弁護士の「地位」と失われつつあるもの

     「弁護士の地位」という言葉から、今、弁護士会内の多くの会員は、まず、どういうことを思い浮かべるのでしょうか。「改革」の増員政策によって、弁護士がこれまでにも増して、競争や淘汰を意識するようになるなか、経済的に恵まれている、高い社会的地位に、これまでのようにあぐらはかけない、という自省に向う脈略で、この言葉をとらえる人はやはり少なくないように思います。

     しかし、思えば、一時代前まで、この言葉は、主にそういう脈略で弁護士がとらえるものではなかった、といえます。つまり、弁護士の社会的地位は、もともとは低く、現在の高い地位は、獲得したものである、という脈絡のなかで語られていた。前記した脈絡が、弁護士個人の経済的職業的な利益・保身というイメージのなかだけでとらえられているのとは対照的に、その職業的地位向上の目的には、単に個々の資格者の利益ではなく、あるべき司法のため、という「正義」が描き込まれてもいました。

     そもそもこの世界には、かつてそういう話をする先輩たちが沢山いました。現在、50歳代以上の弁護士たちには、そうしたことを「価値」として受け継がれた共通体験も少なからずあるようです。イソ弁と親弁、会内の先輩・後輩の関係も変わり、「改革」のなかで、前記したような脈絡でまず、とらえることが当たり前の業界ムードのなかでスタートした弁護士たちには、歴史としての知識はあっても、それ以上に守り、継承すべき「価値」という実感がない。あるいはそういう切り口自体、大時代的なものとして、よそよそしくとらえたとしても、それは仕方がないことというべきかもしれません。

     1970年に故・大野正男弁護士(元最高裁判事)が発表し、2013年に日弁連法務研究財団が復刻、出版した論文「職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史」(「弁護士の『本質的性格』と現実」)のなかで、同弁護士が日本の弁護士階層の歴史的特色として、「弁護士の地位の向上」に関して取り上げているところがありました。

     明治初期以来、判検事を中心に、彼らとは別々の二元的な法曹養成制度がとられるなかで、差別的な扱いを受けた当時の弁護士階層の最大関心事は、まさに「司法における弁護士の地位の向上」だった、と、同論文は指摘しています。身分的差別の背景には、外国からの輸入制度であることからの、プロフェッションとしての職業的伝統の欠落や、公事師からの人的つながりによる社会的不評もあったといいますが、当初の弁護士の地位向上は、前記した法曹養成度のあり方からくる「判検事に対する水平運動」だったことが書かれています。

     そして、興味深いことに、この二元的法曹養成制度に対する「水平運動」のなかで、弁護士階層が掲げた基本的主張が、弁護士自治、陪審制、法曹一元の3つだった、というのです。一元的な法曹養成制度は、戦後の社会変革のなかで実現し、弁護士は強固な完全自治も獲得し、官僚法曹からの独立が実現。そうした司法における地位の向上が、その後の社会的地位の確立にもつながっていきますが、弁護士会が現在に至るまで死守を掲げ、あるいは悲願としてきた「価値」の源流は、この「水平運動」にあったということになります。

     ただ、同論文のなかで大野弁護士は、現在の弁護士のあり方にもつながる、次のような重要な指摘をしています。

     「しかし、弁護士階層の水平運動が、司法という枠の中に限局され、自らの職業がどのような社会的適応性をもっているかという社会的視野に欠けていたことにも、注意する必要がある。法曹一元運動の挫折にみられるように、判検事は非常識、弁護士は常識的で社会に明るいという観点のみから、その正当性を主張しても、それを裏付けるに足りる弁護士に対する社会の信頼がなければ、実現することは不可能である」
     「法曹一元論は、弁護士の年来の主張であるが、不幸にして、今日に至るまで、社会からの要求・支持の面では、みるべきものがない。水平運動としての法曹一元運動が、それなりの正当性をもちながら、弁護士階層の主張に限局され、なぜ横への――すなわち社会への――広がりを持ちえないのか、が問題なのである」

     前記したような歴史的経緯をみれば、弁護士の司法における地位向上は、その後の、社会の彼らに対する位置付けという意味での、社会的地位に影響したことは事実ですが、その一方で、弁護士が死守・悲願を掲げてきた前記3つの主張の現実をみれば、実は彼らが考えてきた以上に、その地位の社会的な根は浅いものではなかったか、と思うのです。

     あえていえば、少なくとも彼らが獲得した社会的地位とは、経済的成功者として羨望のまなざしでみられる社会的立場以上に、法曹一元や弁護士自治を当然に、社会が期待し、支持するような存在ではいまだなかった、ということです。

     そのことを決定的に示した、というよりも、その決定的な弁護士の弱点を突かれてしまったのが、今回の「改革」ではなかったのでしょうか。弁護士の一部が期待した法曹一元の実現は、この「改革」の路線から早々に外されただけでなく、弁護士の激増政策によって、社会的な評価においても、会内の弁護士の意識としても、決定的に遠ざかってしまいました(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。そして、その増員政策による経済的激変は、強制加入と高い会費の負担を規制としてとらえる会員意識を生み、自治の内部崩壊が指摘されています(「『弁護士自治』会員不満への向き合い方」)。陪審制度は、国民の司法参加として裁判員制度によって前進したと強弁する弁護士はいまでも一部にいますが、両制度は全く別のものであり、かつ、そもそも裁判員制度は国民の支持を得ているとは言い難い状況です。裁判員制度は陪審制度への一里塚にはなりません。 

     まさに「自らの職業がどのような社会的適応性をもっているかという社会的視野に欠けていた」といえる「改革」によって、弁護士は、経済的な地位だけでなく、長年依って立ってきた基盤や「価値」までも脅かされ、あるいは葬られようとしているのではないでしょうか。そもそも弁護士自治や法曹一元を社会全体が評価し、期待することは困難で、その「価値」は弱者・少数者救済や反権力的な立場からではないと理解されない、という主張もあるかもしれません。だとすれば、なおさらのこと、日弁連・弁護士会は「改革」へのスタンス、会員対策も含めて、それを成り立たせることから逆算した政策・主張を果たしてしているのか、という疑問にも突き当たります。

     「改革」が「弁護士の地位」を変えるかわりに、何を社会にメリットとしてもたらすのか、現実的には全く見えなくなってきているだけに、ここは社会の側もこだわるべきところのはずなのです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    スポンサーサイト

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    弁護士の「労働者」性というテーマ

     弁護士の「労働者」性という、おそらく一般的には理解しにくい議論が弁護士会内にあります。理解しにくい、というのは、議論の内容そのものというより、なぜ、それが議論の対象になるのか、というところにあるように思います。

     こうした問題が、これまでも弁護士側で議論される場合のキーワードは常に「職務の独立」あるいは「自立性」というものでした。それは、組織内弁護士のあり方や、労働者派遣の対象化をめぐる議論でも、常につきまとってきたものでした。ただ、企業関係者を含め、その都度、一般の反応としてみてきたものは、なぜ、そこが、弁護士側としてそこまで神経質にこだわらなければならないことなのかが、伝わっていない現実、いわば温度差といってもいいものでした。

     弁護士会のなかにも、従来、組織のなかでの主従関係、上下関係というものを形式的にあたまから独立性(独立して法と良心に従って判断する)を阻害する危険性がある、とする見方と、形式的な主従関係があっても、そのなかで現実的に法律の専門家として独立した判断が求められているかどうかを重視する見方がありました。

     しかし、これもおそらく弁護士が考えている以上に、何が問題であるのか分かりにくい議論というべきかもしれません。企業に雇用されていれば、当然、弁護士も企業利益のために動く。だが、弁護士が独立して、適正を確保するためにプロとして提供する法的指南は、必ずしも企業利益と矛盾しないばかりか、究極的には企業利益になる可能性がある。その企業内弁護士の姿勢が、経営者の無理解、聞く耳を持たない会社側と対立し、それに社員として迎合を余儀なくされる、という局面がどのくらいあるかもさることながら、それは根本的には、組織内弁護士をめぐる問題に限らない、経営者そのものの質と、弁護士の質の問題であって、「弁護士はどういう立場に置かれなければならない」と括られるべき問題ではない。要は「枠」の問題ではないのではないか、と。

     取り方によっては、あたかも弁護士は、そうした主従関係がもたらす影響下に置かれると、直ちに何やら法律専門家にあるまじき存在に変身してしまう危険がある、といっているようにも聞こえてしまいます。逆に、弁護士がそこまで専門家としてもろく、危いのであれば、むしろもっとそちらが問題にされていいのではないか、ということにもなります。

     一方、法律事務所に勤務する弁護士の「労働者」性という別のテーマも弁護士会にはあります。この問題では、東京弁護士会の機関誌「LIBLA」2005年4月号に掲載された同会業務改革委員会の特集記事が、よく引き合いに出されます。当ブログのコメント欄でも言及されているように、同機関誌の2003年2月号が、勤務弁護士が労働基準法上の「労働者」であることを当然の前提とするかのように記述されていたのに対し、同委員会が疑義を述べたもので、その結論は「常の勤務形態の勤務弁護士は、原則として労働者ではなく、例外的に労働者に該当する場合であっても、労働時間については裁量労働制が適する」というものでした。

      興味深いのは、この記事が、法律事務所での弁護士の勤務形態が様々である現実を踏まえながら、改めて「労働者」に当たるかどうか、の判断基準を示し、各事務所に再考を促しているところです。その基準とは大略、次の5点です。

     ① 仕事の依頼、業務従事の指示等に対する諾否の自由があるかどうか(自由がないほど労働者性が高い)。
     ② 業務遂行上の指揮監督が有るか無いか(包括的抽象的な教育指導ではなく、細かい指導的・具体的指示に従っている場合や、事務所から命じられた比較的裁量の幅の小さいデスクワークのみに従事しているような場合、労働者性が強まる)
     ③ 勤務場所・勤務時間に関する拘束性が有るか無いか(勤務場所・勤務時間の指定があったり、出・退勤時間の管理が厳格であるような場合には労働者性が強まる)。
     ④ 報酬の労務対償性・額(一般従業員の給与体系とほぼ同様の扱いを受け、勤務時間に依拠した固定給が支給され、欠勤・早退減額があるような場合には、労働者性が強まる。給与所得としての源泉徴収を行なっている場合、労働者性が補強される)。
     ⑤ 専属性(個人事件や公的活動に従事することが制約されたり、時間的に事実上困難な場合には、専属性の程度が強まり、労働者性が強まる)。

     書かれている内容そのものは、必ずしも分かりにくい話ではありません。自由度や独立した弁護士としての処遇面での優遇や「特別扱い」が、ここでいう「労働者」性にかかわってくるということです。

     ただ、二つのことが気になります。一つはこの議論は、利用者からはどう見えるのか、別の言い方をすると、何が有り難いのか、ということです。「労働者」性が認められない弁護士のあり方は、あたかも高度の試験の選抜と修習過程を経た資格者として、初めから能力的にも自立し、独立性が尊重されていい存在のようにみえます。

     しかし、主従関係のなかで育まれるものに利用者が見出す価値はないでしょうか。「細かい指導的・具体的指示」のなかで修養された弁護士よりも、早くから一人前と尊重された弁護士の方が、利用者に安心を提供するとはいえません。専属制が高まると、個人事件や公的活動が制約される、といっても、そのマイナス面よりも、能力担保にはどちらが有り難い弁護士の形態かという視点になっても当然です。

      そして、もう一つは、これから弁護士になる人、弁護士を続けていかなければならない人にとって、前記自由度と独立性が尊重されるあり方の方が有り難い、といえる現実がなくなっているのではないか、という点です。「労働者」性を認めて、労働者に関する保護規定が適用される勤務のあり方が、現状、果たして有り難くないことなのか。経済的にみても、「自由業」志向が当然だった時代の感覚で、独立性の価値を当然視できない現実もあるはずです。

     その意味では、前記組織内弁護士をめぐる観点にしても、多くの若手弁護士自身、あるいは志望者自身にとって、既にとっくに「枠」の問題ではなくなっているといえるかもしれません。ただ、そうしたことをはじめから割り切っている組織内志向の弁護士で満たされていく、あるいはそうでなければ弁護士として生きられない、ということ自体が、私たちにとって本当に有り難いのか、という別の問題もあります。

     弁護士の「労働者」性というテーマの現在、と、これからには、やはり「改革」の増員政策がもたらす(もたらした)弁護士の経済環境の激変が深くかかわっています。その結果として、私たちが本当に気にすべきなのは、弁護士の独立性の担保なのか、修養と安定を失った弁護士の現実なのか、それともその両方なのか――。そこはよく、見定める必要があります。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    弁護士「資格」必須度というテーマ

     今回の司法改革で生み出された法科大学院を中核とした新法曹養成制度の発想について、かつて法知識の集中型モデルであると指摘した学者がいました。それは、専門家以外に法知識が分布せず、素人とプロの壁がはっきりしている世界であり、企業にも、中央官庁にも法知識を兼ね備えた優秀な人材がいる、これまでの日本の拡散型モデルとは、基本的に異なるものを目指したのだ、という見方です(「『事後救済型社会』と法科大学院の選択」)。

     この論を敷衍して、新法曹養成と結び付いた弁護士増員政策をひっくるめてこの「改革」の発想を改めて見ると、それは法曹資格、(少なくとも当初は)とりわけ資格者としての弁護士に、法的ニーズの受け皿としての役割を集中させるものであったようにとれます。有り体にいえば、法的な問題のあるところ、何でも弁護士が乗り出す世界、それが望ましい世界であるという描き方です。法科大学院という新プロセスを通過し、法知識を集中化させたプロたちに、資格者として役割も集中させる、という発想だったといえます。

     「改革」のバイブルとされた司法制度改革審議会の最終意見書が、いわゆる弁護士の隣接士業の活用を挙げながらも、弁護士増員達成後に仕切り直すというニュアンスで、その恒久化にクギをさすような微妙な表現をとったこと、そもそもこの国の法的ニーズの受け皿を弁護士を含めた法律系士業総体でとらえず、膨大な弁護士増員に突き進んだことをみても、既定方針化したその集中化の発想を読み取ることができます(「司法書士にとっての弁護士激増」)。

     なぜ、そうでなければならなかったのか――。必ずしも唯一の選択肢ではなったはずのこのことについて、「改革」論議の当初から、不思議なくらい突っ込んだ議論がされてこなかった現実があります。前記司法審意見書は、事後救済社会の到来と法曹の役割増大を、疑いようもないかのごとく大前提にしています。そのことが「改革」の根本的な発想に影響したととれる面はあります。

     それと同時に、弁護士自身がこの「改革」に主体的に関与したという事実も影響しているようにとれます。弁護士万能論のごとく、弁護士に役割が集中する未来を、望ましく、魅力的に感じた「改革」主導派の方々がいたということです。そして、その彼らの意識こそが、そうした世界が本当に実現するのかという、可能性への詳密な分析を飛び越えて、根拠なき膨大な増員政策を受け入れ、そして失敗につながった一因ともとれるのです。

     「弁護士がやらなくてもいいのではないか」。いまでこそ、こうした類の言葉が会内からもよく聞こえてきます。訴訟代理権、法知識、法令解釈能力が、この「資格」によって担保されるということが、役割集中化の基本的な根拠になるはずですが、企業などの組織が求める人材をはじめ、弁護士の活用先として挙げられている場面で、どこまでが必須条件なのか。少なくとも国家にも、個人にも投資を求める大規模な強制プロセスを経て得られる「資格」で担保されなければどうにもならないのか、果たして他に選択の余地がないことなのか、という疑問が生まれているのです。

     「図書館にも弁護士を」という話あたりから、首を傾げはじめた業界関係者も少なくないようにみえます。「法曹有資格者」という言葉の登場(「『法曹有資格者』への変化」)で、「改革」の射程があいまいになると同時に、弁護士という「資格」の必須度があいまいになり、見方によっては弁護士増員政策の梯子は、この時点で既に外されたととっても不思議ではありません。

     ここでさらに気になるのは、この時点での弁護士生き残り策との関係です。増えてしまった弁護士が、生き残りをかけてさまざまな工夫をする。そのことをメディアが、弁護士の可能性として伝える。ただ、それは当事者にとって意味のある可能性でも、これから弁護士になろうとする人間にも果たして同じ意味を持つのかどうか、という点です。なぜ、そういうかといえば、そこには、前記したような弁護士「資格」必須の根拠、時間とおカネを投入し、不合格のリスクを負ってまで目指す弁護士でなければならないのか、という問題が、巧みに隠されているような感じを受けてしまうからです。

     「弁護士起業 ITが後押し 『リーガルテック』広がる」

     こんな見出しで、4月24日付けの日本経済新聞が報じています。大手の法律事務所や民間企業などで勤務経験がある弁護士がスマホアプリやオンラインサービスの事業を展開している話が紹介されています。「IT(情報技術)を駆使して法律関連サービスを提供する『リーガルテック』の市場が広がり、弁護士の活躍の場が広がっていることが背景にある」としていおり、登場する弁護士のコメントの抜き方を含めて、この分野での弁護士のチャレンジの将来的な可能性について、非常に肯定的に伝えている記事です。

     こうした弁護士のチャレンジにスポットを当てた記事には、そもそも一般化できない「生存バイアス」的な匂いがつきものであり、その当事者の志向や資質によっても差し引かねばならないものがあるように感じます(「『ビジネス』が強調される弁護士の魅力度」)。そして、少なくとも現在弁護士でない人間からすれば、この記事もまた、本当に「資格」としての弁護士を経由しなければ、たどりつけないところに、ここに登場する彼らがいるのか、その説得力のようなものが決定的に欠けているように思ってしまうのです。 

     記事の最後に、ある種奇妙にも感じてしまうこんな記述があります。オンライン事業を手掛けているある若手弁護士の言葉を抜いて、「『ITで何かをしたいという自分のような弁護士は増えるはず』と、後に続く若手弁護士の登場に期待をかける」という一文で、記事は締め括られています。しかし、そのすぐ前に、この記事は、やはりその弁護士の発言を抜いたこんな一文を載せています。

     「今はビジネスの楽しさにどっぷりとはまり『弁護士の仕事には絶対に戻らないと断言できる』ほど」

     やはり、弁護士の資格を持ちながら、弁護士の仕事ではないという意識と、それに絶対に戻らずにビジネスを楽しむことに価値を見出せる人材こそ、この記事が描いて見せた可能性なのか、といいたくなるオチというしかありません。

     ただ、こうした記事をたとえ、弁護士をこれから志望先にするかどうか検討している人が目にしたとしても、もはや安易にこれを受けとめてしまったり、その気になる人は少ないはずです。それならば、リスクを冒して弁護士にならずとも、法律を勉強しながら、はじめから企業や公務員を目指してもいいのでは、と考えてもおかしくありませんし、起業にしても、弁護士という「資格」をどうしても経由しなければたどりつけないと読みとるようには、とても思えないからです。

     分かっていないのは、むしろこうした可能性のアピールで、まだ「資格」としての弁護士を目指す人間たちが返ってくると考える人たちの方ではないでしょうか。これが実は役割集中型を目指した「改革」の失敗の結果として、「なんとかしなければならない」状況から逆算されたものであり、それがまだ、この世界に踏み込まないで済んでいる人たちの目にどう映るのかも、きっと彼らは十分に分かっていないのです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    判決偽造という弁護士の病

     民事訴訟にかかわることになった市民の話の中に、強烈な疑心暗鬼の声を聞くことが、これまでもしばしばありました。典型的なものは、相手側当事者とその弁護士、それに味方であるはずのこちらの弁護士が水面下でつながり、結果的にこちらの意向に沿わない結論を導き出そうとしている、という強い被害者意識です。

     民事訴訟であれば、弁護士は、もちろん依頼者の意向を十分に汲み上げ、法律的に主張し得る有効な論理を展開する一方、依頼者に対して、現在の状況、法的な落とし所を含めた見通しについて、十分に説明あるいは説得しなければならない局面もあります。そうした第三者からみれば、弁護士として明らかに、はみ出しているとはいえないような行為でも、当事者にはまるで別のもののように、怪しくみえてしまう。

     そのなかには、単純に弁護士という仕事そのものが分かっていない、誤解しているととれる場合も少なくありませんが、時にそれはこうした裁判という体験したことのない非日常に接した普通の市民が陥っている、特殊な心理状態からくるのではないか、と思えることもあったのです。

     有り体にいえば、何を信じていのか分からないという状態。法律も分からない、裁判も分からない、自らの人生や財産にかかわる重大な案件が決定付けられる手続きが目の前で繰り広げられていながら、当事者である自分がまるで蚊帳の外に置かれ、分からないままに第三者に結論を出されてしまう孤独感と無力感。信じたい気持ちに疑いの影が忍び寄るのは、そうした依頼者の置かれた心理状態からすれば、何も不自然なことではないようにも思えます。

     「判決が弁護士によって偽造されたのではないだろか」

     実はこれまで依頼者市民と話すなかで、こうした声を聞いたことが複数回ありました。事実関係を聞いても、そもそも私が判断できる材料はないとはいえ、正直、「まさかそこまでは」という気持ちがあったことも否定できません。結局、こちらとしては、どちらにしても確証がないままに、前記心理状態を被せて、この話をそのなかでとらえてしまったように思います。疑心暗鬼のなかの、受け入れがたい現実に対する特殊な心理状態の反応として。

     あの時、あの依頼者たちの声に、あるいは別の対応をすべきだったのか――。そんな気持ちにさせるニュースが報じられています。兵庫県弁護士会所属の37歳の弁護士が、民事訴訟の判決文2通を偽造したとして、会が綱紀委員会に調査を求めたというものです。報道によれば、依頼者に依頼された訴訟の提訴手続きを放置、それがバレないために判決を偽造。弁護士本人もその事実を認め、裁判所に偽造を申して出ているといいます。

     改めて見直してみれば、弁護士による判決偽造は、実はこれまでも度々報じられていました。▽2013年~15年、顧問先企業から依頼された裁判の処理を放置し、発覚を恐れた50代の大阪弁護士会会員(当時)が判決文など5通偽造し、預かり金2806万円着服(2016年有印公文書偽造・同行使、業務上横領で1審懲役3年の判決、控訴)▽2003年都内IT会社の女性従業員から未払い賃金問題で訴訟の相談を受けていた30代の東京弁護士会会員(当時)が発覚を恐れ判決文を偽造(この弁護士は偽造判決文の支払い命令に合せて、会社に代わり自腹で未払い賃金を従業員に支払っていた)▽2000年~04年仕事を抱え過ぎ処理しきれなくなり、依頼者を納得させるために50代の大阪弁護士会の女性会員(当時)が判決文など37通を偽造(有印公文書偽造・同行使等で1審懲役1年6月)▽2001年倒産会社の債権回収に絡み、事件放置を隠すため、40代の札幌弁護士会会員(当時)が架空の訴訟の判決文を裁判所に提出。

     少なくともこれらの案件に共通しているのは、依頼した事件を放置し、その発覚を恐れて偽造に手を染めるという動機です。こうした案件について、同業者に聞いても、それこそ偽造の方の発覚のリスクを考えたならば、なぜ、そんなことができるのか理解できない、という答えが大方返ってくることになります。これは、他の不祥事ついても、ほとんど共通する答えだけに、結局、不祥事に手を染める人間にしかその気持ちが分からない、言われているのと同じになってしまいます。

     事件放置で懲戒案件になる痛手を回避するために、その場しのぎでやってしまった、ということかもしれませんが、東京弁護士会会員のケースのようにあくまで偽装するために、自腹で判決内容に沿って支払いまで行っていたとなると、そこまでする彼らの中の位置付けが全く分からなくなってきます。

     冒頭に書いた依頼者の疑心暗鬼のなかでいわれる、依頼者にとって不利な状況を意図的に作るために行われたというストーリーとは、若干違うものとはいえます。経済的に余裕がない現実が、こういうところにしわ寄せとなって表れているという見方もできるかもしれません。だが、一番重要なことは、やはり意識においても技術においても、その気になれば、弁護士が判決文を偽造できてしまう、という現実そのものです。判決を書き換えてしまう、という、法律で紛争解決に当たる人間が、その土俵を根底的にひっくり返すような行為を、どんな理由であれ、できてしまうということ――。

     記憶が正しければ、札幌弁護士会会員の案件で札幌地裁が告発した際に、弁護士による判決文偽造の前例がない、とする裁判所側の話を新聞の記事が紹介していました。その事実が正しいかどうかは分かりませんが、弁護士という仕事にとっては前例がない、ことこそに意味があった。そして、実例はさらに積み重ねられつつあります。

     そのことは、冒頭の依頼者が陥る疑心暗鬼の心理にも、ますます悪い影響を与えるはずです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    「処遇」をめぐる弁護士の自信とその変化

     弁護士を激増させた暁に、いわれているような潜在需要が顕在化しなかったとしたならば、どうなるのか。そのときに弁護士という資格そのものの、「市場価値」が下がってしまわないのか――。1990年代後半から2000年代初頭、さかんに「改革」が論議された時代に、当時、増員の必要性を声高に主張していた弁護士たちに、何度かこうした趣旨の質問をぶつけました。

     結論から言えば、彼らの中に、そのことに対する危機感はほとんどなかった、少なくとも表向きそれをにじませる回答を彼らから聞くことはありませんでした。経済的な価値が下落し、資格が見離される時代、もはや独立開業型の資格でもなくなる未来への危険性について尋ねた、今でも増員必要論を唱える企業系の大物弁護士は、当時、私の問いに一言、「そうなったらば悲しいね」とだけ答えました。そんなことはあるわけない、と言わんばかりの態度でした。

     彼らの表向きの自信の根拠は、一体、どこにあったのでしょうか。正直、今にしてみれば不思議な感じではありますが、まず、需要の顕在化を信じていたという面(それも本心からすれば不安があったかもしれませんが)はあるように思います。数が増えるほどに需要が掘り起こされるという発想は、まさに鉱脈にたどりつくには鉱夫が必要という、需要があるどうかを脇においた開拓論と増員必要論の一人歩きを生みました(「『大鉱脈』論失敗という経験の活かされ方」)。

     ただ、彼らの自信には、前記発想の基礎部分にあるような、別の思いをみることができました。それは、端的いえば、自らがこの社会で絶対に必要とされる、という強い確信です。それは当時の弁護士という仕事に対する「人気信仰」ということもできなくありません(「弁護士『人気商売信仰』の破綻と『有志の犠牲』」)。

     しかし、今になってみれば、そこには別の意味があったことにも注目すべきです。それは「処遇される」ということ。彼らの必要とされるという自信は、当然に社会から高く「処遇される」はずということに裏打ちされていたのではないか、ということです。やはり、この資格の経済的「価値」が、社会的な「評価」において、常に高いものとして維持されるだろう、という見通しがあったということです。

     「私たちにおカネが投入されない、ということは、社会がそれだけこの資格に『価値』を認めていないということだ」。最近、弁護士たちの口から、異口同音に、こうした諦め、というよりは、むしろ同業者の認識を改めることを促すような言葉を聞きます。法テラスでの低い処遇や、無料化の中での社会の反応など、「改革」がもたらした結果から、弁護士という仕事への前記したような自信を見直すべきではないか、というニュアンスにとれる言葉です。

     会内で時々聞かれる、弁護士は社会の「インフラ」である、という捉え方に対しても、前記ニュアンスの言葉は向けられます。「インフラ」ならば、社会はもっと弁護士を厚遇しているのではないか、と。「社会の隅々」に弁護士が進出するという前提も、結局、その「社会の隅々」で弁護士が拍手をもって迎えられ、おカネが投入されるということを想定しているのならば、それは誤りではないか、ということにもつながります。

     要は、そういうことを当たり前に考える前提をやめよう、という提案になります。この先の持って行き方としては、だから努力が必要だ(努力をすれば、克服できる)というものもありそうですが、そうではなく、弁護士はもはや、そうした高い処遇を当然の前提にする仕事ではない、その現実を受けとめようという方に力点があるようにとれます。

     ただ、いうまでもありませんが、社会的に「価値」がある仕事で、それにふさわしい経済的価値が付与されていない、いわば妥当な評価がされていない仕事は、この世界に沢山あります。たがら、厚遇されないことをもってして、社会的な「価値」がない仕事なのだ、ということには異論を唱える方がいても当然です。不当に厚遇されない仕事は、もちろん社会が見直していかなければなりません。

     今の多くの弁護士、「改革」の結果を知ってしまった彼らに、冒頭のかつてのような「自信」が存在しているようにはみえません。不当に厚遇されているとみられた弁護士という仕事は、「改革」によって、いつのまにか不当に厚遇されない仕事になったと感じている人もいるはずです。ただ、弁護士が妥当に処遇されることは、彼らの生き残りにかかわるだけでなく、結局、成り手の問題を含めて、利用者に返ってくる問題なのです。それでも弁護士はやっていける、儲けている、という片付け方は、弁護士を甘やかしているか否かの問題よりも、そういう社会の認識を阻害するという点を、私たちはちゃんと理解しておくべきです。 


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

    最新記事
    最新コメント
    最新トラックバック
    月別アーカイブ
    カテゴリ
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR