」という現状認識が正しいもので、だから「増やすべき」という要求が正当なものであったとしても、だから、この国の弁護士の総体を激増させるべき、という議論に果たしてなるのかという疑問が、ずっとあります。

     「裾野論」といわれるような、全体を増やさなければ、局所に当たるような人材や有志は獲得できない、という説明も、増員論者からは言われてきましたが、総体が経済的に支えられるかどうかが、いかに念頭にない発想なのかも分かるものといえました。

     かつて日弁連内には増員先行か、司法の基盤整備が先かという議論があり、増員派はその両者並行論を唱えたという話もありますが、そういう発想に立つことができたことも、また、本来、少しずつ増員し、足りなければ増やせばいい、で片付きそうな話が、そうならなかったことも、総体の運命を考えないでよしとする、ぼやけた土俵のうえの、「増員ありき」論であればこそ、説明がつくものです。

     そして、「改革」の「ぼやけている」(あるいは「ぼやかしている」)という点で、もっと基本的なことをいえば、それは、そもそも弁護士の需要とは、どうとらえられていたのか、ということについてです。

     司法制度改革審議会意見書は、今後の弁護士の役割として、個人や法人の代理人、弁護人としての活動にとどまらない「社会のニーズ」に積極的に対応し、公的機関、国際機関、非営利団体(NPO)、民間企業、労働組合など「社会の隅々」に進出し、貢献することが期待される、と描きました。また、日弁連側の受けとめ方としても、弁護士は、「法の支配を社会の隅々にまで貫徹させるべき公益的責務」を負い、「どこでも、いつでも、容易に法的サービスが受けられ、迅速に国民の権利の実現が図られる社会をつくらなければならない」といったことが盛んに言われました(「弁護士制度の改革と弁護士法30条改正問題の位置づけについて(総論)」)。

      しかし、ぼやけているという意味では、ここでは弁護士の経済的自立性という問題が全くぼやけています。司法審は、ここに羅列する機関、組織が、当然のように弁護士を遇し、経済的に弁護士を支えるという前提だったのでしょうか。「社会のニーズ」と括られるなかで、有償・無償が区別されていなかったということを散々書いてきましたが、別の言い方をすると、どこまでを弁護士の採算性の範囲内で考えればいいニーズで、どこからがそれを超えても社会的になんとかしなければならないニーズと位置付けているのかが分からないということです。

     弁護士も一サービス業に過ぎないという意識が、まさにこの「改革」で広がっていることからすれば、もはや前者のように採算性の範囲内で考えるのは当たり前、要はそれ以外手を出せなくて当たり前だし、関心もないという弁護士は増えていると思います。しかし、前記「改革」路線の描き方も、日弁連主導層に近い弁護士たちの受けとめ方は、必ずしもそのようにはとれません。

     有り体にいえば、これまで弁護士が手弁当としてやってきたようなこと、個々の弁護士の持ち出しで成立してきたことは、これからは弁護士の需要のなかに含めないでよし、という話なのか、それともどうにかしなければならない、これまでのように弁護士が負いきれないと言うならば、社会としてなんとか考えなければならない需要なのか、ということが問題なのです。

     医師免許なく客にタトゥーを入れたとして、彫り師の男性が医師法違反の罪に問われたケースで、弁護士支援のもと裁判費用をクラウドファンディングで集めるという試みが、業界内で話題となっています(BuzzFeedNEWS) 。これは、確かに前記無償ニーズに対する、これからの弁護士の活動の在り方の一つとして、可能性を持った注目できる動きであると思います。

     いうなれば、「手弁当」が事実上不可能になった今、市民に呼びかけ、その直接的な賛同とそれに基づく経済支援によって実現していく道を探る、ということになります。「改革」がぼやかしてきた、どう支えるのかという点への、具体的な一つの解になる可能性がありそうです。

     ただ、これでいいじゃないか、という話になると、どうなっていくのでしょうか。前記したように、多くの弁護士は採算性のなかだけで業務を考え、どうしてもなんとかしなければならない案件に接し、かつ、そうした意識を持った弁護士は、社会に訴え、個別の共感を元に支えてもらう。もちろん、社会的共感、一定の支持者を得られることで成り立つ前提の制度にあっては、案件自体の向き不向きもあるでしょうし、そもそも集金に成功しないこともある。つまり、弁護士としてなんとかしなければならない案件かどうかは、結果としてその成否に委ねられることになります。クラウドファンディングの成功率は、母体によって差があり、はっきりしたことは言えませんが、ほぼ3割、高いところで5割という話が聞かれます。

     「手弁当」から「クラウドファンディング」へ、という流れが、もし、生まれたとすると、弁護士自身の、弁護士会の在り方についての発想も変わるかもしれません。個々の弁護士の採算性とは無縁の弁護士会活動は、「手弁当」と同様の、会員の持ち出しの会費で支えていることを考えれば、会員の登録事務や懲戒、広報以外の部分は、まさに社会の共感に基づき、クラウドファンディング、もしくはそうした発想で支えられてもいいのでないか、と。そうなれば、会費負担や強制加入維持への理解も変わってくるということです。弁護士自治が、国民の理解によって支えられるという、日弁連の描き方にも矛盾しないかもしれません。

     ただ、もし、そうなれば、弁護士だけでなく、弁護士会がやるべき活動、やれる活動もまた、すべて現実的にそれに委ねられることになります。人権擁護活動も再審も、両性の平等も、子どもの人権も、公害も、貧困も、弁護士会の活動は、その結果次第で決まる形になります。

     これらが必ずしも絵空事と思えないのは、それでもいい、という空気が、弁護士会内に現実的にあるからです。以前、当ブログのコメント欄にもありましたが、弁護士会の「大ヒット商品」とまでいわれた当番弁護士制度まで、もはややめてもいのではないか、という声がいまや会内にあります。なぜ、弁護士が負担しなければならないのか、当番弁護士で接見しても、私選で依頼できる資力のある人は数パーセントではないか、などなど。

     これまでも弁護士会の活動に積極的な会員の方が、圧倒的に少なかった現実はもちろんありました。ただ、「改革」から生まれた、採算性への意識は、会費負担へ理解度、会活動への許容度を変えつつあります。会員利益を確保するために会費が使われないのならば、活動は弁護士会でなく、有志でやってくれ、という声も強まっているだけに、前記の方向は支持される余地があるようにとれるのです(「『普通の業者団体』という選択と欲求」 「『新弁護士会設立構想』ツイッターが意味するもの」 )。

     それでもいいんだ、というならば、話はこれで終わります。しかしこれが、弁護士の活動を現実的に何が支えるのか、あるいは支えられるのかをぼやかした「改革」の先に現れた、社会はもちろん、「改革」自身も想定していなかった結末だとすれば、やはり、ここは冷静に考えてみる必要があります。


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    「給付制」と「社会還元」をめぐる日弁連の印象

     昨年12月に法務省が発表した、司法修習生「給費制」の事実上の復活といえる、いわゆる「給付制」に関連して、確認した制度方針が法務省のホームページに掲載されています(法務省「司法修習生に対する経済的支援について」)。その「主な確認事項」には、平成29年度以降採用予定の司法修習生(修習71期以降)に対する給付制度新設、給付金額、貸与制の併存とともに、次のような一文が書かれています。

     「給付制度の導入に合わせ,司法修習の確実な履践を担保するとともに,司法修習を終えた者による修習の成果の社会還元を推進するための手当てを行う」

     問題は「修習の成果の社会還元」という点です。司法修習を終え、法曹になれば、当然、そのそれぞれの職責を全うするなかで、「成果の社会還元」は行われていくと考えられそうなところ、なぜ、ことさらにその推進がここで確認されているのか――。「給費制」廃止をめぐる議論を知っている人は、おそらく一つのことにしか、結び付けないと思います。ここで言われている「司法修習を終えた者」とは弁護士を指し、民間業者である彼らの「職業訓練」となる「修習」は本来、自弁でよく、公費の支出について、当然には社会的な了解が得られないという論調。

     すなわち、給付制を採用するのであれば、「社会還元」は条件として彼らに突き付けて当然、という捉え方につながっているようにとれます。その前提は、民間にある弁護士は裁判官、検察官とは異なるという、私益性の強調です。いわゆる弁護士会活動を含めた、「公益的」といわれる活動以外の、対価を伴う通常の個別事件への対応は、公費の支出にふさわしい「修習の成果の社会還元」にカウントしていないようにとれてしまいます。少なくとも、それだけではだめとして、それ以外の活動を、まさに条件化しているととれるのです(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。

     法務省の発表によれば、新制度の円滑な運営については、法曹三者が合意しており、当然、この「社会還元」の確認事項も、日弁連が受け入れたとれる形なっていました。そして、そのことを裏付けるある文書が、最近、ネット界隈の弁護士間で話題になっています。中本和洋・日弁連会長名で、全国の弁護士会会長あてに出されたとされる、10月17日付けの「司法修習第71期以降の会員に対する社会還元活動を推進するための手当て(取組)について(要請)」という書面です。

     その書面では、修習71期生以降について、修習成果の社会還元を推進する手当ては日弁連として「行うことになっております」としたうえで、同期以降の新規会員に対し、社会還元活動の意義・重要性やこれまでの実績を伝えるなど同活動を「積極的に行うよう要請してください」として、経験の浅い弁護士でも適切に同活動ができるための十分な研修実施や、会内外への周知・広報を弁護士会会長に求めています。

     さらに、この書面には、社会還元活動として、経済的社会的弱者への法的支援、人権擁護活動、司法過疎地域への法的サービス、法教育、コンプライアンス促進をはじめとする企業・団体への法的支援、児童相談所等地方公共団体等との連携を通じた諸活動、国選弁護、当番弁護、法律扶助等弁護士・弁護士会がこれまで取り組んできた弁護士の社会的使命に基づいて行われる諸活動などが列挙されています。

     ネット上に流出しているものの細部までが一致しているかの確認が出きていないものの、日弁連によれば、こうした要請が発出された事実はある、としています。

     社会還元活動という括り方を前提にしてしまえば、特別に異論を挟む余地はない、ととらえる見方もありそうですが、この内容にはやはり引っかかる点があります。日弁連が今、ことさら修習71期生以降について、これを要請することの意味をどうとらえるべきか、という点です。当然、これは給付制の復活に際した「手当」と位置付けられそうですが、列挙されている活動は、そもそもかつて「給費制」がとられるなかで、「社会還元活動」などと括られるまでもなく、弁護士が使命として取り組んできた活動です。

     71期生以降について、「改革」のもたらした経済的な影響もあって(要は活動する余裕がなく)、こうした活動が特におざなりになる危険がある、という見方を提示するのならまだしも、「修習の成果」として、ここを強調せねばならない、というのであれば、前記した「給付制」条件化論、あるいは「給費性」廃止論議でいわれた、「通用しない論」に、あまりに丸のりしている感じがしてしまいます。

     そもそも、法教育や人権擁護活動といった、それこそ弁護士・会がこれまで取り組んできた活動を、まるで見返りのように、国費投入を一部復活してもらったことと結び付けられる形で、今、日弁連自身が取り上げるべきなのでしょうか。弁護士がもっと事業者性を抑制し、公益性を追求しなければならない、という結果的に無理が明らかになったはずの、「改革」の中で描かれた論調(「弁護士の使命と事業者性をめぐる現実的視点」)の先に、やはり条件化されても仕方がない、公費投入にふさわしい弁護士の姿がある、といっているようにもとれてしまいます。弁護士は社会インフラである、とする、必要性を強調する弁護士会のトーンとも、大分違う印象です。

     弁護士会活動をはじめ列記されたような活動を実践するなかでも、そして、個々の依頼者に向い、対価を伴うなかで、公正な司法を実現する一翼を担うのであっても、本来的に弁護士は国に養成されるにふさわしい、という立場をとらない、あるいは、そこにこだわらないということでいいのでしょうか。

     やはり、「改革」によって、おざなりにされた「給費制」の本来的意義をめぐる議論が、日弁連自らの手で、どんどん後方に押しやられているようにみえます。


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    「改革」が変えつつある弁護士の姿

     話題になっている青山学院大学法務研究科(法科大学院)の来年度からの学生募集停止について、三木義一学長が発表した一文には、次のような下りがあります。

     「本学法務研究科は、2004年度に設置され、いわゆる法科大学院の一つとして、これまで数多くの司法試験合格者を輩出してまいりました。しかしながら、法曹の増大に対応した社会環境が十分に整わなかったこと等のために、法科大学院受験者の減少が続いてきました」

     三木学長は、募集停止の原因は彼らがどうにもできなかった志願者、入学者の減少にあり、さらにその理由の一つとして、主に弁護士と推察できる法曹の「増大に対応した社会環境」の不整備を挙げているのです。法科大学院撤退についての関係者の弁では、これまでも「改革」の想定外を強調した無念と恨み節が示されることになりがちで、ここでも結局は、自分たちの努力とは関係ないところに原因がある、ということが強調されることにはなっています(「法科大学院『本道』をめぐる現状認識と自覚の問題」)。

     ただ、今回の三木学長の弁で、一番引っかかるのは、増大した法曹(弁護士)に対応した社会環境の不整備という捉え方です。確かに、激増政策によって弁護士の経済環境が激変したことが、今日の法曹志望者減につながり、それが法科大学院を直撃した、という見方は間違っていません。問題はそこから先です。これを増員政策の完全な失敗とみて、弁護士の需要はなかった、というのであれば、むしろ話は簡単です。しかし、これが需要は絶対にある、整備すればなんとかなる(なんとかなった)という前提であるのならば、それはいったい具体的に誰に、どのようなことを求めるのか、そして、またそれが結果的にどういうことを意味してしまうかを考えなければならないはずだからです。

     「弁護士は経済的弱者ばかりを相手にしているわけではないだろ」。

     増員によって、これまでの経済的な基盤が崩れたことに対する影響を言う業界内からの声に対して、こういう声がしばしば浴びせかけられます。事実、弁護士は貧困層や弱者だけではなく、あらゆる階層の弁護をする立場にあります。おカネにならない人権問題等の活動をするには、弁護士の経済的な基盤が確保されている必要がある、という、いわゆる「経済的自立論」から、増員政策がその基盤を脅かし、そのしわ寄せはそうしたところにきてしまう、という弁護士側の主張にも、このことはぶつけられてきました。「いや、あなた方は、カネ持ちからおカネをとる商売もしているし、それができるではないか」と。それゆえに、弁護士会内にも、「経済的自立論」は封印した方がいい、という意見もあります。

     しかし、やはり私たちは、激増政策が結果的に、この「経済的自立論」が想定しているような弁護士を、この国から消しつつあることの方を心配すべきではないでしょうか。(「『経済的自立論』の本当の意味」)。「改革」の現状と、前記「経済的自立論」に批判的な論調を前向きに受けとめ、それを「自覚」した弁護士たちでこの国が満たされていくというのは、どういう状態を意味するのか、ということです。

     つまり、端的に行って、むしろ弁護士は堂々とカネ持ちの味方、よりカネを持っている側の仕事をやる存在でよし、という方向になるのではないか、ということです。「改革」の増員政策の現実と前記論調の捉え方を前提に考えれば、これは必ずしも心得違いという言い方はできません。競争とサービス業への自覚を求める「改革」が、生き残りをかけた彼らをそこに追い込んでいる、といえます。前記批判的論調は、もはや彼らからしても、「当然」と言いたくなる話なのです。

     「経済的自立」が倫理低下への歯止めになる、という論調は、いまでも弁護士のなかで聞かれます。「貧すれば鈍する」を弁護士自身が口すれば、またぞろ心得違いの批判を浴びることにもなりがちですが、一方で、この「改革」の流れのなかで生まれた、より採算性に目がいく弁護士たちが、「独立性」を担保し、その意味でプロフェッションとしての高い倫理性を保持しつつ、前記「経済的自立論」が想定していたような弁護士の役割をも果たす、という見通しに立てるのかどうかの問題です。

     三木学長が指摘した、増大した法曹(弁護士)に対する社会環境の不整備は、一体、誰にその解消の責任や努力を求めることになるのでしょうか。もし、弁護士にとって採算性のとれない無償性の高いニーズを、増大した弁護士がカバーするという前提であるのであれば、法テラスの現状をみても、弁護士任せにはできない経済的基盤の担保が、今、もっと検討されなければなりません。そうではなく、これまでの「改革」路線のように、これを弁護士の努力に求めるのであれば、その無償性の高いニーズから、彼らは当然に遠ざかり、堂々とサーヒス業の道を歩み、やがてそのニーズの担い手ではなくなるでしょう。前記した意味での「経済的自立論」など、いわれるまてもなく、口にする弁護士はいなくるかもしれません。

     基本的人権の擁護ともに、社会正義の実現を弁護士の使命としてうたう弁護士法1条は、彼らに課せられたカセだと以前書きました(「カセとしての弁護士法1条」)。彼らが、そこから外れ、遠のくことは、それだけ私たちにとって、危険なのだと。

     もちろん、この規定も、あらゆる階層を弁護する弁護士に当てはまります。しかし、今、この弁護士法1条すら不要、廃止すべきてはないか、という声が弁護士会の中から聞かれ始めています。それが一体、何を意味しているのか。人権擁護も含めて、無償性の高いニーズを、相手にしないこれからの弁護士にとって、この条文は、サービス業に課せられるには過剰なカセ、ということになっていくのでしょうか。

     弁護士・会サイドから言われ続ける「市民のニーズにこたえる」という言葉だけでは、今後、どうなっていくのか分からない、本当にその市民に有り難い存在になるのか皆目不透明な、弁護士の現実があるといわなければなりません。


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    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


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