弁護士への市民理解という課題

     依頼者市民の弁護士に対する不満や不安の声のなかに、自分の弁護士が「何をしてくれているのか分からない」という趣旨のことを聞くことがあります。自分の弁護士が、自分のために、一体どういうメリットのある活動をしてくれているのか実感できない、ということです。

     基本的なことをいえば、専門的知識や司法の現実を知らない依頼者が、弁護士が自分のために本来すべきことをしていないという点、つまりは「何をしていないのか」を把握するのには、そもそも困難が伴います。これは、ある意味、市民にとって、弁護士という仕事が他のサービス業と比べて格段に違うところともいえます。弁護士の競争による淘汰を成り立たせようとする論調は、まず、この困難を軽く見積もりがちです。

     情報提供といっても、それを主導するのは当該弁護士自身であるし、それに対して依頼者市民が客観的に、その活動の粗を突くような対応を、適切に行うのは難しいし、他の弁護士の知見を参考にするといってもそれが果たして正しいかもわからず、また大変な労力もかかります。

     それだけに、というべきか、「何をしてくれているのか」のメリットは、依頼者側が弁護士をサービス業ととらえるほどに、積極的にこちらにアピールされていい、という捉え方がされがちです。この点には弁護士側の積極性や説得する力にかかっている部分も確かにありますし、弁護士側の「できるだけの努力」という話になります。また、こうしたテーマになると、ここは依頼者と弁護士の「協働」関係の構築ということが、弁護士会サイドでの落ち着きどころともなります。

     ただ、こうしたことが繰り返しいわれても、残念ながら、依頼者の中の弁護士に対する不満・不安に大きな変化が起こっているわけでもありません。それは、ある意味で「前提」となるような弁護士という仕事に対する本質的理解が進んでいないからではないか、という気持ちにどうしてもなってしまうのです。そして、それは「改革」のなかで、望ましい発想のようになってきた個々の弁護士のサービス業としての自覚という流れのなかで、むしろ置き去りになっているようにもみえるのです。

     弁護士の倫理を規定した行動規範といえる弁護士職務基本規程の21条は「弁護士は良心に従い、依頼者の権利及び正当な利益を実現するように努める」とする一方で、20条では「弁護士は事件の受任及び処理に当たり、自由かつ独立の立場を保持するように努める」としています。同規程にかわる前の弁護士倫理にも同様の規定があり、度々議論に取り上げられてきたものですが、依頼者にとっての弁護士理解という意味では、根本的な問題になる条文といえます。

     議論されてきたことではありますが、よく言われることは、弁護士が20条の「自由かつ独立」の立場で、適正で妥当な紛争の仲裁を求める姿勢が、仮に彼のなかで21条の「依頼者の権利及び正当な利益」実現と矛盾なく存在していたとしても、依頼者にはそうとれない、100%自らの権利・利益実現に立っていないととられかねないという問題です。依頼者側の不安・不安に直結している点ともいえます。

     依頼者の意思に対する干渉という捉え方で是非を論じる向きもありますが、100%依頼者側に寄り添うといっても、司法という舞台での最良の解決として、説明・説得によってそれは正当化される、というか、それしか解決の道はない、という見方もあります。ただ、むしろここで言いたいのは、そもそも弁護士とはこういう厄介な存在なのだ、ということそのものが、社会に理解されているのか、という点です。要は、一サービス業ととらえる流れのなかで、この厄介さ、つまり弁護士との付き合いは簡単ではない、という理解がむしろ落っこちていないかということなのです。「気楽に」「何でも」弁護士へ、というアピールになっている弁護士会広報も、その意味ではこうした関係性を安易に捉えられる素地を作っていないか、という気もしてきます。

     弁護士という仕事への市民の理解は、むしろ刑事弁護で時に露骨に辛辣に取り上げられてきました。「弁護士は社会的な悪の擁護もする」、さらには、「カネさえもらえば」という前置きまで付く。いまだに「なぜ、弁護士は」という疑問符がつくレベルが一般的という見方もできなくありません。

     「福岡の家電弁護士のブログ」は最近のエントリーで、いまだにこうした理解は、「捕まっている=悪いヤツ」という前提があるからであり、この前提が市民から拭い去られない限り、弁護士が悪者とは限らない被疑者を弁護する活動に予算をつけるなどということに、市民的理解が得られるとは、到底思えない、として、こう続けます。

     「弁護士(会)は、昨今盛んに広報や業務拡大を叫びます。しかし、そんなことより、こういう前提を拭い去るような地道な活動(一例として法教育など)をしっかりとやること、そしてそれが効果を生むために、弁護士はしっかりやってるんだということを、わかりやすく伝えることのほうが重要じゃないかと個人的には思います」

     やはり弁護士・会は、弁護士理解の「前提」となるものから伝えていくことに目を向ける必要があります。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    利用者の「疑念」と「妄想」

     弁護士や司法の利用者の話のなかには、しばしばそれらに対する強い不信感が登場します。そして、その多くは、全体的な社会的信用度にかかわるものというよりも、自らの不利な状況が、かかわった弁護士、裁判官らの癒着や不正に起因しているという疑念に基づくものととれます。まるで自分を陥れる大きな陰謀が、彼らのなかでめぐらされているといった調子のものもあります。

     民事裁判で自分側の弁護士が、相手側弁護士や当事者と通じて、自分を不利に陥れているといった利益相反的なものや、さらにそれに裁判所が一枚かんでいて、三者の癒着構造が、訴訟手続き上も判決においても、今の自分の悪い結果をもたらしている、という疑念はとても一般的です。さらに、判決そのものが偽装・捏造され、別に本物の判決が存在するということを固く信じて疑わない人もいます。

     弁護士に聞けば、本音として、そうした「妄想」に近いものを持ってしまう依頼者・市民とは付き合いたくない、極力かかわらないというものが返ってきます。そうした「妄想」の手強さを体験したことがある弁護士も少なくなく、誤解を解くことは不可能に近い、ととらえていたり、相手にする余裕はない、という受けとめ方もあります。

     もっとも、すべての陰謀は、「そんなことあり得ない」という、疑惑に対する、社会のいわゆる「陰謀論扱い」によって救われ、そこに逃げ込めることによって、まんまと成就するものとは思います。その考え方からすれば、彼らの疑惑を常に頭から否定するわけにはいきません。ただ、その一方で、「疑惑」を固く信じている人は、それ以外の可能性について、往々にして耳をかさなくなるという問題があります。それらの否定論を踏まえて、なお、疑うに足る理由をみつけようとする努力をしないのです。それでは、弁護士ならずとも、第三者に「妄想」扱いされても仕方がないかもしれません。

     癒着構造の根拠になるのは、いうまでもなく、人的なつながりで、同一の出身大学の先輩、後輩、同輩であるとか、所属弁護士会、会派、さらにそれ以外の各種所属団体や地域などの同一性。弁護士、裁判官も含めて、そこに圧力、口利きが働くような力学が存在するという見方です。大企業と個人間の紛争では、さらにそれを利用する大企業の「裏の手」が被せられます。

     確かに、そういうつながりが作用する場合が全くない、とはいえません。現に顔が見えるような小弁護士会の人的つながりや、そこの行政相手のケースで、その行政との地域的なつながりや現実的なかかわり濃淡によって、受任を回避するという傾向が存在したことを知っていますし、その場合、そういうかかわりを回避するために他県の弁護士を探すということが行われてきた実態もあるのは事実です。もちろん、すべての場合に反論は用意されるはずですが、少なくとも「癒着」ととられても仕方がない状況がないとはいえません。

     ただ、一方で疑念の当事者のなかには、なぜ、一民事事件でそこまで人的つながりを総動員した「陰謀」が、彼らにとってのどういうメリットのもとに繰り出されているのかについて、その不自然さ、極端さを全く考慮しないものが多いことも、また事実です。そこでは、やはり行き場のない、根本的な被害者意識の矛先が、まず、そこを既定事実として向けられてしまっている観があります。大企業が相手の場合、そこに有形無形のメリットを描き込むのは容易である面もありますが、その意味で、彼らこそ反証するような疑いの目をあっさりと放棄してしまうところが決定的に存在していることは否定できません。

     では、彼らの「疑念」のすべてが弁護士として見放すしかない「妄想」、この仕事に付きまとう宿命として受けとめ放置するしかない、という結論でよしといえるのでしょうか。この疑念には、例えば、口頭弁論の前の弁論準備手続きを、まるで専門家による談合のような場にとらえていたり、水面下で両当事者の弁護士が和解の落とし所を探る行為、さらにそれをもとに相手側にではなく、こちら側を説得するような姿勢を専門家の慣れ合いととらえる見方がくっついていたりします。さらには、懲戒請求に対して弁護士会の結論が甘く、身内のかばい合いという土壌があるといった「情報」も彼らの耳には入っています。これらが、すべて彼らの疑念を駆り立てる方向に作用していることに気付かされるのです。

     これらに、もし、決定的な利用者側の制度に対する認識不足があるのであれば、少なくともそこはなんとか出来ないでしょうか。事案そのものについても、それこそ受任や弁論準備の段階で、依頼者の願いや主張のなかで、何が法律問題で、何が司法的解決につながるのかについての、決定的な説明に欠けていると感じるものもあります。ただ、ここについてはどこまでが弁護士側の経験に基づく能力的な問題や、あるいは努力不足といえるのかは、極端な例以外、同業者でも簡単には判断できない部分といえます。それはそれとしても、制度や弁護士への根本的な理解が、実は司法関係者が考えている以上に足りない、という現実が横たわっているように思えるのです。

     それを考えると、弁護士の経済的な余裕を奪っている、この「改革」路線は、弁護士と利用者の相互不理解のような現実に効果的な解決の道を用意しているのか、そもそもそれをどこまで念頭に置いていたのか、という疑念も膨らんでしまうのです。


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    弁護士「高圧的」イメージをめぐる変化

     かつて弁護士に対する市民の苦情、あるいは関係決裂の原因として、しばしば市民の口から「馬鹿にされた」という言葉を聞くことがありました。もちろん、弁護士側には、馬鹿にする意図など毛頭ない、という弁明をしたくなるケースもあるとは思います。

     ただ、以前も書いたことがありますが、耳をすませて市民の言い分を聞けば、「馬鹿にされた」という話の多くは、「素人扱いされた」というものです。多くの市民は、法律に関しては少なくとも弁護士よりは「素人」と考えるのは一般的ですから、それも当然といえば当然なのですが、要は、その時の弁護士の態度。言葉に出さなくても、知識に対して、「そんなことも知らないのか」とか、依頼者の要望に対して、あきれ顔で「そんなことはできない」と言われた(ような気持ちになった)というのが、圧倒的に多かった、という印象があります(「弁護士に関する苦情(3)『素人扱いされた』」)。

     「高圧的」という言葉は、よく弁護士に使われてきました(「『高圧的』弁護士イメージの現実」)。弁護士にもさまざまな人がいます。かつてから依頼者が「素人」であるがゆえに、逆に気配りを欠かさない弁護士もいたことも知っているだけに、その点では弁護士=高圧的イメージとされることは、少々気の毒には思いますが、ただ、現実的にそうした弁護士が存在してきたことは、私の経験からも事実です。

     どの社会にもいる、と括ってしまえば、弁護士という職業の「特徴」のようにいうこともおかしな感じがしますが、その一方で、弁護士自身が自覚してきた「敷居が高い」という市民の受けとめ方の一つの要素として、こうした姿勢があったことは否定しきれない、と思いますし、それもまた自覚している同業者がいます。難関試験を経たある種のエリート意識、サービス業的な自覚のなさということを、「高圧的」の背景に当てはめることもできなくありません。

     かつて「雇う」という言葉を弁護士に使っただけで、「弁護士を雇うとは何事だ」と激怒したベテラン弁護士がいました。弁護士会内では、数々の役職を歴任し、「良識派」という評価もされていた人物ですら、こういう感覚だったのか、と今にして思います。

     ただ、この点に関しては、弁護士のタイプが大きく変わってきたのも事実です。依頼者・市民に対する口のきき方や態度に、当たり前の配慮をする弁護士は増え、同業者から見ても、前記したような弁護士は「旧タイプ」とくくられるようになっています。時々、ある種の皮肉として、「これは司法改革の唯一の功績ではないか」という人もいます。これまでも書いてきたように、「改革」が弁護士に一サービス業の自覚を求めた先には、必ずしも依頼者・市民にとって、望ましいことが待っているとは言い切れない現実がありますが、少なからずその自覚が、弁護士の依頼者に対する「配慮」の意識に変化をもたらしたと考えれば、前記言い方もまた正しいことになります。

     その一方で、弁護士の「高圧的」イメージには、依然強固なものがあります。それだけに、若手を含めて、多くの弁護士は、そうしたものを形づくることに貢献してきた「旧タイプ」の弁護士の淘汰は、いまや本音の部分では歓迎している、といっていいと思います。ただ、少々気になるのは、最近、これも弁護士から聞こえてくる、依頼者・相談者市民の方の変化です。

     それは、一言でいえば、サービスの有償性を度外視し、さまざまなことを弁護士に持ち込む傾向。そこには、弁護士に筋違いの要求をするものも増え、無理な要求のレベルもまた上がっているという指摘があります。「相談者の質」という問題を言う弁護士は、以前よりも増えているのです。有償性が伝わらないまま、「気楽に」「小さいことでも」の弁護士活用のアピールが、そうした弁護士にとって歓迎できない「多様化」をもたらしている、という見方もあります。「敷居が低くなったことの副作用」という受けとめ方や、その意味では、弁護士会は、もっと弁護士が扱うサービスの有償性の方を、社会にアピールすべき、ということも言われ出しています。

     当然、この傾向は、弁護士に対する「不満」の裾野を広げる方向であり、それはまた、そうした無理な要求に対して現実的対応をとる弁護士の姿勢を、「高圧的」という旧タイプイメージに置き換える危険性を生み出します。

     依頼者に対する姿勢には、弁護士側の意識と能力が現実的に深くかかわり、今後も自覚が求められ続けることはいうまでもありません。ただ、一方で、旧タイプの淘汰という形だけでは、弁護士の負のイメージが払拭されない、それこそ「身近」「親しみやすさ」「本当は敷居が低い」アピールだけでは、解決しない新たな状況も生まれているように見えるのです。


     「司法ウオッチ」では、現在、以下のようなテーマで、ご意見を募集しています。よろしくお願い致します。
     【法テラス】弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。
     【弁護士業】いわゆる「ブラック事務所(法律事務所)」の実態ついて情報を求めます。
     【刑事司法】全弁協の保釈保証書発行事業について利用した感想、ご意見をお寄せ下さい。
     【民事司法改革】民事司法改革のあり方について、意見を求めます。
     【法曹養成】「予備試験」のあり方をめぐる議論について意見を求めます。
     【弁護士の質】ベテラン弁護士による不祥事をどうご覧になりますか。
     【裁判員制度】裁判員制度は本当に必要だと思いますか

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    「高圧的」弁護士イメージの現実

     弁護士には、「高圧的」というイメージが、昔からくっついているように思います。現実に上から目線で対応された、やたらに威張っているという、弁護士に接した市民の話は、枚挙にいとまがありません。エリート意識、ステータスがもたらす勘違いという、結び付け方も、一般的といっていいかもしれません(「威張る弁護士」)。

     いうまでもなく、どの世界も、そういう人間はいます。弁護士という人間の中に、特にそういうタイプが多いというデータは、持ち合わせていませんし、あるいは弁護士という仕事が、そういう存在を特に目立たせる性格をもっている可能性も否定できません。

     ただ、現実にそういう人間がいることは、少なくとも実は当の弁護士たちが、一番よく知っているのではないかと思います。これまで弁護士に取材者の立場で接してきて、正直、驚くほど「高圧的」な人間にも、度々、遭遇してきました。ただ、そういう弁護士は、実は業界内でも、それなりの評価がされていることも知っています。

     このキャラは、ご本人にとっても、全くいいところがありません。かつて弁護士会長就任に並々ならぬ意欲をお持ちだった東京のある弁護士。経験も豊富、派閥でも実力者とみられ、ポジション的には、十分に会長を射程圏内に入れていたこの人物が、たった一つ、ネックだったのは、その「高圧的」キャラでした。東京の弁護士会役員選挙のなりゆきは、派閥間調整が大きくものをいうわけですが、彼にいたっては、対立派閥の幹部が「彼が出てくるなら、こちらも候補を立てて、全力で潰す」と明言。結果、無理と判断した彼の派閥仲間が、彼の肩を叩いて、諦めさせるという残念な展開にあいなりました。派閥仲間も、彼のキャラが邪魔したことを知っていて、残念がっておりましたが、近い話は、そこそここの世界のあちこちであるようです。

     反対に、いわゆる大物なのに、ものすごく腰が低く、こちらが逆に恐縮するくらいの弁護士もいて、もちろん、そういう人も、業界内で一定の評価を得ているのも見てきました。いつも印象というものは、共有されているもので、感じることはみんな同じ、苦手だなあと思った人は、不思議なくらい同業者の間でも、苦手扱いをされているもので、「高圧的」でいいことなんて一つもない、というのが、常々感じてきた結論です。

     前記したような「高圧的」であるということが、目立つ仕事、とりわけ強く大衆に伝わる仕事である可能性は、やはり弁護士との関係性が、もともと依頼者にとっては、「対等ではない」ということを自覚している面と関係があるようにも思います。専門家として頼る存在、困っている側がすがっている存在。その人間の物言いには、逆に依頼者は敏感です。いわば、弱い立場の人間に、たたみかけるように上からいわれることは、時に屈辱感まで引き出す反感の素になります。

      「素人なんだから知らないで当たり前じゃないか」。こんな弁護士の対応に対する市民の不満をよく聞きます。私自身、個人的な要件で、弁護士外の士業に接していても、時々、こんな感じを持つことがあって、「これか」と思う時があります。士業の方ご本人は、おそらくそんなつもりはないのでしょうが、こちらが知らない、分からないことに対して、その発言の中に、かすかでも不満げな様子を読み取ってしまうと、こちらの立場からすれば、すぐさま「分からないから聞いているんだろ」というモードにつなげそうになってしまうのです。

     弁護士に対して、「こんなことを聞いてもいいんでしょうか」とか「なかなか聞けない」という、気おくれを口にする市民の声もよく聞いてきましたが、そういう意識にも、つながっているように感じます。

     ただ、以前、Yahoo知恵袋の「弁護士の高圧的な態度」というテーマの質問に対する回答で、高圧的に「見える」ケースについて、解説しているものがありました。基本的に「高圧的」に感じた弁護士のチェンジを選択肢として挙げながら、この態度が、実はエリート意識からではなく、その原因が限られた法律相談時間にある可能性を指摘しています。

     法律的に問題になる部分を要領よくつかみたい弁護士に対して、法律の素人であるがゆえに、感情論も含めて問題の核心から離れたことなどを延々と話す相談者。弁護士にとって必要な情報のみを聞き出そうとして話を遮る形が、相談者の不満となり、それが前記印象に結び付くと。もともと、こうした弁護士にとっては、仕方がない事情から、法律相談という場が、弁護士への市民の不満の素になる話は存在してきました( 「『法律相談』というニーズ」 「法律相談の不満要素」 「弁護士の『人生相談』」) 。

     回答者は、このケースを相談者の方で解決可能なものとして、事案概要など要領よく説明できる準備を相談者側に提案しています。相談に臨む市民への、一般的なアドバイスとしては、正しいと思います。

     ただ、いうまでもなく、いくら時間がなくても、「高圧的」にとられる態度が許されるとは思えません。そもそも相談において、素人である依頼者が、要領の悪い説明をしてくることもまた、織り込み済みで、弁護士はそこも十分踏まえて対応すべき、ということを、強調していた弁護士もいました。回答者もいっていますが、弁護士側の能力にかかわる部分もありますし、その結果が、相談者に対する「高圧的」ととられる態度になるのは頂けません。

     もちろん、昨今の「余裕がない」という状況が、結果的にいいわけになることはあってはならないし、それが理由とされるようなことがあれば、弁護士の「心得違い」イメージとともに、この「高圧的」というネガティブイメージも、より強固になっていくと思います。

     少なくとも、胸に手を当てて、あるいは自分もそうとられているのではないか、という不安が過った弁護士の方は、自他ともに「いいことなんて一つもない」という強い自覚から、自らのイメージにもう一度、向き合ってみることをお勧めします。


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    「依頼者放置」の弁護士たち

     弁護士の不祥事として、懲戒事案でも「放置」ということが目につきます。つまりは、ほったらかし。事件を放置してなすべき手続きをしなかった期限徒過が、しばしば問題になります。被害そのものから表現すれば、これは「事件放置」ということになりますが、同時に、この実態が「依頼者放置」である場合があります。期限徒過という決定的被害にならないまでも、これは弁護士に対する苦情・不満として、これまでもしばしば耳にしてきたことでした。

     なぜ、こういうことが起こるのか。弁護士に聞けば、「余裕がない」という言葉も返ってきます。経済的にゆとりがなくなれば、いままで以上に多くの事件を抱えようとするものの、結局、一件一件の扱いが粗雑なる、と。この見方は、同業者として、大方、こうした現象が、そうした環境がもたらす「ミス」という見方により立つものです。

     ただ、これはさすがに、言い訳にはなりません。よくよく聞いてみると、期限徒過に関しては、「ひゃっと」するような経験をした弁護士も少なからずいるようですが、「ミス」をなくし、依頼者に実害を与えないことは、最優先させなければならないことはいうまでもありません。

     問題は、むしろ完全に「ミス」ではないととれるケース。つまり、確信的ととれる「依頼者放置」の場合です。およそどんな仕事でも重要とされる「報・連・相」(報告・連絡・相談)を回避あるいは軽視している場合といえます。これも、実はいろいろなパターンがあります。実は、根質丁寧に弁護士が説明しても、依頼者が理解・納得してくれないというケースがあります。100%納得していないものは、1ミリも前進させてはいけないと考えることもできますが、それでも基本的にその弁護士で闘うという了解を得ている場合、事案の経過によって、理解させられると、弁護士が考えてしまう場合もあります。その結果としての「しばらくほっておく」という方法が、いいのか悪いのかは、それこそ結果からの判断になってしまいますが、依頼者・市民が、およそ素人がゆえの要らぬ心配をしているような場合はともかく、これもまた、信頼関係構築ということを考えれば、「ミス」と同じで極力回避する努力は必要なことです。

     本当の問題は、前記ケースでもない場合、もともとそうした努力をしないという弁護士です。この中身は、一つは「心得違い」。依頼者を軽視し、はなから「どうせ素人に説明しても分からない」とさじを投げたような対応をする弁護士です。苦情のなかでは、多いパターンです。もちろん、これも依頼者側のタイプによる場合もあって、実は前記のような根質丁寧な対応をしているのに、依頼者側の過剰期待や不満から、そうとられてしまっているという弁護士側の言い分がある場合もありますが、明らかにそうではない場合は存在します。

     そして、もう一つは「能力」の問題です。そもそもの説得する能力、コミュニケーション能力がない、それを分かっていて説得を諦めている場合です。前者の怠慢も問題ですが、これも大きな問題です。まともな弁護士ならば、「そんなことでこの仕事はなりたたない」と言下にいうところですが、そうとらざるを得ない弁護士が存在することも、また事実です。もっとも前者のタイプとこのタイプの区別が、果たして依頼者・市民につくのか、という疑問もあります。

     この問題を考える時、依頼者・市民側にある専門家に対する依存心と、気おくれというものを無視することはできません。通り一遍の説明に対しても、専門家だから任せておけばいい、という気持ちと、あまりしつこく尋ねると心証を害するのではないか、尋ねてはまずいのではないか、という遠慮があります。前記「ミス」のケースを含めて「放置」という実害が、悲しいことに、この依頼者の感情と結び付いて発生してしまう現実があります。もっとも、「ミス」ではないケースについていえば、この感情の「悪用」という批判も成り立ちます。

     数か月の「放置」に、依頼者側がさすがに不安になり連絡をとるケースでも、「やっているところ」という、これまた通り一遍の回答を繰り返されたという話もよく聞きます。さらには、数か月後に、途中経過抜きに、いきなりこちら側の妥協を迫る「落とし所」を提示され、驚くとともに、不信感を強めたという声も耳にします。

     区別がつくのか、ということでいえば、弁護士の対応には、そもそも「プロ」の判断として良かれと思ってやったことと、そうではなく、弁護士自身にとって良かれと思ってやっていることの区別が、依頼者・市民側につきにくいという決定的な問題があります。

     その意味でも、本当に弁護士がそうした誤解をされずに、信頼関係を築こうと思えば、「報・連・相」の重視は当然であり、逆に依頼者側からすれば、弁護士「仕分け」の重要な要素にはなると思います。しかし、それもさることながら、根本的な問題として、なぜ、そうした「心得違い」と「能力不足」の資格者が存在し、依頼者・市民は、彼らと遭遇しなければならなくなっているのか、誰がその安全確保の努力と責任を負っているのか、また今後、負うことになるのか――そのことも重要なテーマになるはずです。
     

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    プロフィール

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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