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    若手「自己責任論」が覆い隠すもの

     先日の日弁連臨時総会で取り上げられた「谷間世代」問題(「『谷間世代』支援を決めた日弁連臨総の欠落感」)を含めて、現状に苦悩している若手弁護士に対して、「自己責任」という言葉をあてがう人たちが業界内外にいます。「改革」後の、弁護士界の状況、給費制廃止の影響や増員政策による経済的な異変を、彼ら若手弁護士たちは知ることができた。知ったうえで、この世界に来たし、今、現在、この世界にいるのではないか、と。

     要するに、覚悟を決めろ、自分で決めた(決めている)道なのだから、あれこれ言うな、嫌なら辞めろ、甘えるな、という話になります。こうした主張は、現実的に考えると、しばしばある種の思考停止を導くことを伴った、「説得力」を持ってしまいます。つまり、現在の意識の問題として、「誤っている」という前提に立つことで、その余を判断するまでもなく、アウトという話です。

     もちろん、情報収集や選択は、個人の努力、意欲、能力に関わり、その結果が、現在の彼らの立ち位置に繋がっているとはいえます。そして、当ブログのコメントにもあったように、このこと自体は、「改革」後に生まれた彼らに限ったことではない。かつてこの世界を目指した志望者だって、きちっと現状を認識したうえで進路を選択したかもしれないし、それができた彼らが、この「改革」後の人間であれば、「ちゃんと」この道を選択していないかもしれない。

     こういう捉え方は、あるいは冒頭の若手に浴びせられる自己責任論を、補強するものになるかもしれません。しかし、仮にこれが彼らが背負わされる自己責任論として、一定の「説得力」を持つことがあったとしても、どうしてもこれでは割り切れない問題が残っているといわなければなりません。それは、いうまでもないことですが、この状況を作った「改革」の評価やその責任について、これは何の「説得力」も持ち得ない、いわば別次元の話であるということです。

     つまり、これ自体が「改革」が生んだ望ましい形なのか、どうか。あるいは「谷間世代」の背負う格差も含め、それが望ましい「改革」のための、望ましい「犠牲」なのかという点です。仮に、「改革」の結果として、苦悩する若手が、前記自己責任を真摯に受け止めて沈黙したとしても、あるいは自らが「改革」の増員政策の枠の中で生まれ、「改革」によって誕生した法科大学院によって生み出されたという事実によって、発言の適格性そのものに躊躇を覚えたとしても、そのテーマは消えないということです。

     しかも、彼らの諦念を引き出すような自己責任論が、この「改革」に同意し、旗を振った側から発せられるとすれば、それはどうとらえるべきでしょうか。若手の諦念と躊躇のうえに、「改革」の評価と責任から目を逸らさせるため、つまり前記思考停止そのものが目的ではないか、ということも疑わなければならなくなるのです。

     若手が自己責任として甘受すべきかどうかと、結果的により甘受することを強いることになった「改革」の妥当性。前者に対する彼らの自覚で、「改革」を正当化しきれない、という関係は、若手に限らず既存の弁護士が、増員時代の状況や止まらない「改革」と作ってしまった制度への諦念によって、生き残りを模索した(できた)としても、それだけで「改革」の評価につなげられないのと同じです。これは一体何がいいのか。これを彼らの犠牲だとすれば、それに見合う「成果物」を社会は受け取っているのか――。そこがスル―されかねない、決定的な危うさがあるというべきです。

     別次元とあえて書いていますが、それは自己責任では片付けられないという意味ではあっても、これは本質的には原因と結果の関係にあります。「谷間世代」への救済を決定した、前記日弁連臨時総会でも、出席会員からそもそもの原因である給費制廃止につながった増員政策を、日弁連は転嫁する意向があるかが問われましたが、執行部はあっさり「別問題」と切り捨てました。そうしなければ、責任の問題、そしてその犠牲によって何が得られているのかという「改革」の評価に踏み込まなければならなくなるのは明らかだからです。

     つまり、「谷間世代」が20万円という日弁連の「誠意」に納得し、いまや多数を占めている「改革」論議や経緯を知らない「改革」後世代の会員が、諦念と躊躇のもとに沈黙するなかで、「改革」世代が責任を問われることなく、先の見えない「改革」路線が大きく変更されることなく続くこと。これがいまや、弁護士会主導層にとっての、望ましい形なのではないか、と言いたくなるのです。

     その過程では、当然、期待を未来につなげる話が繰り返されます。弁護士のニーズは、増員政策と弁護士たちの工夫と努力の先に、いつか顕在化して、増員弁護士を経済的に支えるはず、今、進められている法曹養成制度の変更も、やがて志望者回復につながり、弁護士の経済的魅力もやがて回復し、法曹界の適材確保につながる。要は、明るい未来が来る、今は厳しいが、いずれ「改革」が正しかった、と評価される日が来るのだ、と。

     思えば、冒頭の自己責任論にしても、自ら志望した若手の姿勢を批判できるほど、正しい情報を提供していたのか、有り体にいえば、いいことばかりを切りぬいて、本来それこそのちのち責任が問われていいはずの、甘い見通しが垂れ流されていなかったのか、という問題だってあります。もっともいまや詐欺的といわれている法科大学院修了者の司法試験合格率についての、当初の触れこみ(「7、8割程度」合格)にしても、「実現不可能を見抜けたはず」と期待した志望者の見識をなじる意見もあったくらいですから、自己責任とは本当に、一方に都合のいい使われ方をされるものです(「『資格商法』とされた法科大学院制度」 編集長コラム「『飛耳長目』~ジャーナリスト解放と日本の『自己責任』論の正体」)。

     しかし、そのこともさることながら、こうした自己責任論によって、「改革」の結果を直視しない姿勢は、これからこの世界を目指そうとする志望者には、もちろん何の「説得力」はなく、それを見切った彼らを、より遠ざけるものにしかなっていない。そして、「改革」を肯定するために繰り出された、未来に期待をつなぐ言葉によって、見切れなかった志望者には、新たな自己責任論と悲劇が待ち受ける――。この「改革」の現実と推進派の姿勢には、やはり二重三重の罪深さを見てしまいます。


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    「谷間世代」支援を決めた日弁連臨総の欠落感

     給費制廃止という失策によって、新たな給付制導入までの6年間、無給を余儀なくされた、いわゆる「谷間世代」会員(司法修習新65期~70期、対象人員約1万1000人のうち、約9700人)について、20万円を支給する支援策を、日弁連が3月1日の臨時総会で、圧倒的賛成多数で可決しました。

     この間の貸与額約300万円の6.7%に過ぎない支給額の少なさという論点。会場の同世代会員から「馬鹿にしているのか」という声が出る一方で、「それでも有り難い」という評価があり、また、日弁連次期繰越金の約44億円の半分近くに当たる20億円をこれに投入するという、日弁連始まって以来の「英断」も評価の対象になりました。登録期間を満たさない会員への例外措置検討を盛り込んだ付帯決議案を執行部が受け入れた点にも、同世代の一部から感謝の声が出されました。

     そして、これでこの問題は幕引きか、という、もう一つの論点。「谷間世代」の経済問題の是正策について、今後も国に対して働きかけをしていくということを、執行部が提案理由でも、答弁でも一応明言したことで、これとさらなる会内施策の可能性を念押しするために、会員が用意していた付帯決議案は、提案されませんでした。

     要するに、全体的にみれば、この問題で現実的に今、日弁連は、できるだけのことをやろうとしている、ということを、執行部が「谷間世代に寄り添う」などという言葉とともに、会員に理解を求め、総会に参加した同世代の一部を含めた会員の多数が、これを評価、了承した、という格好です。

     しかし、結論からいうと、この日弁連の方針決定には、残念ながら、本質的な議論が全く反映していない。報道席から見ていた当日の議論は、むしろ、その本質にもはや踏み込むことができなくなっている、日弁連の今日の姿を強く印象付けるものだったといわなければなりません。

     その欠落した本質的議論とは、大きく2点です。一つは「給費制存続」運動とは、一体何だったのか、ということです。日弁連が反対したものの実現してしまった同制度廃止によって、「谷間世代」の格差は生まれ、かつ、新たな給付制そのものが、その失策の証明でありながら、いまだ失地回復の方向は見えないという現実。そして、さらにいえば、「給費制存続」は、弁護士が他の法曹二者とともに、対等に国家に養成されるという意味と、そのことが弁護士の意識を公益につなぎとめてきた意義のもとに主張されたはず、ということ。

     ここを踏まえないまま、日弁連がこの独自の支援策に踏み込むということへの意味をどう考えるのか、ということです。いかに「谷間世代にできるだけのことを」といっても、ここの整合性をどう踏まえているのかを明らかにしなければ、一部会員の懸念通り、これは「終わり」を意味し、また、そうとられることを許すものになりかねない。つまり有り体に言えば、「給費制」とその存続運動の正当性、その廃止が失策であったことを、いまこそ日弁連として確認したうえで先に進むべきだったのではないか、ということです(「『給費制』から遠ざかる日弁連」 「『谷間世代』救済と志望者処遇の視点」)。

     この方針の提案理由には、はっきりと「法曹は社会のインフラであるから、国には公費で法曹を養成する責務がある」と書かれています。しかし、「給費制」の文字は、経緯を説明した1箇所にしか出てきませんし、その国の責務という主張を裏打ちするような「給費制」復活の必要性をいうものは、この提案理由の中にも、当日の執行部の姿勢のなかにもありませんでした。

     この問題を国会議員に訴える院内集会に顔を見せないことを指摘された菊地裕太郎会長は、自分が出るタイミングではないとし、その理由のなかで、この問題に消極的な国会のムードを強調し、「働きかけを粘り強く継続」という前記提案理由の表現とは裏腹に、終始、腰の引けた姿勢を示しました。「無理なことは言えない」という敗北主義ともとれる姿勢には、執行部の姿勢だけでなく、それに対する会場の反応も含めて、正直、これがあの「給費制存続」運動をやった同じ団体なのか、という印象も持ちました。

     そして、もう一つ欠落していたのは、弁護士激増政策という「改革」に対する議論です。いうまでもなく、「谷間世代」を生み出した給費制廃止につながった、根本的な原因がどこにあるのか、という問いかけです。増員政策の実現を支える存在としての法科大学院制度の予算。その制約につながる給費制の存続は、増員へのブレーキになるという「改革」路線の描き方がありました。そして、その問いかけは一方で、その「改革」の旗を共に振り、そして現在においても、その路線を転換する姿勢に舵を切れない、日弁連の責任をどう自覚すべきなのか、という問いかけにもなります。

     臨総当日の質疑でも意見でも、こういう主張は出席者からも出されました。しかし、執行部側は答弁でも、増員政策は「谷間世代」の問題とは別問題と切り離し、その一方で、新たな給付制が「谷間世代」に遡及させる形にならなかった点へのこだわりさえも示されませんでした。そして、前記欠落点に対する会員の疑問への、多くの出席会員の関心もまた、希薄であるようにとれたのです。

     もはや、自ら進めた運動を、これからの活動との整合性を含めて総括できず、かつ、事態の根本的な原因を問い、それにかかわった、これまでの自らの活動を反省することもできない――。「谷間世代」への現実的な救済としての、「できるだけのこと」という方針決定の陰で、「給費制」を含めた「改革」に対して、今の日弁連は、本当に「できるだけのこと」をやろうとする、あるいはやれる団体なのかということを、残念ながら、今回の臨総からは思わずにいられません。 


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    「大きな弁護士会」の末路

     最近でこそ、あまり耳にすることがなくなりましたが、かつて今回の司法改革をめぐり、さかんに「大きな司法」ということがいわれました。これまでのこの国の司法は、小さ過ぎたのであり、物的・人的設備が拡大されるべきなのだ、という発想です。

     今、思えば、当時、この発想に最も強く反応したのは、弁護士(会)ではなかったかと思います。国家予算に占める司法予算の少なさを批判し、つとに弁護士には自己犠牲でその穴を埋めてきたという意識がありました。そこに弁護士会内の「改革」の先導役となった中坊公平弁護士は、「二割司法」という、この国に大量の泣き寝入りや不正解決がはびこるという、司法機能不全論を持ち込んだ。弁護士(会)が、「改革」の「大きな司法」に飛びつく状況とお膳立ては存在していたというべきです。

     しかし、今、弁護士(会)が強く反応した「大きな司法」論はとうなったのか。この発想のもと、弁護士会は「改革」の増員政策を前向きに受けとめることになりましたが、結果は弁護士だけが激増する形になりました。「二割司法」がイメージさせたような大量のニーズは、弁護士が増えても、それを支える有償のニーズとしては顕在化せず、いまや八割の膨大な機能不全論そのものが、業界内では、根拠なき感覚的数値だったという、烙印が押されてしまっています(「『大きな司法』論が切り捨てているもの」)。

     一方、当時の弁護士会関係者は、前記「大きな司法」論に乗っかる形で、当然のように「大きな弁護士会」を志向しました。もちろん、それは一つには物理的な意味で、増員政策によって数が増えることに対する機能改革の必要性ということであり、もう一つは前記「改革」の描き方から想像される、漠然とした弁護士会に対する社会的な要請の高まりを根拠にしていたようにとれました。

     当時、この「大きな弁護士会」の発想のなかで、会関係者が何に関心を持ち、議論をしていたかといえば、例えば、弁護士自治の関係で、弁護士の質や倫理性の維持、弁護士個人に対する監督の在り方の問題でした。しかし、大量増員時代に弁護士会が大きくなっても、弁護士会のやれることには限界があるという見方が会内には強く存在していました。有り体に言えば、自治にかかわるとして、口には出せないまでも、多くの弁護士は、実は増えれば増えた分、質の確保は難しく、また不祥事も増えるだろう、と考えていたということです。

     また、当時は司法アクセス解消が注目され、弁護士個人ではなく、「大きな弁護士会」が積極的にかかわるべき課題ととらえられました。「国民の裁判を受ける権利の実質的保障」といったこともいわれ、これもまた「二割司法」論の影響もあって、司法的解決を望む大量の国民が存在している、ということが当然の前提になっていました。国民の権利保障は、本来国家の責任でありながら、これは弁護士にも問われているのだ、という強い犠牲的な自覚が、前記前提のうえに、やはりこの「大きな弁護士会」論にも被せられていたのです。

     しかし、今となってみれば、不思議なくらい、当時「大きな弁護士会」が増員された弁護士の業務をどう守り、支えるのか、どういったメリットを強制加入の会員に与えるのか、といったことが議論されていない現実がありました。前記「改革」が描いた眠れる大量のニーズを、有償無償の区別なく、想定していたことによって、そこはなんとかなるだろう、あるいは個人の問題として、丸投げする考えだった、この前提が崩れるとは夢にも思わなかったといわれれば、それまでかもしれません。

     しかし、司法制度改革審議会の議論でも、弁護士大量増員の是非にもかかわるはずの、司法ニーズの「受け皿」としての隣接士業の存在との関係は、不透明なまま積み残されていました(「弁護士激増既定方針化がもたらしたもの」)。そもそも大量の有償のニーズが、急増ペースに併せて、顕在化しなかった場合を、全く想定していないこと自体(のちにペースダウン論をいうことになるわけですが)、過信というよりも、相当な会員利益不在の発想があったとみることもできるのです。

     今、多くの弁護士会の会員は、まさに会員利益から、「大きな弁護士会」を求めなくなってきているようにみえます。物理的な意味で、会員数を抱えているという大きさではなく、やはり会員に対する役割あるいは関係性として、むしろ最小限度のものを求めつつあるのではないでしょうか。なぜかといえば、皮肉にもこの「改革」自体が、それが描いたような「大きな弁護士会」の存在意義よりも、高い会費負担の解消も含めて、個々の弁護士業務の足を引っ張らない弁護士会を求める会員意識を生み出すことになったからです。

     「大きな弁護士会」が、会員利益に貢献してくれない存在であると、見切ったとき、それでも弁護士会が自治を伴って、「大きく」あるべきという会員が、どれだけいるのか、という問題です。

     今、弁護士会のなかには、三つの立場の弁護士がいるといわれています。「改革」の旗を振ってきた「主流派」といわれるグループ、「改革」路線に反対・慎重な立場をとってきた「反主流派」「反執行部派」といわれるグループ、そして、「改革」そのものへの無関心層。ただ、この分け方は微妙で、三番目の「改革」無関心層は、結果的に選挙などでは、多くが「寄らば大樹」的に執行部寄りの投票行動をとってきた層で、現在もその傾向にあるというのが、反執行部派の受けとめ方です。

     ところが、弁護士会への関心でみれば、前二者を含む関心層と無関心層に分けることもできます。つまり、いうまでもなく、「主流派」も「反主流派」も自治の維持も従来の弁護士活動の意義も認め、それに対する期待もあり、そしてそれは守ることを前提に、そのあるべき形で意見が割れている。それに対し、無関心層は、もはやそこに期待する意味が感じられない、その優先順位は低く、弁護士自治の維持、これまでの弁護士会活動の存在意義にも懐疑的な方向の見方をしている。そして、前記したように「改革」が、結果的に膨らませつつあるのが、この層ということになります。

     「改革」が生み出している現在の弁護士(会)の状況でありながら、もはや会員を「反改革派」として糾合できなくなりつつある現実が、ここにあります。「改革」論議が遠い過去になりつつあり、新法曹養成下で生まれた会員が半数に及んでいることもありますが、日弁連会長選挙で「改革」を争点に、「主流」「反主流」が肉薄した時とは、弁護士会世論の状況が明らかに変わってきたといえます。

     昨年末、このブロクで1年を振り返った感想として、弁護士は確実に「改革」からも日弁連からも距離を取り出しているようにみえると書きましたが、今年についても全く同じで、その距離は広がったようにすら感じます。ネット上では、「改革」批判派の弁護士に対して、「改革」派からではない弁護士からの、、冷ややかな言説もみられます。

     「もっと(「改革」の影響で)深刻な状況にならないと、この流れは変わらない」と語る「反改革派」の弁護士もいます。これも昨年とほぼ同様の括り方になってしまいますが、その時に弁護士と弁護士会はどうなっているのか、「大きな司法」「大きな弁護士会」を銘打った「改革」の末路が、どういうものになるのか。そのことが一番気がかりです。

     今年も「弁護士観察日記」をお読み頂きありがとうございました。いつもながら皆様から頂戴した貴重なコメントは、大変参考になり、刺激になり、そして助けられました。この場を借りて心から御礼申し上げます。来年も引き続き、よろしくお願い致します。
     皆様、よいお年をお迎え下さい。


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    伝えない弁護士会の深層

     かつての日弁連・弁護士会は、むしろ今よりもずっとオープンな団体だったのではないか、と思うことが度々あります。これは一般の人の印象とは違うかもしれませんが、有り体にいえば、ある時期から、会内情報が外に出ることに、極端に神経を尖らせるようになった。取材者の立場からいえば、それだけやりにくくなった、ということです。

     もちろん、「出さない」「出ない」から先こそが、取材者の力量や努力にかかっているともいえるわけですが、長年取材してくると、「取れていた」ものが「取れなくなる」「取りずらくなる」ということには、やはり敏感になります。そして、取材を始めた30数年前と比べて、最も日弁連・弁護士会の対応が違うと思えるのは、やはり内部議論の扱いです。

     つまり、最終的な決定がなされるまで、外に情報が出ることを極端に嫌い、また、恐れるようになったということです。それは、執行部の広報に対する姿勢、マスコミ対応ということにとどまらず、会員から情報が流れることを恐れ、一種の「箝口令」が委員会レベルなどで敷かれてしまう現実です。

     情報が漏れて、記事になった場合、出所を探す「犯人探し」が行われる場合もありました。「君に情報を流したあと、犯人探しが厳しくて参っている」などと、会内の取材協力者から言われたこともありましたし、一度だけ取材者本人である私に直接、委員会担当者が「誰にも言わないから、取材源を教えてくれないか」などと持ちかけてきたことがありました。その時は、さすがに取材者としては、随分舐められたものだと感じましたが、同時にその感覚に正直呆れかえったのを覚えています。

     弁護士会として決定事項だけ、外部に流すことの是非については、会内でも賛否意見が分かれるところでしょうし、それも結構なことではないか、と考えている会員も少なくないとは思います。ただ、取材の過程で弁護士会側とさんざんやりとりしてきたことですが、いうまでもなく、決定という議論の結論だけでなく、その経過には伝える「価値」があります。会内にどんな意見があり、どんな議論が起こっているのか、日弁連・弁護士会の執行部がどういう方向に議論を進めようとしているのか。むしろ結論に至る前に、それを知らせる意味があります。

     これに対する、弁護士会主導層の言い分は、ほぼ同じことが繰り返し言われています。つまり、決定前のことが、あたかも日弁連が決定したかのように流れてしまうのがよくない、一旦、そうした情報が独り歩きしてしまうと、後でそれを打ち消すことが困難になってしまう――と。最近、一部ネット上では取り沙汰された、弁護士職務基本規程改定の動きなどをめぐっても、日弁連は会外への情報漏れに神経質になっているといわれ、会員のなかからは、いつもながらの前記したような「上の言い分」で、事実上の「箝口令」が敷かれている、という話が聞こえてきます。

     ただ、この模範解答のようになっている言い分が、いささか苦しいのは、伝えられない対象が、「部外者扱い」されている会外のマスコミ・国民だけではなく、実は会員でもあるという点です。一般会員も、実は十分に知らされていない。今は、ネットがあるので大分変わってきてはいますが、会員間の噂で議論を知るというのは当たり前。会の機関紙・誌は、それこそ結論が中心で、意見が出ていても、全体的に執行部の方針に沿った作りになっている。

     つまり、何が言いたいかと言えば、日弁連・弁護士会が内と外に向けて、堂々と開かれた議論をする「価値」を本気で考えているのであれば、前記言い分は、それほど説得力があるだろうか、ということです。それを上回る守るべき「価値」があるだろうかということを、どうしても考えてしまうのです。

     こうした日弁連・弁護士会の姿勢は、1990年代に司法改革の議論が本格化するほどに、どんどん強まった観があります。ここで、あえて嫌な推測をすれば、日弁連・弁護士会は臆病になったのではないでしょうか。「改革」議論では、「市民サイド」というこれまでの彼らの意識に反し、弁護士・会は強い自省を迫られ、そして、内部にはこれまでに体験したことがない、会を二分する路線対立を抱えることになりました。「オールジャパン」を標榜する「改革」を推進する側に立った弁護士会には、「上からの」といえる、それまでにない執行部主導体制が姿を現し、会内民士主義の在り方も問われました。

     そのなかで、内外からの批判にさらされる環境を極力回避することに神経を使う、政策的政治的な姿勢を取るようになり、その結果、強制加入団体であればこそ、会内民主主義が担保されなければならない弁護士会にあって、およそ似つかわしくない統制的な空気までもが、徐々に蔓延したのではないか――。

     弁護士会の対外的な意見表明と会員個人の思想信条の齟齬というテーマが、強制加入団体の在り方として、弁護士会批判という観点で延々と言われています。弁護士会の意思表明の内容と、会員個人の思想・信条とは別、要は現実の弁護士会にはいろいろな考え方の人間がいる、という結論は間違っておらず、そのうえで弁護士会の意思表明には、やはり存在意義はある、と思います(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)。

     ただ、前記のような批判が消えない現実を考えたとき、このテーマへの弁護士会の姿勢として、決定事項だけでなく、さまざま意見の存在、対立的な議論(あるいは執行部方針に不都合な意見を含めて)が現に存在していること、要は一枚岩でない現実があるのならば、正直にそれ伝えることもまた、「価値」があることといえないでしょうか。

     弁護士会主導層に、なぜか、そういう発想がみてとれないことに、ある意味、不思議な気持ちがさせられるのです。


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    「給費制」から遠ざかる日弁連

     給費制の廃止後の6年間、無給での司法修習を余儀なくされた元修習生(新65期~70期、事実上、現在弁護士)を指す言葉として、業界内ではほぼ定着した「谷間世代」という表現への違和感を指摘する声が、業界内の一部にはずっとあります。端的に言って、この表現は、給付制が給費制の完全復活ととらえられ、両制度は別物で、71期以降についても、まだ問題が残っているということをイメージさせない、という指摘です。

     前記したような無給時代を強調するうえで、「谷間」という表現には分かりやすさがあります。また、私も、給付制採用を「事実上」と前置きをして給費制の「復活」と表現しましたが、そこには無給状態が通用しなくなった現実の方を強調する意味合いがありました(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。

     言い訳がましくなるかもしれませんが、冒頭の違和感にあるような、前後の両制度が別物で、完全復活ではない、ということを当然の前提としていたつもりですし、私は「谷間」という表現を使う、あるいは給費制を知っている多くの弁護士たちの意識としても、当然でそうであると思っていました。つまり、あくまで新制度は元の地平ではない、と。

     それは、給費制の月額20万円が、給付制では13万5000円であるといった、それこそ分かりやすい額の違いがありますが、それだけではなく、言うまでもなく、そもそも支給される意味が違う、ということでもあります。給付制採用は、あくまで志望者減という状況に、無給状態を継続できなくなった、通用しなくなったというだけで、給費制が長く採用されてきた意味が理解されたわけではないのです。

     弁護士は国家事務を行うものとして必ず統一的な司法修習を、他の法曹二者とともに受け、対等に国家に養成されるというそもそもの意味と、そのことが弁護士の意識を公益につなぎとめてきた意義。甘い見方だったかもしれませんが、あれだけ給費制復活を求めた側として、回復すべき失地として、この点へのこだわりが、まだ弁護士会内には残っていると思っていました。

     事業者として民間にある弁護士の私益性を強調し、裁判官、検察官とはっきりと区別する論調、民間強者の職業訓練は自弁といった論調の前に、前記したような給費制の本来的な意義への理解は後方に押しやられました。そこには、長年社会に形成されてきた弁護士という仕事のイメージが、その区別する論調を跳ね返すものになっていなかったという面もあったかもしれません。しかし、これを跳ね返した向こうに、本来の回復すべき給費制の地平があるはずでした。

     このいわゆる「谷間世代」の救済をめぐる、最近の日弁連内の状況には、その回復すべき給費制の地平から、彼らの意識が、さらに遠く離れてしまったという感を強く持たざるを得ません(弁護士坂野真一の公式ブログ「谷間世代給付金案~続報」「谷間世代給付金案~常議員会で討議の報告」)。会費減額案から20万円給付案へ。そこでは同世代の不平等解消や会として一体性などが取り沙汰され、本質的に国の責任と失策を真正面から問うという話にはならない。しかも、そこを会員が捻出するということの是非へのこだわりは希薄である現実。以前も書いたように、この失策の背景にある司法改革については、日弁連は責任があると思うが、それを認めたうえでの話でももちろんありません(「『谷間世代』救済と志望者処遇の視点」)。

     給付制と関連して法務省が出した制度方針の中の「社会還元」に対しても、日弁連の姿勢には危ういものがありましたが(「『給付制』と『社会還元』をめぐる日弁連の印象」)、もはや日弁連自身が強固な「通用しない論」のなかにいて、それを大前提にして、「谷間世代」問題に向き合おうとしているように見えてしまうのです。

     以前、「給費制は二度死んだ」と言った小林正啓弁護士の、ブログでの指摘の重みを改めて感じます。

     「裁判官・検察官であろうが、弁護士であろうが、『国家事務を行うものである』という点において同一である以上、その育成に等しく国費を投じるべきである、というのが、給費制の精神であった。この精神からは、弁護士の職務は裁判官や検察官と違って公益的ではないとか、弁護士だけが職務以外に社会還元活動をやらなければならないとか、いう結論は絶対に、金輪際出てこないのである」
     「もとより私は、給費制復活に費やした日弁連幹部の努力を否定するつもりはない。しかし彼らが、給費制の復活という目先の目標を獲得するために、給費制の精神を自ら放擲したことは、指摘しなければならない。そして、給費制の精神を放擲したことは、統一修習の精神も放擲したことを意味する。同時に、裁判官や検察官と、本質的に同じ仕事をしているのだという、弁護士の矜持をも打ち砕いた」(花水木法律事務所のブログ)

     この本質論が欠けたところで処遇されなかった「谷間世代」に対して、まさに目先の「救済」を模索しているのが、今の日弁連ではないでしょうか。本来問題は、「救済」ではなく、「清算」である、と言った人がいましたが、初めからそうした発想が出てこないのは、まさにこの現実につながっているととれます。

     今の、日弁連は本来の給費制から、遠く離れつつあります。その距離感は統一修習へのこだわりとの間のそれと一致し、まして法曹一元など、もはやさらにそのずっと向こうに離れてしまったと見なければなりません。


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    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


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