ぼやけた弁護士「足りない論」

     弁護士の増員必要論には、なぜかずっと、もやっとした不足論がつきまとってきたという印象があります。「就職ができないほど過剰ならば、なぜ増やすのか」と弁護士界外の人間から尋ねられる度に、本来、そのかっちりした解になるはずの「足りない論」の不透明感に改めて気付かされもしてきました。

     例えば、当初、官側が強調し、弁護士会内でもいわれた、弁護士偏在解消のための増員必要論にしても、偏在の根本原因は地方の需要であり、需要がないところに弁護士がいないだけ、ということは、会内でつとにいわれてきました。偏在が存在していても、増やせば自然に人がそこに流れて解消するということではなく、また、それを支えるのは有志の精神だと多くの同業者は分かっていた。つまり、その解消が必要であっても、「足りない論」から導かれるものではない、ということが容易に導かれていたのです。

     また、耳にタコができるほど聞かされてきた諸外国に比べて、日本の弁護士が少ないということも、各国で司法が現実にどのように機能し、国民がそれをどうとらえてきたか、ということ抜きに比べることへの疑問も加え、日本で法的ニーズの受け皿となる隣接士業の存在を加味しないような分析に、すぐさま疑問の声が上がってしまい、「足りない論」の根拠をぐらつかせることになります。

     局所的な「足りない論」も、ずっと言われています。企業、国際分野、自治体でニーズに応える人材、刑事弁護、離婚、あるいは交通事故案件といった弁護士の取扱案件ごとに「まだまだ」と強調する「足りない論」がいわれてきました。ただ、常にそれがどの程度の不足なのかはぼやけていて、そもそも母数を大幅に増やさなければならないことなのか、という疑問が消えません。

     そもそも母数を増やさなければ増えない、というのは、実は弁護士の増員には、不思議なくらいつきまとってきた発想といえます。企業系の弁護士のなかにも、人権派のなかにも、そういう形で自らが求める人材獲得を、全体の増員と結び付る人たちがいましたし、前記偏在解消が有志の精神で支えることが分かっている人のなかにも、そういう発想の人がいました。

     しかし、これは見方によっては、消極的アプローチといっていいくらい、非効率で不確実な方法であり、かつ、母数をどうやって支えるのか、支える必要がないという前提に立つのか、といった疑問がすぐさま浮上するものです。これの発想が非効率であり、また、全体を持ちこたえられないために問題か発生するということは、当初の増員政策の破綻が明らかになったときに、弁護士会内を含め、推進派がこぞってミスマッチ論を強調した時点で、もはや分かったはず、といっていいもののように思えます。要は、求められたのは「足りない」の前に、どうマッチングするかで、さらにそうだとすれば、必要なのは激増なのか、ということになるのです(「決別すべき『弁護士不足』論の発想」)。

     弁護士会のなかの増員反対・慎重派のなかでも、当初、完全な増員不要論者の方が少なかったといっていいかもしれません。なぜ、ここまでの激増が必要なのか、なぜ、増員ありきで、少しずつ影響を検証しながら、必要ならば増やすという方策がとれないのか、という意見の人は多かった。初めから「足りない」論に立った全体の激増ではなく、マッチングを考えながら増員の程度を考えていくという発想ならば、ここまで増員をめぐる会内の対立的世論状況は生まれなかったかもしれません。

     「足りない論」は、厳密にいえば、「足りなくなる論」としても言われました。不足する未来を描く推論のもとに、いわば準備しなければ大変なことになるという話です。しかし、これも結果からすれば、なぜ、それに多くの弁護士が乗っかってしまったのか、と疑問に思うほど、中身は漠としています。「事後救済社会の到来」「二割司法」といった司法改革ワードは、弁護士が必要とされる、あるいは、必要とされるべき未来を連想させましたが、いまやそれは何だったのか、という疑問が呈されています。

     さらに、弁護士界にあっては、「法曹一元」という悲願が「足りなくなる論」に被せられたことも指摘しておかなければなりません。「改革」が悲願実現の千載一遇のチャンスととらえた方々のなかには、本気で弁護士が裁判官の給源になる未来のために、増員は不可避と考えた人もいたのです。これまた、いまやあれは何だったのかといわれるほど、もはや「法曹一元」そのものが夢のように消えてしまっているのです(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。

     弁護士増員政策は、当初、国家も政治家も経済界も、「足りない論」に乗っかって、こぞって推進した、ととらえられています。ただ、一方で、国家も政治家も経済界も、本質的には弁護士が増えることを手放しには歓迎していない、ということがずっといわれてきました。つまり、法的に理論武装した弁護士たちという存在は、時に政策や制度構築を目指す国家と政治家には疎ましく、また、消費者側に立って企業を訴える弁護士たちの登場と濫訴社会の到来は、経済界にとっては悪夢なのだ、と。

     では、なぜ、ということになれば、一つの推測が成り立ちます。つまり、彼らは、この「改革」の増員政策の先に、そうした不都合な未来が到来しないことを見切っていた、見切っていたからこそ推進派に回ったということです。経済的に追い詰められることになる弁護士たちは、もはや自らの生活でいっぱいになり、反権力対国家のエネルギーを失い、また、単に弁護士を増やしただけでは、経済界を脅かすような濫訴社会など、この国には到来しない、と。

     もちろん経済界は、前記したような母数論に立ったとしても、関心はあくまでマッチングの方であり、必要な人材を必要なだけ確保できることが目的ですから、その目的が達成できるのであれば、ハナからそれ以外に関心はなく、無論、責任を負うつもりもありません。

     ただ、それにとどまらず、国家も政治家も経済界も、前記した自分たちに不都合な形ではなく、むしろ、都合のいい形に弁護士そのものを変えられる未来を、この政策の先に読みとったのではなかったのか、ということを考えてしまうのです。根拠がぼやけている弁護士「足りない論」の向こうには、そうした思惑までが薄らと浮かんでくるのです。

     弁護士の数が今月4万人を突破したことが報じられています(毎日新聞1月26日付け) 。ぼやとした「足りない論」を引きずりながら、弁護士の激増政策は依然続いています。


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    弁護士の「生存」と「改革」の価値

     いうまでもないことかもしれませんが、「改革」の結果をもろにくらっている現在の弁護士たちが、いかに生存していくか、という問題と、これから弁護士がどうあるべきか、という問題は、残念ながら一致しない、必ずしも同じ解決策が導き出されるとはいえません。

     例えば、業界として最も深刻に受けとめられるべき志望者減にしても、現在の経済状態でも、弁護士は生存できるということを既存の弁護士が証明すればよし、と考える人もいるかもしれませんが、それが志望者にとって人生をかけるほどの魅力ある資格になることとは限らないし、また、そうした状態の弁護士そのものが、社会にとって「改革」以前より有り難い存在になった、とも限らない。

     そもそも既存の弁護士のなかには、「目的が違う」と言う人がいてもおかしくありません。彼らは正当に生きる権利を主張し、「改革」の結果も受けとめて、それならば業務も生きるために改善し、かつ、日弁連・弁護士会に対して、これまでのようなわけにはいかない、という欲求を強めるているといっていいかもしれません。

     しかし、有り体にいえば、こと志望者減については、資格そのものがかつてのような輝きを復活できなければ、かつてのようにはならない。こんなにたくましく生きている弁護士がいます、という発信や、「生存バイアス」的な「成功者」にスポットを当てることで、一定のチャレンジャーを確保できても、それがかつてのような多くの志願者の動機づけになるともいえません。他の進路の選択肢を前に、かつてのように輝いていた資格の安定性が失われていれば、前記発信者側の狙いとは裏腹に、その効果は限定的にならざるを得ないでしょう(「『改革』と弁護士の『リアル』」)。

     そして、これそのものが「改革」推進論者がいう、社会に利をもたらす「淘汰」(こういう生存環境に耐えられた弁護士だけが弁護士でいられ、かつ、そうした人材だけがやってくる、それが弁護士の良化につながるという意味で)でないとすれば、つまり、「改革」の想定外の結果(需要が顕在化しないなど)から仕方なく起きている結果に過ぎないとすれば、では「改革」によって弁護士と市民の関係は、一体、どこかどうよくなっているのですか、ということを問わなければならないのです。

     弁護士の数の問題は、本来、とてもシンプルな問題のはずでした。つまり、足りなければ増やし、足りていれば増やさないだけ。このことは、今でも弁護士会外の人間には、不思議がられます。弁護士数が過剰だというのならば、増員政策を続けなければいいじゃいか、なぜ、それでも弁護士を年間千数百人増やし続けているのかと。そもそも足りないというならば、検証しながら少しずつ増やしていく、ということも出来たはずなのに、一気に増やすことが選択されたのが、今回の「改革」路線です(「『合格3000人』に突き進ませたもの」)。このこと自体、妥当性が問われていいことですが、現在はさらに、その結果が出ている段階なのです。それでも続いていることが、問われるのは、ある意味、当然といわなければなりません。

     先般のエントリー(「『生き残り』策に引きずられない法科大学院中核論」)でも引用した「変貌する法科大学院と弁護士過剰社会」(花伝社)のなかで、著者の森山文昭弁護士は、毎年減っている弁護士数にあわせ、まずは当面、司法試験合格者数を年500人程度に戻すことを提案しています。いったん増加を止め、それで足りなければ、現実の需要に合わせて増員を検討する形に転換すべき、というのです。

     彼は増員論の最大の問題は「増員=善」として、増員そのものが自己目的化したことにあり、司法制度改革審議会の議論はその典型としています。そのうえで、こう言います。

     「増員すること自体が正しいのだから、その足を引っ張る(と増員論者からは見える)人に対しては、『エゴだ』『ギルドだ』『守旧派だ』と、口をきわめてののしることになる。しかし、必要以上に弁護士が増えることによって国民にどのような迷惑がかかるかを真剣に考えないで、ただ時流に乗って『増員だ』『増員だ』と叫ぶ人の方が、よほどエゴではないかと私は思う」

     前記生存のために、現実を受け入れて道を模索している弁護士たちの多くも本音では多分、この森山弁護士の意見に同意すると思います。この提案が実現されれば、冒頭の二つの問題を解決する、あるいは唯一の解になるかもしれません。ただ、そんなことはもはや言っていられない、簡単には現状は変わらないし、もたない、という本音もあるようにみえます。既に存在している法科大学院の存在、そして、依然として、森山弁護士のいうような視点で「改革」路線を見直そうとせず、増員基調を認めている日弁連の現実は、よりそれを踏まえた方向に弁護士を進ませているのです。

     しかし、これは全体として、市民にとっても志望者にとっても、有り難い方向に進んでいる話なのでしょうか。「改革」によって、どこがどうよくなったのか、よくなろうとしているのか、という、その「価値」について、やはり今、私たちはこだわるべきです。


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    弁護士「心得違い」論に対する姿勢

     今回の司法改革が、この国の弁護士について浮き彫りにしたものの一つとして、弁護士に対する「心得違い」論の根深さがあるように思えてなりません。端的にいえば、弁護士の姿勢批判というべきもので、弁護士自身の姿勢転換の決断ひとつで、事はどうにでもなる、社会が利益を得る方向で改善し得る、という見方です。

     そもそも「改革」は、マスコミの取り上げ方も含めて、そうした期待感を煽るものであったことは事実であり、さらに弁護士会内の「改革」主導層自身が当初、まさに弁護士の「改革」を「登山口」「一丁目一番地」といった、自省的な受けとめ方をしたことも、そうした方向に拍車をかけた、といえます。

     そして、「改革」のなかでの、彼らの自省的な受けとめ方の典型が弁護士増員の必要性に対するものでした。弁護士の数は決定的に少ない、そしてそのうえで、弁護士は社会の役に立つための積極的な姿勢を怠ってきた――。こうした反省は、「改革」に協力する弁護士の謙虚で、積極的な姿勢として、「改革」主導層は打ち出していました。その背景には、これまで在野法曹として「市民の味方」を自認していた彼らが、規制改革論議のなかで、予想以上の「市民側」論者の批判にさらされたショックもあったともいわれています。

     既にその段階で、「心得違い」論の根深さは存在していたとみるべきだった、といえるかもしれませんが、皮肉なことに彼らの「改革」のなかでの自省的な姿勢は、一定限度「心得違い」論を認めたことにより(というよりそういう形になり)、結果的にその方向を強めたようにとれます。

     増員必要論と結び付けて、盛んにいわれ、弁護士会自身が、いわゆる「ゼロ・ワン地域」(弁護士がゼロが一人しかいない司法過疎地)解消として掲げた、弁護士の偏在問題にしても、弁護士増員政策の足を引っ張っているように言われてきた、訴訟偏重批判を含む業務とニーズのミスマッチも、さらにそもそも増員政策自体に対しての会内の慎重論・反対論に対していわれる自己保身論(競争を排除する地位維持のための供給制限志向という見方)にしても。弁護士の考え・姿勢が改められれば、すべて問題は解決する、という、イメージしやすい単純化が、まさに「心得違い」論の本質です。

     そこには、不思議なくらい強制化の発想が絡んでいます。弁護士の「心得違い」は強固であり、彼らを追い詰めなければ現状は変わらない、重い腰を上げないという捉え方で、これは会外の弁護士増員必要論と強く結び付いていました。弁護士を増やせば食えなくなった弁護士が、いやでも過疎地である地方に流れ、嫌でもこれまで手を出さなかった案件を手掛けるはず。そして、嫌でも競争のながて、費用の低額化も図るはず。「コップの水が溢れるように」という表現を使った人もいましたが、増員によって弁護士が追い詰められる先に、社会、利用者にとって、いいことづくめのことが待っているという描き方です。

     いまさらいうまでもないことかもしれませんが、現実はそうではありません。過疎地に弁護士が行っても当然、経済的な支えがなければ成り立ちません。そもそも経済的な妙味があれば、そこは過疎地になっていないということを考えもできます。弁護士があたかも贅沢を言わず、ハードルを下げればいい、そこまで追い詰めればよし、というのは、常識を無視した無理に期待する話だったといえます。

     現に、「ゼロ・ワン」地域は解消されたという人がいますが、それは食えなくなった弁護士が地方を目指したことによるものでは決してなく、有志の精神といってもいい自己犠牲によるものです(「弁護士過疎と増員の本当の関係」)。

     前記ミスマッチ批判にしても、低額化への期待感にしても、弁護士自身が成り立つ採算性を度外視するところに、根本的な誤解が生まれているといえます。皮肉なことに弁護士側の自己犠牲的な受けとめ方や、あるいは公益的自覚が、この誤解を助長してきた面も否定できないように思います。努力する、という前向きな姿勢が、期待にすべて応えてくれる、まるで「心得違い」論の正しさを裏付けているようにとらえられ、肝心の自営業者として当たり前の採算性についての視点を後方に押しやってきたといえないでしょうか。

     「弁護士激増政策は、弁護士過疎偏在対策としても失策だったのでは?」。最近、白浜徹朗弁護士が自身のブログ(「白浜の思いつき」)で、こんなタイトルの一文を掲載しました。前記「ゼロ・ワン」地域の解消は、法科大学院の卒業生が弁護士になるころには、ほぼ解消されており、少なくとも法科大学院制度によって解消された事実はない。最近の2年間の会員数の少ない函館から茨城県までの33弁護士会の会員数の増加比率は、弁護士全体の増加比率を下回り、一時期顕著だった小規模弁護士会での弁護士の増加は既に頭打ちの段階にはいっている現実を伝えたうえで、次のように述べています。

     「過疎地に育った者としての感覚としては、過疎地に人がいなくなるのは、経済活動の低迷、つまりその時代の平均的な要求に見合った収入を得られる仕事が確保できないことに主因があると思っているが、そのような過疎地に弁護士を赴任させようとした場合、経済的に安定するだけの仕事があるかどうかが決定的に重要ということになろう」
     「ところが、ゼロワン地域の解消が進んだ頃には、人口過疎地でもいわゆる過払バブルがあってひまり公設事務所でも経営は安定していたものの、この過払バブルがはじけた後は、人口過疎地での弁護士の仕事の確保はかなり厳しくなっているように私は理解している。そうなると、あえて過疎地に赴任しようとする弁護士が減っていくのは自然の流れということになる」
     「弁護士急増政策は、市場調査なしに実施されたために、弁護士1人当たりの仕事や収入を大きく減らす結果をもたらしてしまったが、そのことは、仕事があるかどうかもよくわからない過疎地への赴任者を減らす結果につながったのではないかと私は推測している」
     「数さえ増やせば、過疎地に弁護士が増えるだろうというような乱暴な政策では、過疎地の法的ニーズに対応することはできなかったということではなかろうか」

     地方を中心とする弁護士会や、それに動かされた国会議員が「『職がない』などというデマまがいの宣伝を繰り広げている」などとして、法科大学院制度を中心とした「改革」路線維持と、弁護士の「心得違い」論を結び付けているようにとれる論調は、「改革」が結果を出している現段階でも存在しています(「ロースクールと法曹の未来を創る会」の「司法試験の合格者決定について要請」)。しかし、弁護士は、自らに向けられる「心得違い」論に対しても、現実的に実現不可能な、「あったらいいな」的な期待感に対しても、もっとずっと前に言うべきことがあった、「やれないことはやれない」と言うべきだったのではないでしょうか。

     弁護士の増員基調が続く中で、こうしたことに対する「改革」のスタンスを、基本的に変えていないようにみえる弁護士会主導層は、まず、そのことをしっかりと受けとめるべきです。


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    「町弁」衰退がいわれる「改革」の正体

     いわゆる町弁(マチベン)の衰退がいわれ続けています。業界内でも、その将来性についての悲観的見方は強まる一方にみえます。「改革」の増員政策の影響が直撃したのが、この町弁であるという見方も、いまや弁護士のなかでは一般的です。増えても需要は増えない「改革」の結果は、この仕事で従来主流だった個人開業型の弁護士モデルにとって、最も酷な経済環境をもたらした(「『自由業』弁護士の終焉」)。そして、その中からは、事務所維持のために、依頼者のおカネに手をつけてしまう弁護士まで生み出し、日弁連が頭を悩ます状況まで生まれました。

     いまや将来性、安定性という観点から、企業や官庁で働く組織内弁護士(インハウス)だけが、残された期待のようにいう業界関係者は少なくありません。町弁―インハウス間の相互乗り換え(転身)は、それぞれ弁護士としては、技術的にも精神的にも(受け入れる企業側のハードルも含めて)楽ではない選択ですが、町弁からインハウスへの転身の成功例があると、いまや一部同業者からは羨望のまなざしがおくられ、話題になるのが現実です。

     これは目を離してみれば、不思議な現実です。市民の最もそばに寄り添い、その法的な問題に対処する、それこそ「身近な」存在であるはずの、町の弁護士が、「市民のため」「身近な」存在になることを、繰り返し表明して来た「改革」によって、いまや消えゆく立場に立たされているという現実です。あれほど繰り返し前記「改革」の目的を唱えてきた弁護士会の「改革」主導層が、この現実に危機感を示すどころか言及もせず、インハウスの将来性を社会にアピールしているようにみえるのは、どういうことなのでしょうか。

     弁護士会のなかでは、この点に関して大きく二つの捉え方をしている弁護士に出会います。最も多いのは、「ご時世」として諦めている人。もはやこうなってしまった以上、仕方がない。なんとか転身を考える人もいますが、それが不可能であれば、とにかくなんとか生きのびるしかない。ただし、そこではキレイごともいっていられない。これまて以上の採算性の追求はもちろん、生き残るために「受けられない」案件、要はカネにならない案件は、これまで以上に意識させてもらう。弁護士会活動にも距離を置いたり、法テラスにも協力しないという方向も、ここから生まれています。

     もう一つのタイプは、あくまで楽観的、あるいは建設的なポーズを維持しているようにとれる人。「改革」推進派や弁護士会主導層に多く、前記したようにこのことそのものへの危機感がなく、なんとかなるという見方で、インハウスの可能性を強調したりする。前者の立場の同業者を「悲観論者」とし、「もっと将来性を語れ」と言ったりする一方、前者の弁護士たちからは彼らが、「自分たちの経済的安定を確保できている人間たちのセリフ」(要するに他人事)と揶揄されたりしています。

     ただ、「改革」の結果登場して来た、この両タイプとも、市民にとって直ちに有り難い存在の弁護士とはいえないということも押さえておく必要があります。

     需要がない、需要を生み出せない仕事なのであれば、消えればよし、もしくは消えても仕方がない、という自由競争では当たり前の考え方を当てはめれば、増員するほど、この国には需要はなく、あるいは生み出せもしない、存在が消えること自体、問題ない、という片付け方もありそうです。だとすれば、残る問題は供給のミスマッチだけで、必要なタイプの弁護士を増やせばよいだけなのだ、と。

     あえていえば、今回の「改革」が初めからそういう発想で議論し、スタートしているのであれば話は違ったようにも思います。増員政策も新法曹養成も、本当に増やすべき対象、増やしても経済的に成立するであろうタイプの弁護士を限定していれば。もっとも、そういう発想であれば、年間3000人などという激増政策が掲げられることになったかも疑問です。

     全体を増やさなければ、良質なものは確保できないといった、いわゆる「裾野論」(「弁護士増員の規模と期待への『反省』」) や、「二割司法」に象徴されるような、有償無償の区別のない膨大な潜在需要論の前に、とにかく増やせという増員ありきと、それを支える量産機関として、新法曹養成の中核たる法科大学院制度も導入されたのです。

     増員しても需要が生まれないことが表面化すると、弁護士会内推進派からも前記ミスマッチ論がまるで路線維持のための弁明のように繰り出されました。だが、気がつけばいつのまにか、「市民のため」「身近」という「改革」アピールからイメージされていた町弁の存在はかすみ、それこそ今でも時々、引き合いに出される弁護士一人当たりの人口、といった切り口の意味も、よく分からなくなってきたというべきです。

     会外からは、つとにこのミスマッチを、訴訟偏重の従来スタイルから脱皮てきない弁護士の問題という扱いになり、明らかに見通しが外れたはずの、会内推進派のなかの人間までが、この論に乗っかって弁明しているのを見ます。

     しかし、こだわるべきは、本来、そこだけではないというべきでしょう。「市民のため」の「改革」がイメージさせたものはどうなってしまったのか。何が今、期待できて、何を期待すべきでない(なかったのか)。そして、この町弁が結果的に消えてゆく、「市民のため」の「改革」の結果は、どこまで市民にとって有り難い話なのか――。そろそろ、それをはっきりさせるべきです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    議論すべきことを遠ざける「改革」推進派論調

     「弁護士報酬お布施論」といわれても、知らない弁護士はいまや多くなっているようです。「ミスター司法改革」といわれた、故・中坊公平弁護士が提唱し、その後、弁護士会のなかでも、現実離れ論の代表格のような扱いをされてきた論です。当初の「改革」論議そのものを知らない弁護士が増えているなか、それが言われたという事実を知らないのは当然ですが、はじめから弁護士は専門サービス業であると認識して、この世界に来た人からすれば、この字面で想像しても、どうすれば弁護士報酬を「お布施」にすることができるのか、それがピンとこなくても、何もおかしくありません。

     この「お布施論」が、「改革」の弁護士増員政策めぐる論議のなかで出されたことには、ある意味があったのではないか、ということを以前書きました。弁護士に競争とサービス業化をもたらした「改革」の現実からすれば、およそ「聖職者」意識を求めるような同論は真逆の発想。「改革」がサービス業化を押し付けながら、一方でサービス業としては当たり前であるはずの「対価」という発想を否定するような発想には、今、思えば明らかな矛盾がありました。

     ただ、中坊氏が、あえて矛盾ともいうべき「お布施」論を提示してみせたのは、サービス業化という「改革」の現実、あるいは多くの弁護士にとって「改革」への抵抗感につながりかねない、その現実に対して、極力違うイメージを付与しつつ、当然予想される拝金主義化の懸念から目を遠ざけるようとしたのではなかったのか。要は、弁護士激増政策を会内向けに飲ませるためのものだった、と(「弁護士報酬「お布施」論の役割」)。

     「改革」増員政策の結果が徐々に明らかになって、ほどなくこの論は、多くの弁護士から、いわばキレイごととして、総スカンをくらうことになるわけですが、当初、「改革」推進派の人たちの中で、知っていたか知らないかはともかく、前記矛盾を指摘した人は私が知る限りいませんでした。

     一方で、中坊氏の当時の発言をみれば、増員政策に対して会員の抵抗感をなんとかしければならない、という意識が強くありながら、彼は結果的に「改革」の影響も、それに対する会員の不満も甘く見積もっていた、といえます。増員政策を飲ませるために繰り出された論が、本来サービス業化が進むなかで弁護士が生き残るためには、むしろ当初から議論されなければならなかった「対価性」という観点の議論を遠ざける役目を果たすことも、見通せなかったといわなければなりません。

     そして、さらに付け加えるのであれば、「市民のため」という「改革」を提唱する側にありながら、今思えば、本当に市民が見えていたのかという気がするのです。「お布施」という感覚に直結するかどうかはともかく、弁護士利用者のなかには、本当に「ありがたい」と手を合わせるように、弁護士に感謝のおカネを差し出す人もいるかもしれませんが、それはあくまで結果次第。利用者が弁護士に差し出すおカネが常にそんなものではないことは、ほかならない弁護士が一番分かっていたはずです。

     あえていってしまえば、報酬が「お布施」という位置付けになって、喜ぶ市民の感覚があるとすれば、いわばそれによって、弁護士から高い請求を受けなくて済むようになるかもしれない、という期待感につながるものではないでしょうか。

     結局、多くの利用者市民は、弁護士に払わなければならないおカネが、「お布施」になるなどとは土台思っておらず、当然、高い請求を覚悟している。むしろ、弁護士会外の増員論者がにおわすような、弁護士が増えて、競争が起こり、廉価競争と価格破壊が起こる方が、「改革」への期待であっておかしくない。だからこそ、弁護士会の「改革」推進論者は、「お布施で結構」という話よりも、むしろ報酬がきちっとした「対価」であることと、増員をしても廉価競争は期待できないことの方をはっきりと示すべきだったと思うのです。

     法科大学院制度を中心に、司法試験の内容・合格率をそれに合せることや、弁護士増員政策の堅持を訴えてきた弁護士らのグループ「ロースクールと法曹の未来を創る会」(「Law未来の会」)が、7月20日付けで法務大臣と司法試験委員会委員長に、昨年1580人だった司法試験合格者を、今年は「少なくとも2100名程度」にすることを求める要請文を提出した、という情報が流れています。今のところ、同会のホームページでも、この要請文は公開されていませんが、弁護士ブログである「Schulze BLOG」が全文を公開しています。

     あくまで法科大学院制度の存続を軸に、現実をそちらに合せろ、という方向の訴えをしてきたグループですから、とにかく合格させろと、彼らがいうこと自体は、新味もなく、驚くことではないかもしれませんが、弁護士過剰状態が弁護士という仕事の経済的妙味を奪い、それが法科大学院にとっても死活問題であるはずの志望者獲得を遠ざけていることがはっきりしていながら、なお増やせ、増やせば活路が見出せる、という発想は、さすがに理解できません。いうまでもなく、増やせば、弁護士はさらに経済的なダメージを受け、仕事につけない資格者も生み、ますます、志望者はこの世界から遠ざかるだけだからです。

     ただ、この一文には、司法試験の合格判定、要はそれが、合格数が少ないという方向で不合理であることをいう文脈で、「社会が求めている」もののとして、次のような下りがあります。

     「法務省と司法試験委員会がこうした不合理かつ不当な合否判定を行っている理由は、『職がない』などというデマまがいの宣伝を繰り広げる地方を中心とする弁護士会と、それに動かされる国会議員の意向を受けてのことと思われるが、これは現実の国民や企業の要請と真っ向から矛盾し、『反国民的』と言っても過言ではない」
     「このことは、内閣官房法曹養成制度改革推進室が一昨年4月に発表した『法曹人口調査報告書』によれば、国民の8割が『弁護士の知り合いがいない』と回答し、『弁護士に依頼したいと考えたことがある者』の3分の2が、『弁護士の探し方が分からない』などの理由で弁護士に依頼していないこと、大企業でも弁護士資格を有するものを雇用しているのが僅か13%に過ぎない反面、弁護士を募集した企業の3割が、『応募がなかった』と回答していることにも示されている」

     そもそも弁護士の数を増やさないことを、当の国民が「反国民的」だと思っているのか、という点で、この認識にはずれがあるようには思いますが、この文脈で「証拠」として示さていることは、果たして増員が社会的要請であるとつなげられることでしょうか。弁護士の知り合いがいない、頼みたくても探し方が分からない、大企業で雇用しているところがまだ少ない、募集企業にも応募がなかった、だから、増やせ、増やせば解決するという、ことになると本気で考えているのでしょうか。

     こういう事実があったとしても、増やせば社会がおカネを投入する用意があるとは限らない、肝心のことが担保されなければ、増員弁護士は支えられない――。「改革」が明らかにそうしたことを示す結果を出していながら、延々と同じ過ちを繰り返す議論を繰り出さそうとするのは、どういうわけでしょうか。

     それは、「改革」路線に不都合な議論を結果的に回避し、内向きに納得させようとするような、前記「お布施論」と同様の虚しい発想が、推進論者のなかに依然として存在していることを示しているように見えてならないです。


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    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


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