破壊された関係をめぐる無理への認識

     個人経営型の法律事務所が、当たり前のように新人弁護士の受け皿になり得ていた時代には、それなりに分かり易く、無理のない両者の関係が存在していました。経営弁護士が新人弁護士に期待したのは、自分が獲得した仕事を忠実にこなす労働力であり、新人はあくまで給料を与える労働者でしたが、そこには基本的に二つの認識があったようにみえました。

     一つは新人が新しい仕事を獲得するのは所詮期待できないし、それは無理という認識。そして、もう一つは、修養期間を経ない新人を一人前の弁護士のように、いきなり依頼者市民に当たらせるのは危険であるという認識です。彼らの立場は、ボス弁にこき使われる苦しい時代という表現もされますが、新人はかつて、この中で仕事を覚え、新規獲得の方法も学び、そして早ければ3年~5年で、あるいは多少の、のれん分けにあずかって、退所・独立という道に進めた。

     ボス弁からすれば、新人を抱えることは、もちろん大幅な売り上げアップを期待するものではなく、また、期待する必要もない経済環境もあり、独立で送り出せば、単純に代わりの労働力としての新人を入れればいい。これを今、弁護士界内から聞こえてくるような、新人の「使い捨て」のようにいう人は、当の本人も含めて、当時、いるわけもありません。

     それはあくまでこのシステムとそれを支えた環境には、無理がなかった、あるいは少なかったからにほかなりません。要は、新人はイソ弁としての修養期間を経て、無理なく、独立への道を思い描き、歩みを進められ、ボス弁は無理なく、後進を育てることができた。そして、同時にそれは、社会放出される弁護士についての、利用者にとっての安全という意味でも、一定限度貢献するものとなっていたようにみえました。

     それだけに「改革」の増員政策の結果として、事務所に机だけをかりる「軒(ノキ)弁」や、いきなり独立する「即独」が登場したとき、非常に気になったのも、これに対する既存弁護士の無理への認識でした。いうまでもなく、長年業界で繰り返されてきたこのスタイルを認識し、自らもそのなかで一人前になった彼らこそ、その無理とその負の影響を一番分かっていておかしくないと思えたからです。

     ノキ弁は経営者がらすれば雇用のハードルを下げることにつながり、新人としてはわずかに仕事のおこぼれにあずかったり、とりあえず名刺を持てるというメリットもいわれます。ただ、それは独立への修養が確保されたかつての状況とは比べものになりませんし、さらには修養を経ない新人に自らの事務所の信用をくっつける名刺を与えて果たして依頼者市民は有り難いのか、という視点が欠落している点でも、隔世の感があります。

     もっとも、ノキ弁に向って「お前、思ったより全然稼げないじゃないか」という愚痴を公然とぶつける親弁がいるという話まで伝えられていますから、もはや新人への目線は根本的に変わりつつある、ということもいえるかもしれません。それも一番の問題は、かつてと今とでは、どちらが依頼者市民には有り難い話なのか、ということになります。

     いまでも弁護士会内から、増員政策への批判的立場で出されるアピールでは必ず負の影響として、OJTの喪失が指摘されるように、雇用する個人事務所の弁護士を直撃した経済的環境の激変よって、まさに業界で長年当たり前になってきた関係は崩れはじめました。即独やノキ弁が登場する時代のOJTの確保については、会内の「改革」推進派のなかにも、それなりの危機感があり、支援の動きも出てきましたが、ただ、常に気になったのは、冒頭の「無理」に対する認識です。「改革」の現実の前に、彼らはそれをどこまでこだわるべき「無理」と考えたのか、そして、それを責任としてとらえたのか――ということです。

     「改革」批判者のなかには、その無責任さを直接批判する人たちもいましたが、「改革」推進者と多くの沈黙するその支持者は、不思議なくらい「ご時世」というように、仕方がない現実として、あるいは「改革」を推進・支持する側にありながら、どうすることもできない現実として受けとめたように見えました。少なくとも、彼らはこの現実をもって、あるいは自分たちが百も承知の「無理」の認識をもって、「改革」の結果を批判するわけではなかったし、有効な解決の見通しを持っていたわけでもなかった。

     弁護士の就職状況は既に回復傾向にあるようにいう見方もありますが、「市民のための『改革』」とは矛盾するような町弁の衰退(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)に沈黙し、企業内弁護士の将来性に注目して、会員にもっと弁護士の魅力や将来性の発信を求める「改革」推進派の、現在の姿勢も、この「無理」について(社会が思い描き、志望者が期待するような独立開業型の資格の今の姿を含め)、果たしてそれを良心的に伝えるものなのか、という根本的な疑問を持ちます。

     この間の「改革」による弁護士の経済的異変に着目した経済誌などは、決まって弁護士界内に既に階層が存在するように色分けし、大手事務所、新興事務所、中小の町弁と、それぞれに働く新人弁護士の姿をイラストで伝えたりしています。ビシッとスーツを決めた大手事務所の弁護士と、町弁、ノキ弁、即独弁護士の少々くたびれた姿には、極端・誇張しすぎという声も業界内からは聞こえてはきますが、それでも現実を社会に伝えようとする姿勢から考えれば、弁護士会推進派や主導層よりも、よほど良心的ではないか、という気さえしてくるのです。


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    「改革」と弁護士処遇をめぐる誤解

     一時代前の多くの弁護士たちには、基本的に自分たちが社会から処遇されないなどいうことは考えられなかったと思います。少なくとも、正当に処遇されないかもしれないという不安感は、たとえ報酬に対する依頼者の不満に接することがあったとしても、希薄だったのではないでしょうか。

     それは、この「改革」に対する彼らの当初の受けとめ方のなかでも、変わらなかったようにみえました。弁護士の間では、いわゆるこれまでの自分たちの「敷居が高さ」を反省として受けとめる言を度々耳にしましたが、これも本来弁護士に頼るべき人が頼れない環境を自ら作ってきたという捉え方の反省でした。

     法曹人口増の必要性への捉え方も、弁護士会の市民へのPRも同様ですが、常に自分たちは社会から必要とされ、必要とする人たちが実は潜在的に沢山存在しているという見方が根底にあります。だから、弁護士を増やせば、弁護士への誤解を解けば、報酬が透明化されれば、アクセス障害をなくせば、身近に弁護士がいれば、市民は頼ってくる。「改革」が自分たちに突き付けた努力も、そのこととして受けとめた。そして、その先に疑いもなく、自分たちは処遇される、要は自分たちに適正におカネが投入されるのだ、と(「日弁連『フレンドリー』広告の見え方」)。

     「改革」はどうもそうではない、ということを、既に多くの弁護士たちに気づかせることになったようにみえます。この誤解には、二つの要素があるように思います。一つは度々書いているように、自分たちが必要とされるという、いわば需要の有償性・無償性をごちゃまぜに理解していたこと。いうまでもないことですが、無償性の高い需要が沢山あり、そこに弁護士を求める必要論があったとしても、その受け皿になる多くの弁護士にとっては、不適正な処遇が当然のこどく待ち受けていたのです。

     そして、もう一つは、それにもかかわらず、弁護士会内を含めた「改革」主導層は、弁護士の公共性やさらには「奉仕者性」までをアピールした、とい点です。事業者性(採算性)を維持しながら、あるいは一定限度、それを犠牲にすれば、弁護士は社会の必要論に応えられる、という描き方になります(「『改革』が曖昧にした弁護士業と商業主義」)。弁護士自らか、これを可能といえば、ある意味、弁護士がとてつもなく儲けている(ちょっとやそっと事業者性を犠牲にしても、社会の無償性の高いニーズにこたえられる)と自認しているととられても不思議でありせんし、それは社会的なイメージとも合致してしまいます。

    無償性の高いニーズに向き合わなければならないのてあれば、弁護士は本来、どこからか助け舟が必要だったのです。しかし、そうした方向の議論はされなかったし、ある意味、弁護士会自らが、その「改革」スタンスによって、そうした方向の芽を摘んできてしまったのではないか、と思えます

     公共的なサービスに対して、自らが納税者であることを掲げて、無理難題を要求する層が、この社会に一定限度存在するという話を聞きます。無償でやるのは当然、普通の民間ではできないことでもやるのが当然、と。市民が行政に要求するものは、もちろん当然に認められていいものもありますが、どこか弁護士が自認した「公共的」イメージと、儲けているイメージとつながった「できる」という姿勢が、民間事業者でありながら、まるで前記公共サービスに要求するような無理を、一部弁護士に突き付ける市民を生み出しているようにすら見えるのです。

     企業内弁護士(インハウス)の急増を取り上げた8月21日付けの日本経済新聞朝刊の記事が、IT企業などでインハウスの需要が高まり、司法試験合格者の減少と、修習制度がインハウス育成に合っていないことから、人材供給が追い付いていないと報じ、これを受ける形で、同新聞法務報道部は、「弁護士は余っている」という見方は当てはまらなくなってきている、とツイートしました。

     しかし、この記事には、採用する側の意向ばかりで、不思議なくらい弁護士の適正処遇に触れるところがありません。ある弁護士ブログが指摘しています。

     「募集に応募がないのは、提示している条件が低いことが原因でしょう。相応の対価を支払おうとはしない求人は、そもそも需要とは言えないのです。法科大学院への学費負担、司法試験不合格のリスク、司法修習の貸与、学部卒業時に就職しなかったことによる逸失利益。これらの経済的負担やリスクを負ってまで弁護士となったことに見合う対価が得られなければ、これから弁護士になろうと思う人は出てこないでしょう」
     「この記事に対する一番の違和感は、たしかに企業が提示した条件に応募がなかったのだとしても、その企業があまり困っている感じがしないところだと思います。企業にとっては、『いると便利』かもしれないが、『いなくても別になんともない』のが、今のインハウスの実態ではないでしょうか」(「Schulze BLOG」)

     つまり頭から、弁護士を適正に処遇していない可能性を疑うことなく、「弁護士が余っている」わけではないと、決めつけているのです。沢山いながら、こちらの条件をのんで来ないのは弁護士の勝手、ということになりますし、そういうイメージが一般化すれば、それこそ前記ブログ氏がいうような「改革」が生んだ、今の弁護士の現実につながる問題に、ますますたどりつけないはずなのです。

     しかし、ここには弁護士・会側の責任もあります。「改革」のなかで、自分たちが何を誤解し、どういうスタンスが逆に社会の誤解を招き、またその誤解を止められず、自らの適正処遇に跳ね返る現実を生んでしまっているのかーーそうした視点が必要なはずなのです。


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    「改革」が曖昧にした弁護士業と商業主義

     弁護士の業務広告の「解禁」が注目され出したころ、ある広告業界の人間が、これに懸念の声をもらしたのを覚えています。「弁護士・会は大丈夫だろうか」と。もともと全面禁止されていた弁護士の広告が、1987年に「原則禁止・一部解禁」となったときも、2000年に「原則解禁」となったときも、広告業界では、これに注目し、そこにビジネスチャンスがないかを模索する動きがありました。

     しかし、当初、同界関係者からは、ほどなく少々肩すかしを食らった、当てが外れた、という声を沢山聞くことになりました。それは、予想以上に当の弁護士が広告に食いついてこなかったから、でした。当時の多くの弁護士のなかには、広告で依頼者を集めるということに、まだ、抵抗感があった。彼らは、意識として、広告と弁護士業務をつなげてみていなかったし、まだ、手段としても妥当なものとはとらえられなかったのです。

     ただ、前記広告業界の人間が、「大丈夫か」と懸念したのは、そのことに関してではありませんでした。それは端的に言えば、そうした弁護士の広告に対する消極的な意識のことではなく、むしろ広告そのものへの認識についてでした。弁護士会の広告規制緩和の方向は、常に情報公開という目的だけで議論されているように見えるが、実際の広告はもっと積極的な顧客誘引を目的としたものであり、その目的のために、手段が駆使されるのが広告なのだ、と。

      「解禁」といっても、本来のあるべき弁護士の姿、あるいは他のサービス業とは違う実害をにらんで、規定によってさまざまな規制がかけられている弁護士広告。それを一見した広告業界関係者のなかには、「こんなに手かせ足かせでは、広告として難しい」、要は前記駆使できる手段を駆使できない、という人もいました。

     しかし、前記関係者はそうではなくて、もし、弁護士が弁護士業の特質から規制をかける方が、ふさわしい、それの方が依頼者への実害がない、と考えるのであれば、この方向は果たして「大丈夫なのか」というのです。競争が激化すれば、そうしたあるべき形を乗り越えて、むしろ現実の広告、つまりは、顧客誘引につながる、それなりの誇張や有利な情報の抽出、正確な事実よりも、より顧客が魅力に感じるような比較や表現などが駆使される現実に、弁護士は徐々に取り込まれるのではないか、というのでした。

     ここで感じたことは、結局、弁護士業と商業主義の位置取りは、一般には分かりにくいという現実でした。そして、いま、改めて考えてみれば、この「改革」の推進論のなかでも、弁護士自身がどこかこのテーマをあいまいにしてきたように見えるのです。

     弁護士の増員政策による、これまでになかった競争状態の到来に、多くの弁護士は、これまでとは違った一サービス業としての自覚の必要性を感じた、ようにみえます。逆に「改革」が自分たちに、その覚悟を求めたのだ、と。当然、弁護士の特殊性よりも、むしろサービス業としての一般性により着目し、他のサービス業が駆使している手段を、もっと自分たちも選択すべき、という方向になります。

     ところが、「改革」路線、また、これを受けとめた弁護士会主導層は、ある種建て前ともとれる姿勢をとり、ストレートにそうした自覚を会員に求めたわけではなかった、といえます。むしろ、そこで強調されたのは、それまでの個々の弁護士が当事者主義訴訟構造のながて実践してきたものでは足りないとする、プロボノを含む「公益性」、それを受けとめる「奉仕者性」だったのです。

     以前も書きましたが、弁護士の「改革」を主導した中坊公平弁護士は、当時、弁護士像に対する二つの考え方を提示し、「一つは、当事者性・事業者性を中心において、公益性を希薄化させる考え方。もう一つは、当事者性・公益性をともに追求しつつ、そのこととの関係で事業者性に一定の制約が生ずることを是認する考え方」として、「市民や社会が求めているのは後者」と結論付けていたのです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     「改革」の先には、これまでサービス業として商業主義を意識してこなくて済んでいた弁護士たちが覚醒を余儀なくされ、社会はこれからそういう弁護士たちを見ることになるのだ、ということよりも、これまでなんだかんだいって儲けていた弁護士が、「改革」によって、逆に事業者性を制約してまで、「市民や社会の求め」に応じて、公益性に目覚める、と。それが「改革」なのだ、ということを弁護士にも、社会にもアピールしたことになります。

     この「市民が求めているのは後者」という断定は、あたかも前記公益性と事業者性の両立が、弁護士の一存で、いわば心得一つでなんとかなると描いているようにとれますが、逆にそれが成り立たせるための現実性、採算性という視点を遠ざけた、といえます。

     ただ、「改革」について肯定的にみていた会員のなかにも、この点を懸念する見方はあったのです。2004年に行われたシンポジウムである「改革」推進派の弁護士は、こんな認識を示していました。

     「21世紀の日本の弁護士の特徴は、弁護士人口の増加、それからこれからの日本の社会構造が、だんだんと弁護士のサービスを必要とする社会構造になっていくということで、弁護士の活動の場が非常に大きくなっていくと予想しています。(中略)企業の社長から、政府機関、国際機関、NPO等でも活躍される方が増えていくのではないか」
     「弁護士の専門家、業態の多様化、例えば過疎地に公設事務所ができたり、弁護士100人規模の事務所がたくさんできたりというようなことで、非常にバラエティーのあるニーズに応えていくことができるようになるのではないか、と思います。また、規制緩和が進んで、市民が弁護士にアクセスしやすくなるのではないか」
     「弁護士間の競争が、これは弁護士人口がふえたりして激しくなりますから、例えば、弁護士の報酬等が一層透明化して、いわば市民に利用しやすい市民本位の弁護士制度に多少ともなっていくのではないか」
     「逆に幾つかの課題が生じることも事実ではないかと思います。(中略)弁護士の産業化現象、あるいはコマーシャリズムというものが浸透していく可能性があります。これは規制緩和の裏返しの問題ですけれども(中略)今までは弁護士はある程度特別な職業とみられていたのですが、だんだん普通のサービス業だと考えられるようになる」
     「そうすると、弁護士はサービス業なんだから儲けてもいいじゃないかと考えるようになる人が、かなりふえてくるのではないかということであります。こうなりますと、金のある人には業務を提供するけど、そうでない人には提供しないというような問題も起こってくる、そういう可能性があることを私は憂慮しています」(シンポジウム「21世紀の弁護士像及び弁護士会のあり方」

     これを読んだ、「改革」論議を知らない、若い弁護士のなかには、後段で指摘されている「課題」か、そもそも、なぜ「課題」なのかも伝わらないかもしれません。いうまでもなく、弁護士増員を通して「改革」が突き付けた現実からすれば、産業化もコマーシャリズムの浸透も、サービス業としての採算性の追求も、当然帰結ととらえておかしくないからです。

     今、「改革」の結果を知ってしまった目線でみると、前段の効用は非常に楽観的な、「改革」への期待の羅列でしかないという気持ちになりますが、それ以上に、当時の視点で考えて見ても、後段のような課題(これを課題とみるならば)が生じることが分かっていながら、どうして前段の「成功」が成り立つと考えられたのかに、不思議な感じがしてきます。前記中坊氏の見立てとも重なりますが、一定のサービス業化は求められても、弁護士の心得次第で増員弁護士が生存し、弁護士が市民や社会の求めにこたえられるほどの、経済環境が生まれるといった、とてつもない楽観視があったとしか説明のしようがない、といわざるを得ません。

     一方で「改革」の自覚として受けとめながら、その成果・結果を成り立たせる現実や条件を切り離して、都合よく、描いている――。あの日、広告業界関係者が弁護士広告への弁護士・会の姿勢に感じたことも、このことではなかっかと、いまさらのように思うのです。


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    変わらない弁護士報酬「不評」から見えるもの

     相変わらず、弁護士会外の人間からは、弁護士報酬の高さについて不満の声を聞きます。ネットなどで情報にアクセスでき、弁護士側もかつてに比べれば情報開示に積極的になっているわりに、一般的には依然として相場観のようなものが形成されていない、ということは、以前も書きました(「弁護士報酬をめぐる不安感と不信感」)。
     
     額の高さの不満には、どうして安くならないのかという根本的な疑問が張り付いています。弁護士の数が増え、競争状態になっているのならば、価格も下がるはず、ということは、イメージしやすく、そこは当然、低廉化への期待感にもつながります。現に「改革」の増員論そのものが、その効用として競争がサービスの良質化と低額化をもたらす、というイメージを植え付けてきた面は否定できません(「法曹人口増員路線が『実証』した社会」)。

     根底には弁護士業務の実態への無理解と、競争についての誤解があります。過払い請求のような大量処理ができる定型的業務を除けば、およそ弁護士の業務の多くで薄利多売化が困難。大企業のように弁護士とのつながりのように反復継続する関係は別として、多くの一回性の関係となる市民との関係では、市場原理そのものが働きにくい。したがって、大量な弁護士を支えるニーズが生まれなければ、それを分け合う弁護士が扱う単価はむしろ上げなければ成り立たなくなり、仮に大量の低廉なニーズが生まれても、弁護士の処理には限界があって、それはそれで成り立たない。

     つまり、前記したような「改革」の増員政策が、イメージ化させているようには、単純化できない事情を弁護士は抱えていたのです。しかし、それがなぜか、この「改革」のなかでは、基本的に顧みられていない。相談無料化の流れや、法テラスの処遇面の問題にも、その無理解は反映しているととれます。

     しかし、その責任は、弁護士会側にもあります。会内の「改革」反対・慎重派や個々の弁護士の中からは、前記したような当たり前の弁護士の実態と「改革」の無理は当初から指摘されていましたが、「改革」推進の会主導層は、「低廉化」ということを期待させる直接的な表現こそしなかったものの、「改革」の無理をきちっと指摘もしなかった。弁護士の現実を一番知っている人間たちが、「改革」から生まれる誤解に手を貸した、といっても言い過ぎではありません。

     もともと弁護士会は、報酬の問題を、情報公開の問題として捉えてきました。つまり、分かりにくさにこそ、問題があり、透明化しさえすれば、理解は付いてくるという楽観論です。それに「改革」では、「二割司法」論に影響された潜在需要論からの増員肯定論が加わっています。これまで弁護士を利用できなかったり、利用できることを知らなかった人が沢山存在し、彼らは弁護士の増員を待望し、おカネを投入する用意があるという描き方。要は、増やしさえすれば、その有償のニーズで支えられるという、これまた楽観論です。

     つまりそう言う意味では、彼らの「改革」推進論のなかには、実はどこにも低廉化の要素などないのです。彼らはもっと言わなければ、いけなかったのです。弁護士の仕事が「薄利多売」化はできないことを。きちっとした有償のニーズで支えられなければ、生存できないことを。そして、無償性の高いニーズを支えるための人材が多数いる、というのであれば、それを支えるための手立てがなければ、土台無理であることを。

     「市民のため」の「改革」といいながら、結局、大企業にとってだけ、弁護士の使い勝手がよくなったのではないか、それが「改革」の目的ではなかったか、という捉え方も、弁護士も「過払いバブル」でなんとかなると勘違いしただけという見方も、前記した理屈からすれば、当然の「改革」の帰結といえるのです。

     「改革」の前にも後にも、弁護士の報酬に対する社会の評判が変わらない(良化しない)現実は、「改革」の無理と、それに対する弁護士会のスタンスの問題を象徴しています。


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    弁護士の「地位」と失われつつあるもの

     「弁護士の地位」という言葉から、今、弁護士会内の多くの会員は、まず、どういうことを思い浮かべるのでしょうか。「改革」の増員政策によって、弁護士がこれまでにも増して、競争や淘汰を意識するようになるなか、経済的に恵まれている、高い社会的地位に、これまでのようにあぐらはかけない、という自省に向う脈略で、この言葉をとらえる人はやはり少なくないように思います。

     しかし、思えば、一時代前まで、この言葉は、主にそういう脈略で弁護士がとらえるものではなかった、といえます。つまり、弁護士の社会的地位は、もともとは低く、現在の高い地位は、獲得したものである、という脈絡のなかで語られていた。前記した脈絡が、弁護士個人の経済的職業的な利益・保身というイメージのなかだけでとらえられているのとは対照的に、その職業的地位向上の目的には、単に個々の資格者の利益ではなく、あるべき司法のため、という「正義」が描き込まれてもいました。

     そもそもこの世界には、かつてそういう話をする先輩たちが沢山いました。現在、50歳代以上の弁護士たちには、そうしたことを「価値」として受け継がれた共通体験も少なからずあるようです。イソ弁と親弁、会内の先輩・後輩の関係も変わり、「改革」のなかで、前記したような脈絡でまず、とらえることが当たり前の業界ムードのなかでスタートした弁護士たちには、歴史としての知識はあっても、それ以上に守り、継承すべき「価値」という実感がない。あるいはそういう切り口自体、大時代的なものとして、よそよそしくとらえたとしても、それは仕方がないことというべきかもしれません。

     1970年に故・大野正男弁護士(元最高裁判事)が発表し、2013年に日弁連法務研究財団が復刻、出版した論文「職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史」(「弁護士の『本質的性格』と現実」)のなかで、同弁護士が日本の弁護士階層の歴史的特色として、「弁護士の地位の向上」に関して取り上げているところがありました。

     明治初期以来、判検事を中心に、彼らとは別々の二元的な法曹養成制度がとられるなかで、差別的な扱いを受けた当時の弁護士階層の最大関心事は、まさに「司法における弁護士の地位の向上」だった、と、同論文は指摘しています。身分的差別の背景には、外国からの輸入制度であることからの、プロフェッションとしての職業的伝統の欠落や、公事師からの人的つながりによる社会的不評もあったといいますが、当初の弁護士の地位向上は、前記した法曹養成度のあり方からくる「判検事に対する水平運動」だったことが書かれています。

     そして、興味深いことに、この二元的法曹養成制度に対する「水平運動」のなかで、弁護士階層が掲げた基本的主張が、弁護士自治、陪審制、法曹一元の3つだった、というのです。一元的な法曹養成制度は、戦後の社会変革のなかで実現し、弁護士は強固な完全自治も獲得し、官僚法曹からの独立が実現。そうした司法における地位の向上が、その後の社会的地位の確立にもつながっていきますが、弁護士会が現在に至るまで死守を掲げ、あるいは悲願としてきた「価値」の源流は、この「水平運動」にあったということになります。

     ただ、同論文のなかで大野弁護士は、現在の弁護士のあり方にもつながる、次のような重要な指摘をしています。

     「しかし、弁護士階層の水平運動が、司法という枠の中に限局され、自らの職業がどのような社会的適応性をもっているかという社会的視野に欠けていたことにも、注意する必要がある。法曹一元運動の挫折にみられるように、判検事は非常識、弁護士は常識的で社会に明るいという観点のみから、その正当性を主張しても、それを裏付けるに足りる弁護士に対する社会の信頼がなければ、実現することは不可能である」
     「法曹一元論は、弁護士の年来の主張であるが、不幸にして、今日に至るまで、社会からの要求・支持の面では、みるべきものがない。水平運動としての法曹一元運動が、それなりの正当性をもちながら、弁護士階層の主張に限局され、なぜ横への――すなわち社会への――広がりを持ちえないのか、が問題なのである」

     前記したような歴史的経緯をみれば、弁護士の司法における地位向上は、その後の、社会の彼らに対する位置付けという意味での、社会的地位に影響したことは事実ですが、その一方で、弁護士が死守・悲願を掲げてきた前記3つの主張の現実をみれば、実は彼らが考えてきた以上に、その地位の社会的な根は浅いものではなかったか、と思うのです。

     あえていえば、少なくとも彼らが獲得した社会的地位とは、経済的成功者として羨望のまなざしでみられる社会的立場以上に、法曹一元や弁護士自治を当然に、社会が期待し、支持するような存在ではいまだなかった、ということです。

     そのことを決定的に示した、というよりも、その決定的な弁護士の弱点を突かれてしまったのが、今回の「改革」ではなかったのでしょうか。弁護士の一部が期待した法曹一元の実現は、この「改革」の路線から早々に外されただけでなく、弁護士の激増政策によって、社会的な評価においても、会内の弁護士の意識としても、決定的に遠ざかってしまいました(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。そして、その増員政策による経済的激変は、強制加入と高い会費の負担を規制としてとらえる会員意識を生み、自治の内部崩壊が指摘されています(「『弁護士自治』会員不満への向き合い方」)。陪審制度は、国民の司法参加として裁判員制度によって前進したと強弁する弁護士はいまでも一部にいますが、両制度は全く別のものであり、かつ、そもそも裁判員制度は国民の支持を得ているとは言い難い状況です。裁判員制度は陪審制度への一里塚にはなりません。 

     まさに「自らの職業がどのような社会的適応性をもっているかという社会的視野に欠けていた」といえる「改革」によって、弁護士は、経済的な地位だけでなく、長年依って立ってきた基盤や「価値」までも脅かされ、あるいは葬られようとしているのではないでしょうか。そもそも弁護士自治や法曹一元を社会全体が評価し、期待することは困難で、その「価値」は弱者・少数者救済や反権力的な立場からではないと理解されない、という主張もあるかもしれません。だとすれば、なおさらのこと、日弁連・弁護士会は「改革」へのスタンス、会員対策も含めて、それを成り立たせることから逆算した政策・主張を果たしてしているのか、という疑問にも突き当たります。

     「改革」が「弁護士の地位」を変えるかわりに、何を社会にメリットとしてもたらすのか、現実的には全く見えなくなってきているだけに、ここは社会の側もこだわるべきところのはずなのです。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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