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    「公益活動」への弁護士の目線と意識

     弁護士の公益活動(いわゆるプロボノ)を義務化し、一定の基準を達成できなかった場合、「負担金」「分担金」といわれる、事実上の「罰金」を課す方向が日本の弁護士会に登場してから、既に15年以上が経過していますが、その是非について、会内には様々な受けとめ方かあるようです。

     こうした形での強制化そのものの妥当性、効果への疑問についての声は、依然会内に根強くあります(及川智志弁護士のツイート)。そして、これを弁護士の「ボランティア」とする位置付けも、弁護士業務の現在の状況のなかで、さまざまな形にとらえられることになっているようにみえます。

     以前も書きましたが、そもそもこの弁護士の無償の公益活動を義務化し、自発性を否定した「罰金」による強制化策がとられた時点で、これは本質的な意味において、「ボランティア」の定義からは外れます。弁護士業務の実態に即していえば、これらの活動は、いわゆる「ボランティア」活動ではなく、弁護士の本来的な業務であり、ただ、無償性の高い(無償性を期待されてきた)業務と、当然に有償な業務がある、とみることができるのです(「弁護士とボランティアの厄介な関係」)。

     逆に言うと、弁護士業務について、これを「ボランティア」と位置付けることは、弁護士の本来業務とされてきたもののうち、無償もしくは無償性の高いもの、それを期待されているもの、弁護士会活動や、従来「手弁当」でやってきたとされるような採算性がとられない活動は、すべて「ボランティア」活動と位置付ける発想になります。

     これは、弁護士の業務は有償が原則であるという意味をはっきりさせるうえでは、分かりやすい面があり、また、いまやそう理解している会員も多いようにみえます。ただ、こうした発想が弁護士会で強まった背景には、やはり司法改革があります。

     司法制度改革審議会の最終意見書は、弁護士について「通常の職務活動を超え、『公共性の空間』において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである」「公益活動を弁護士の義務として位置付けるべきである」としました。弁護士の使命に基づき、それまでも実践してきた弁護士・会の本来業務について、ここでは公益性への自覚の問題という視点で取り上げられ、それを、あたかも弁護士の「新使命」として再定義した。そして、それを「改革」の季節にあった弁護士会は、忠実なバイブルの実践者として、あたかも弁護士に与えられた「新使命」のように、いち早く自省的取り入れたのです。

     この司法審の発想は、一方で当時既に「改革」の増員政策の先に登場することが想定されていた、弁護士のビジネス化と競争をにらんでいたともいえます。公共性への自覚を強調する意見書の文脈は、あたかもカネ金儲け本位に走りかねない弁護士へ、自戒と自覚を促すような響きを持っていました(「『公益性』と『競争』という仕掛け」)。

     つまり、この発想の前提は、弁護士が無償の活動ができるのにもかかわらず、それに見向きもせず、ひたすらカネ儲け本位に走る経済的環境になるという想定です。また、当時の「改革」前の弁護士の経済的環境にも、そうとられてしまうものがあったのかもしれません。

     ただ、その意味では、「改革」は非常に皮肉な結果をもたらした、といえます。「改革」の増員政策による弁護士の経済環境の悪化は、従来のように、自発的な意思を伴えば、そうした活動に注力できた弁護士の環境を奪い、一方で、ビジネス化、一サービス業の自覚が余儀なくされ、あるいは強まるなかで、生存のために経済的にゆとりのない状況での、無償性の業務を強制的求める形そのものが不満の対象になったからです。

     そして、弁護士の中には、当然、経済的余裕がない中で、「ボランティア」のためになぜ、生活がかかっている有償業務が犠牲にならなければいけないのか、という意識、「ボランイティア」であればこそ、優先順位としても限定的にとらえられてしかるべきという意識、「ボランティア」とされているものも、むしろ本来、有償業務としてもっと扱われるべきという意識まで生まれることになったのです。

     弁護士会の前記義務化を含めた、プロボノ政策について、会内で異口同音に、よく耳にする不満の声があります。それは、要するに「これらは、経済的にゆとりがある弁護士会主導層が、その感覚で推進してきたものではないか」というものです。つまりは、広く会員の現実を理解していないという不満になります。弁護士の増員政策と供給過剰が、弁護士の経済的状況を決定的に直撃している現実を百も承知でありながら、それを変更しようとしない姿勢への批判とも通底するものと言えます。

     時々、若手の弁護士や志望者の声のなかで、「自分はプロボノできちっと社会貢献できるようになるために、ビジネスローヤーを目指したい」といった趣旨のことを耳にします。もちろん、この志も認められていいし、そして「改革」後の志のあり方としては、現実的で、かつ、あるいは「改革」推進論者が歓迎・期待する、一つの形なのかもしれません。

     しかし、裏を返せば、これはやはり経済的なゆとり、あるいは安定を担保したい発言であり、かつて弁護士会でさんざん聞かれた、経済的自立論の正しさを、むしろ裏付ける話にもとれます(「『経済的自立論』の本当の意味」 「弁護士の活動と経済的『支え』の行方」)。

     一般的にプロボノ活動は、歴史的にみても、弁護士による「ボランティア」から広がり、弁護士業界において、最も浸透している、という括り方もされています(「LEGAL NET」 ウィキペディア)。しかし、これらの見方には、経済的な担保や、犠牲的精神に頼ってきた現実と限界・無理といった問題が、前提的にとらえられていない印象を持ちます。弁護士のためのみならず、それを享受する社会のためにも、本当にいま必要な前提が何であるのかに、そのあり方を含め、今一度、光が当てられるべきです。


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    描かれた弁護士「社会進出」論

     増やしてしまったものを、あるいは創ってしまったものを何とかしなければならない――。今回の司法改革論議は、残念ながら、こうした捉え方に陥っているようにみえます。「現実論だ」「改革の軌道修正だ」と、これを正当化される方は、業界内にも沢山いらっしゃいますが、なぜ、こういうことに陥っているのかを問わないというのであれば、永遠にこの「改革」の正当な評価はできないはずですし、本来、どうあるべきか(あるべきだったか)という議論にも到達できません。

     しかも、前記「何とか」論は、いまや正確にいえば、増やし続けるもの、存在させ続けるものを何とかするということになっているとみれば、そのことは、よりはっきりしている、というべきです。ここでも、いろいろな形で書いてきたことですが、司法改革には、初めから現在に至たるまで「改革」推進者が、疑わない「前提」が存在している。どう言い逃れしても、彼らの「現実論」は、その上に乗っかっているようにみえるのです。

     なぜ、こういうことになっているのか――。こと弁護士という存在を軸に、「改革」論議の「前提」を辿ってみると、実は弁護士の「社会進出」論に突き当たることが分かります。司法制度改革審議会意見書は、弁護士が膨大に必要とされる未来を描き、その一方で、有名な「社会生活上の医師」という例えを使い、弁護士法1条を引いて、あるべき社会的役割を定義しています。

     「改革」は、この時から弁護士必要論と活用論を「前提」としていますが、有り体にいえば、現実的実態的な弁護士ではなく、「改革」のあるべき論に従い、数に置いても業態においても弁護士が今後変わり、未来の膨大な必要性に応えなければならない、ということになっています。そのうえに弁護士が、これまで以上に「社会進出」することが、望ましいこの国の未来であるという、「改革」の「前提」が描かれることになります。

     この間に、その必要とされる未来の描き方が本当に正しいかどうかもさることながら、それを支えるのが、どうしても弁護士という資格者でなければならないのか、というテーマは、司法審意見書が隣接士業との役割分担というテーマを棚上げにしたのでも明らかなように、突っ込んで議論されていません。

     あえて皮肉な言い方をすれば、この流れを作った最大の「功労者」は、弁護士会(界)であったといえます。当時の彼らの多くは、身内が提唱した「二割司法」という膨大な司法機能不全の存在を信じ、その責任の一端とともに、前記「改革」路線の弁護士必要論・活用論を正面から受け止めて、そのための弁護士激増政策を、自戒的、積極的に受け入れたからです。

     当時、「改革」の先の、この国の弁護士像がいかなるものになるかを模索していた、日弁連のプロジェクトチームがまとめた資料をみると、その時の彼らの問題意識がうかがい知ることができます。

     そのなかで、チームリーダの中の、ある論者はこう言っています。

     「業務拡大によって、全体としての弁護士の社会的な信頼も高まり、意識の高い有能な人々が弁護士になれば、さらに弁護士業務は順調に拡大し、発展するであろう」
     「しかし、弁護士が進出することによって、法の支配が正しく実現されず、そのことについての社会の批判が高まり弁護士に対する信頼が低下すれば、業務の範囲は制限され、やがて弁護士の社会的必要性に対する疑問すら出ることも考えられる」

     その一方で、正しい業務拡大の基本的条件として、資格制の堅持が必要とし、「資格制は、訴訟のみならず、現在そうであるように、法律事務全般にわたるべきである。その方が、資格としての魅力が大きく、多くの優秀な人材に参入の意欲をかきたてる」「弁護士資格は、それを持つ者が、独占にあぐらをかき、社会から与えられた役割を果たさなければ、正当性を失い崩壊する」などともしています(「いま、弁護士は、そして明日は?」)。

     業務拡大への楽観論と、進出論の成否が弁護士の社会的必要性にまで関わるという危機感。資格の堅持を業務拡大の基本的条件にしながら、それを崩壊させないために必要なことは、前記「改革」が定義している役割を果たすことである、というような自覚――。

     しかし、現実の「改革」をみれば、業務拡大の楽観論は大きく外れ、進出論の成否ではなく、膨大な弁護士の数を支える経済的基盤と社会的必要性の在り方(需要の有償性)が問われることになり、資格制はそれらの失敗によって、経済的「魅力」を失い、「多くの優秀な人材に参入の意欲をかきたてる」ものではなくなる結果を生んでいます。

     「法曹有資格者」という捉え方が登場した時点で、「改革」の弁護士必要論、活用論の上の乗っかった、前記「社会進出」論は変質した、というよりも、もはや持ちこたえられなくなったとみるべきではないでしょうか。弁護士の社会的進出はますます進んでおり、最近の児童相談所配置も含めて、こうした弁護士活用の「発見」を、「改革」の成果のようにいう人は、業界内にもいます。ただ、これらをこれまでの「改革」の発想の中に、すべて描き込むのには、やはり無理がある。組織内弁護士の増加にしても同様ですが、いくら肯定的評価を加えても、数の規模をみれば明らかなように、当初の描き方からすれば、後付け感は否定のしようがありません(「弁護士『資格』必須度というテーマ」 「児相への弁護士配置と処遇をめぐる発想」 「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。 

     本当に弁護士という資格業でなければならないのか、「法曹有資格者」では本当にだめなのか、もっといえば、「資格者」でなくても、その分野それぞれに専門的な法的な教育を受けた人材であれば、どこまでが対応でき、逆にどこまでが資格者としての権限が問われ、必要なのか。それはどこまでが、個人事業主としての経済的無理を強い、資格そのものの魅力を減退させ、志望者を遠ざけている現実があっても、なお、どうしても実行しなければならないのか、そして、もっといえば、その選択への社会的理解の先に、本当に資格者としての弁護士が「インフラ」として必要とされ、遇されるのか未来があり、それが唯一の未来といえるのか――(「身近な司法」と「身近になってほしくない司法」)。

     増やし続けるもの、存在し続けるものを何とかする、というところに至っている、現在の「改革」が、その視点に立てないことに、今、もっとこだわっていいように思えます。


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    児相への弁護士配置と処遇をめぐる発想

     児童虐待への対応強化へ、厚生労働省が全国の児童相談所(自相)に弁護士の配置を義務付ける方向で調整に入ったことを、毎日新聞が1月17日付けで報じています(デジタル毎日)。記事も言及していますが、正確には既に2016年の児童福祉法改正で義務付けられた「弁護士の配置又はこれに準ずる措置」(同法12条3項)の「準ずる措置」を削除し、兼務態勢などの現状を改め、より全児相への弁護士配置を徹底化しようとするもののようです。

     児相での弁護士必要論、活用論は、近年、さらに強調され、社会的にもほぼ異論がない状態になってきたようにとれます。児童虐待の深刻化に伴い、子どもの保護のために法的権限を駆使しなければならない場面があるほか、援助のための様々な法律問題をクリアするために、弁護士のニーズが注目されてきました。かつてから一部の弁護士が自相との連携を強め、非常勤でも実績を積み上げてきたという経緯もありますが、一方で「常勤化」が進んでいない現実もあり、必要論の高まりと常勤化促進の意図が、今回の動きの背景にあります(日弁連「すべての児相に弁護士を」)。

      この動きに対して、現在、最も弁護士が関心を示しているもの、別の言い方をすれば、一番引っかかっているととれるのは、実は「処遇」です。つまり、「常勤化」に向けて、弁護士がより参入できるだけのきちっとした待遇を念頭に置いているのか、逆に言えば、またぞろそういうことを度外視した話ではないのか、という不信感もはらんだ受け取め方です。処遇面で弁護士の気持ちが離反しつつある、法テラスの二の舞にならないか、という声も聞こえてきます。

     改めて、今回の動きと弁護士の処遇について、二つのことを押さえておく必要があるように思います。

     一つは、「改革」の教訓につながる、一つのパターンではないか、ということです。改めて言うまでもないことですが、人材の確保というテーマに対して、処遇は当然ワンセットで検討されるべきことです。しかし、弁護士についていえは、今回の「改革」でどれだけニーズがあるか、ということが散々強調されながら、それを支える人材を安定的に確保することを処遇の問題として検討するということが完全に置き去りにされた観がありました。

     なぜ、そんな当たり前のことが、こと弁護士については置き去りにされてしまったのか――。その背景には、増員議論のなかでも散々取り沙汰されましたが、弁護士が経済恵まれている(恵まれ過ぎている)というイメージが前提にあったことがあります。これは、結果的に弁護士の自己犠牲を求める方向をより許す発想、有り体にいえば、そこそこ自己犠牲を強いても、それによっても弁護士が経済的に破綻することはないだろうという楽観論です。

     結果的に「甘やかすな」的な論調と裏腹のこうした楽観論が、激増政策をあと押しし、同時にそれによって、「ニーズ」とひと括りにされるものの中身が、弁護士の業務を実際に支え得る有償のものなのか、それとも「ニーズ」はたとえあっても、別の経済的基盤が考えられない以上、支え切れない無償性の高いものなのかという、現実的視点を欠落させることにつながり、そして失敗した――。

     「不信感」と書きましたが、今回の動きが弁護士側に嫌な感じをさせるのは、この点であるというべきです。またぞろ、弁護士の現実的な処遇は度外視されるのではないか、と。適正で現実的な処遇を度外視して、必要論だけで突き進み、それで手を挙げる弁護士がいなければ、またぞろ手を挙げる弁護士を生むために、さらに増員が必要などと言い出さないか――。こんな皮肉までが聞こえてきます。

     そして、もう一つ押さえておくべきことは、増員による弁護士の所得低下との関係です。増員政策によって、弁護士の所得水準はどんどん下がっています。さらに増員が進めば、それによって弁護士そのものの成り手が減るということもありますが、その一方で、こうした公的な弁護士の仕事について、より低水準を基準とした処遇が前提となりかねず、そうなれば、制度は失敗するということです。公務員医師と、任期付き公務員の弁護士の処遇格差なども取り沙汰されていますが、弁護士については、今後も足元を見られ、低く見積もられるという悲観的な見方が出ています。

     こうしたなかで、やはり気になるのは日弁連・弁護士会の姿勢です。児相への弁護士の配置がいかに必要かは強調するものの、現実的に弁護士確保を支える処遇について、担保することが、制度を成り立たせるためにいかに必要かという視点に、果たして立っているのでしょうか。もし、立っていないのであれば、まさに増員政策に突き進んだ「改革」の二の舞になりかねません。

     弁護士の自省と努力、さらにその先の自己犠牲でなんとかするという発想の限界、無理こそ、「改革」失敗の教訓というべきではないでしょうか。そこに一番敏感に反応していいはずの、日弁連・弁護士会がいまだそうではない。「改革」の根本的発想から見直さなければ、同じことが繰り返される気がしてなりません。


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    「相談」と「元弁護士」をめぐる事情

     ラジオ番組の「テレホン人生相談」を聞いていると、弁護士回答者が、法律相談と人生相談の境目を意識し、しばしばあえてそれを明確にして話を進める場面を耳にします。「これは法律家としてではなく」などと断ったうえで、法律的にはこういう結果になるだろうけど、それ以前に相談者にできること、つまりは考え方であったり、心構えであったりを指南する。

     言ってみれば、基本的な法律相談と、それに加味して必要な人生相談を行える回答者ということで、この番組にとって弁護士は有り難い存在であるととれます。ただ、いつもここで別のことも頭を過ります。この番組は、あくまで「人生相談」という枠組みなのだからいい。しかし、この弁護士回答者の対応を聞いている人のなかには、まさにこうした対応を弁護士の業務としてイメージしてしまう人はいないだろうか、と。

     もちろん、出演者はそうなる危険性があるからこそ、ここからは「人生相談」と前置きしているともとれるわけですが、果たしてそれがラジオを聞いている人に、ここから先は普段の弁護士の仕事でない、と、伝わっているのかどうか。

     「人生相談に応じている時間はない」。こうしたことが、弁護士のなかでかつてより言われるようになりました。弁護士がやるべきなのは法律相談だけで、人生相談に踏み込む領域に付き合っている暇はないし、筋違いであるとの意識。この強まりは、今の弁護士の余裕のなさだけでなく、かつてよりもその点で「勘違い」した相談者が法律事務所の門をたたいているということもいわれるだけに、これもまた二重の意味で「改革」の影響といえなくはありません(「『厄介な方々』と向き合う弁護士」 「法律相談無料化の副作用」)

     そして、もう一つ、この番組を聞いていて、頭を過ったことがありました。「人生相談」の回答者が「元弁護士」であったならばどうなるのか――。おそらく弁護士であれば、弁護士法72条の規定をもとに、少なくとも前記番組のなかの弁護士回答者のような対応はできない、一も二もなくやればアウト、と言うでしょう。同条から相談者本人からではなくとも、局からの報酬があれば、対価性が認められ、「法律相談」に当たる部分が、弁護士以外には禁止されている行為を、報酬を得る目的で行った、として違法だと。

     もっとも、「人生相談」の場を設定している側からすれば、前記したように、「人生」「法律」の両領域にまたがって回答できるメリットがあっての起用であれば、わざわざ「元」付きを使わなければいいだけのことなので、それほど問題はありません。しかし、仮に有償の「人生相談」を「法律相談は行わない」と宣言して「元弁護士」が行うとしたらば、それはどうなるのか。前記した最大のメリットを活かさない「相談」を行う、という言を信じれば足りるという話なのか――。実際、最近、こうした問題と関連して、業界関係者をざわつかせたケースもありました。

     この問題に関しては、「一も二もなく」とはいかない、二つの点を抑えておく必要があります。一つは、こういった「元弁護士」のケースが増える可能性があることです。弁護士が経済的な問題から、いろいろな生き方を模索するなか、「元弁護士」もこれからさらに社会に放出される。そのなかで、その経験を引っ下げて「相談」に当たるという場面が増えることは十分に考えられ、その度にここは論点になりかねない。弁護士72条による「自制」が働くのか、働くほどこの規定が「元弁護士」の中に存在しているのかが問題になるということです。

     さらに根本的な問題は、このケースで72条の制約が果たして社会に対して説得力を持つのか、という点です。「元」と括られる人材のなかには、もちろん冒頭の「人生相談」に登場するようなベテランも含まれるかもしれません。そうした人材が、弁護士登録を外した瞬間に、弁護士としての経験や知識を活かした冒頭のような広がりをもった「人生相談」に応じることができない、しかも「法律相談」に当たる部分は内容いかんにかかわらず、一律にできないということに、社会はより不合理、無駄を感じ出す可能性があります。

     もちろん、対価性を伴わなければ、法律を勉強した人材や元法律家であったとしても、弁護士法の問題にはなりません。ただ、目を離して、あえていえば法的なリテラシーの社会的な有効活用という視点が強まるほど、安全だけで語られる弁護士の「独占」の意味は、問われることになるはずです。

     一方、「元弁護士」が72条を踏まえて、自制的に「人生相談」をやるというのであれば、とりあえず「元弁護士」を表明すべきではない、という意見も聞かれます。ただ、それはいうまでもなく、相談場所設定者がそれを前提に相談者を集めたり、相談者自身がそれを前提に、その知見を期待してやってくるということは防げても、内実において対価性がともなう「人生相談」のなかで、「元弁護士」経験と知識がいかされた、実質「法律相談」が行われるのであれば、何の意味もなくなります。

     しかも、前記したような、「制約」に対する必ずしも社会的なコンセンサスがないなかで、要は「それが許されても、弁護士以外、誰からも文句はでないはず」という意識のなかで、「元弁護士」に何らかの「自制」が働くのか、という問題にもなってくるのです。

     弁護士が業務のなかで、いわばサービスとして人生相談にわたる部分にも対応する形は、社会のなかに仮にそうしたものへの期待感があっても、「改革」が生み出している弁護士の現実は、そういう方向にはありません。いまやそれが業務としてふさわしい形とみる弁護士も圧倒的に少数派のはずです(「弁護士の『人生相談』」)。その一方で、「元弁護士」の存在は、いずれ弁護士会として、なんらかの新たな対策を考えなければならない、あるいは根本的にこれまでの対応を考え直さなければならないテーマになるかもしれません。


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    オウム死刑執行への抗議と日弁連の存在意義

     オウム真理教の教団元幹部らへの異例の大量死刑執行の報が流れた直後から、ネット空間を中心に弁護士の間では、あることが話題となり、ざわつきはじめました。「日弁連はどうするか」「日弁連はどうせやるんだろうな」と。日弁連会長が、この執行に対して抗議声明を出すということ。それを当然と受けとめられない、あるいはその影響を気にする声が溢れ始めたのです。

     そんな異論、懸念をよそに、予想通り、菊地裕太郎会長は執行された7月6日付けで抗議の声明を発表しました。

     「犯罪により身内の方を亡くされた遺族の方が厳罰を望むことは、ごく自然なことであり、その心情は十分に理解できる。一方で、刑罰制度は、犯罪への応報であることにとどまらず、社会復帰の達成に資するものでなければならない。それが再犯の防止に役立ち、社会全体の安全に資することになる。人権を尊重する民主主義社会であろうとする我々の社会においては、犯罪被害者・遺族に対する十分な支援を行うとともに、死刑制度を含む刑罰制度全体を見直す必要がある」
     「死刑に直面している者に対し、被疑者・被告人段階、再審請求段階、執行段階のいずれにおいても十分な弁護権、防御権が保障されるべきであり、再審請求中の死刑確定者に対する死刑の執行はこの観点からも問題の残るものである」

     声明のなかでも触れられていますが、日弁連は2016年10月の人権擁護大会で、2020年までに死刑制度廃止を目指すべきことや、刑の言渡し時には「仮釈放の可能性がない終身刑制度」、現行の無期刑が仮釈放の開始時期を10年としている要件を加重し、仮釈放の開始期間を20年、25年等に延ばす「重無期刑制度」導入の検討などを盛り込んだ宣言を採択。今年3月には、すべての死刑確定者に対する死刑執行の停止、特に再審請求中の死刑確定者に対する死刑の執行及び心神喪失の疑いのある死刑確定者に対する死刑の執行を停止を求める要請書を提出しています。

     それを考えれば、今回の執行に当たり、整合性という意味でも、会長声明が出されるのは当然と言えば当然であり、むしろ日弁連として何もアクションをしない方が不自然です。しかし、それでも弁護士の中に、冒頭のようなざわめきが起こるのは、前記宣言を含めた死刑制度に対する日弁連の姿勢への会員コンセンサスが不十分であり、不満がくすぶっている現状を反映しているとみることがてきます。

     この問題で問われているのは、大きく括ってしまえば、二つのことであるといえます。一つは、この日弁連の行動が果たして「政治活動」といえるものなのか、そしてもう一つは強制加入団体として妥当なのか、です。もちろん両者は被っていて一つととらえてもいいかもしれませんが、後者は「政治的」と括られないものも含めた是非が問われる可能性に関わるものです。

     日弁連の活動を「政治的」という括り方で批判する意見は会内外に古くから存在してきました。そして、今回についても、これを「政治活動」として、「政治活動をしたいのであれば、弁護士個人で行うか、弁護士で構成された任意の政治団体で行うべき」という意見が出されています(井戸端会議・瓦版)。

     前記引用したような主張をする日弁連の活動が、まず「政治活動」なのかで意見が分かれ、それによって、あるいはそれにかかわらずとも、思想・信条という観点で、会員の意見が大きく分かれている問題に対しては、強制加入団体の性格からいってふさわしくない、という異論があり、どちらにしても結論は「任意団体でやれ」ということになります。

     しかし、ここで問われるのは、人権擁護団体あるいは専門職能集団としての日弁連・弁護士会の存在意義です。これまでも書いてきたことですが、それが仮に「政治的」という烙印を押されようとも、あくまでその立場から言うべきことは言い、行動すべきことは行動しなければなりません。むしろ、「政治的」という烙印を押される度に、あるいは多数派世論の厳しい視線にさらされる度に、それを恐れて、沈黙し、筋を通せない専門家集団に存在意義があるとはとても思えません(「『左傾』とされた日弁連の本当の危機」 「弁護士会が『政治的』であるということ」 「発言する日弁連の不安要因」)

     前記声明の内容は、専門家集団として、今後社会が制度の存廃を議論するうえでも、社会に提示していい、問いかけていい、一つの見識だと思います。むしろ、今回のような、重大事件での執行、反対すれば世論を敵に回す可能性があるときに、これを発信できるかどうかという意味では、まさに日弁連の存在意義がかかった試金石であったといえます。

     それでも、強制加入団体としては、その構成員の意思が反映されるべきで、それが統一されていない以上、これは妥当でない、配慮されるべき、という意見もあります。ただ、この点については、司法判断においても、一つの決着点が示されていることです。弁護士法1条に引きつけて、この目的の実現という範囲においては、こうした会の意思表明・活動には正当性があり、およそその範囲内では、特定意見を会員に強制するものではない。会員の思想・良心の自由の問題を完全に切り離して、会の行為の正当性が認められるという司法判断です(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)。

     つまり、有り体にいえば、日弁連・弁護士会としては、そういう主張なのかもしれないが、会員個人として私は違う、ということがあり、それも完全に認められているということです。それが認められているのは、その司法判断でも示されているように、そうしなければ個々の会員の活動には限界があり、弁護士法1条に掲げられた使命である基本的人権の擁護と社会正義の実現が達成できない、もしくは制限されてしまうということです。それが社会に周知されるかどうかの問題になります。

     個々の会員に異論がある場合、日弁連・弁護士会がその案件について対外的な意見発出ができない、活動もできないとなれば、それこそ夫婦別姓、戦後補償、憲法にかかわる問題、あるいは誤判・冤罪事件への対応に至るまで、事実上制約されてもおかしく、ともいえます。

     しかし、一番の大きな問題は、むしろ、今、多くの会員が、どうしてかつてのように割り切れなくなったのか、ということの方ではないかと思います。これまでだって、日弁連・弁護士会の活動が個々の会員意思を必ずしも反映してきたわけではなく、それを承知で会員は異を唱えず、前記した会と会員の関係を暗黙のうちに了解してきました。依頼者や顧問先の会社関係者から、会の意思表明に絡んで「先生も同じ考えですか」と問われ、困惑したといった話は、昔からありました。それでも、前記司法判断が引き出された、国家秘密法をめぐる会の意見表明が問題化したころは、少なくともそこに表向きこだわって発言する会員は少数派だったようにみえました。

     結局、「改革」がもたらした経済的異変によって、個々の弁護士会員は、こういう関係そのものを認められなくなってきた。よりそんなことよりも会員の利益を優先する弁護士会を求める欲求が会員に高まった、ということが大きいのだと思います。これまでがおかしかった、あくまで政治活動だ、という会員もいるでしょうが、「会員の利益になる活動さえしてくれていれば、あとは、死刑賛成だろうが反対だろうが、改憲賛成だろうが反対だろうが、別に好きにしてくれて構わない」という、ある意味、これまで前記会の活動を容認し、支えてきたサイレントマジョリティと同様の発想の、あるいはそこに戻り得る会員の意思も存在しているというべきです(「『新弁護士会設立構想』ツイッターが意味するもの」 「『普通の業者団体』という選択と欲求」)。

     しかし、それも前記したような日弁連・弁護士会の存在意義を前提として、その上に成り立っている話です。この会員世論の流れが、その前提そのものを全く不要とする方向にに進めば、過去がどうであれ、すべてが失われ、あるいは制約されていくことでしょう。日弁連・弁護士会が、もはやそうした分岐点にさしかかりつつあることも分かっておかなければなりません。


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    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


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