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    弁護士の社会的信頼と経済的地位への目線

     以前、当ブログのコメント欄に、弁護士に対する社会的信頼の源泉が、公益活動や人権擁護活動である、といった弁護士界でよく聞かれてきた論調について、次のような書き込みがありました。

     「それは違う、と言っておく。弁護士に対する社会的信頼の源泉は、 高収入 だ。すなわち、それは 仕事ができること を意味する」
     「年収300万でボロビルの片隅で事務員もなしにやってる弁護士がいるとして、そんな弁護士と、六本木ヒルズのようなビルで美人秘書を侍らせてベンツに乗ってる弁護士とを比べて、どっちが信用されるかは明白でしょう。前者の弁護士が、人権擁護のため毎週刑務所に行って話を聞いてる、とか、国産(国選?引用者注)たくさん抱えて奔走中、といっても、後者の弁護士には到底信用ではかなわんだろ。前者の弁護士よりも、でかいビルに入っているような大企業とか、警察とか、そっちの方がよほど世間から信頼されてるよ」
     「弁護士が国民的基盤と言うためには、強靭な経済力に裏打ちされた社会的権威がなくてはダメですよ。少なくとも、もうかならいような方向に誘導している今の方針では、低くみられて利用されるだけですよ。現実、今ってそうでしょ?」(「『国民的基盤』論の危い匂い」)

     匿名のこの文を、弁護士が書き込んでいるという確たる根拠はありませんし、これを利用者市民が書いているとすれば、それはそれで評価が違ってくるかもしれません。しかし、弁護士の社会的信頼とか、地位の向上という文脈では、冒頭の、いわば表の「源泉論」の陰で、経済的地位あるいは安定感の向上が大きくそれに貢献したということもまた、多くの弁護士は当然に認識してきたことのはずです。

     およそ江戸時代の「公辞師」や明治時代の「代言人」に遡って語られる弁護士の社会的地位向上の歴史談のなかでは、二つの点が強調されます。一つは弁護士法や統一修習の実現といった制度的完備の効果、もう一つは、前記「源泉論」に直接つながる公害訴訟、消費者訴訟をはじめ市民のために闘う弁護士のイメージの広がりです。

     以前も書いたように、かつて弁護士界にはこういう話をする先輩会員が沢山いて、若手は今よりもそうしたことの「価値」を聞くことがあり、また、それによってその共通認識が出来ていた時代がありました(「弁護士の『地位』と失われつつあるもの」)。

     しかし、その一方で、弁護士の経済的地位、その基盤の安定性が持つ意味を彼らは当然に分かっていたのです。それが独立し、自由な弁護士活動、あるいは前記「源泉論」を支える活動を可能にすること(「経済的自立論」)。そして、そうした経済的自立が可能になる、恵まれた資格であればこそ、多くの優秀な人材、さらには経済的リターンを前提に裕福ではない家庭の人材も参入にチャレンジする世界であること、を。

     今回の司法改革論議にあって、ある意味、弁護士にとっての失敗の原因の一つは、やはりこの観点がまず後方に押しやられてしまったことにみえます。有り体に言えば、弁護士が一定の経済的成果を犠牲にしても、前記「源泉論」につながる活動をするべきだ、そのために増員政策が必要である、と(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」「弁護士と社会が払っている本当の『犠牲』」)。

     弁護士の使命、国民的基盤を強調する弁護士会の基本論調を考えれば、、経済的に自縄自縛となりかねない方向を自省的に受け容れることは、むしろ必然的てあったようにもとれます。「経済的自立論」でさえも、自虐的ともいえる「社会に通用しない」論で封印すべきとする声が出されました。弁護士(会)は、経済的不安を省みず、この論調に乗っかる形で、当時の会主導者の「大丈夫」の掛け声のもと、無理な激増政策を受け容れることにもなったのでした。

     そして、さらにそれと一体の法科大学院制度導入、「給費制」廃止といった、人材確保という意味でも、資格の「価値」という意味でも、経済的におよそ足を引っ張ることになる政策が推し進められたのです。

     前記コメントに繋がる、弁護士の経済的基盤を後方に押しやった失敗は、まさに「改革」の結果が証明したというべきではないでしょうか。

     投稿者の指摘は、単に弁護士の社会的イメージの問題ではないといえます。「金満・拝金弁護士が良いというのか」という意見がすくざま返ってきそうですが、それをいうならば、経済的に不安定のイメージの方が利用者に金銭面の不安を与えかねない、という言い方だってできてしまいます。

     「六本木ヒルズ」や「美人秘書」や「ベンツ」はともかく、むしろ、見落とせないのは後段の「強靭な経済力に裏打ちされた社会的権威がなくてはダメ」と、「少なくとも、もうかならいような方向に誘導している今の方針では、低くみられて利用されるだけ」という言葉です。弁護士会自身が呼び込み、旗を振った「改革」の結果は、少なくとも今の弁護士たちからみて、この言葉に説得力を持たせるものになっている――。前記表の「源泉論」だけにしがみつくのではなく、会主導層は、もう少し、そうした現実にも目を向け、それを踏まえるべきです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    弁護士報酬をめぐる認識の溝

     報酬というものを挟んだ弁護士と利用者市民の関係は、司法「改革」によっても実は大きく変わっていないという印象があります。その変わっていない関係とは、端的にいえば、「無理解」ということを挟んだ関係であるといえます。弁護士報酬といえば、利用者側にとっての分かりにくさ、さらに高額への不満という側面で語られがちですが、その一方で、弁護士側にも実は延々と「不当性」を掲げられることへの不満もあるのです。

     「改革」が、この溝を埋めるものになってきたかといえば、それは甚だ疑問です。いや、むしろこの「改革」によって、両者の溝は逆に結果的に広がっているのではないか、と思います。個々の弁護士がネットで情報を発信できる時代、費用そのものはかつてよりも市民に伝わり安くなっているはずです。しかし、その一方で、弁護士がよりカネ儲け主義に走っているという言説は、かつてより見かけるようになりました。そして、弁護士からすれば、より経済的にペイしにくい案件まで、カネ目当て的に評されることに不満を募らせている話もよく耳にするようになっています。

     背景には、弁護士増員政策による、市民側の弁護士に対する、いわば過剰期待もあるようにみえます。弁護士が増え、競争・淘汰が起こる先に、弁護士側の努力による質の向上や低額化が当然起こる、ということを「改革」は社会にイメージさせました。弁護士がかつてより増えたということは社会に周知され、それによって当然により安く案件を引き受けてくれる弁護士はいるはず、という認識は広がった。高ければ選ばなければいい、選ぶのはこちらなのだから、努力してなんとかする、代わりの弁護士はかつてと違って、いくらもいるだろう、と。

     それが「改革」が目指したものではないか、という理解がされること自体は、ある意味、仕方がないといえます。いうまでもなく、現に「改革」そのものがそういう発想で、弁護士報酬の不当性の認識のうえに立脚していた、といえるからです。

     「改革」論議当初の1990年代、推進論者による弁護士・会批判のなかでは、そのことが露骨に示されていました。弁護士・会は「競争=非倫理的」という利用者を無視した発想に立ち、質を維持しながら、価格を低下させるような努力を怠っている。当時の報酬基準は、水準低下を防止しようとするもので、報酬規定は価格競争を制限し、報酬を「不当に」引き上げるものである、と(三宅伸吾・著、「弁護士カルテル」)。

     問題は、当時の弁護士会の「改革」主導層が、この論調に対して、言うべきことを言ったのか、という点にあります。つまり、個々の会員の業務に直結する、弁護士の報酬水準の根拠や正当性について、どこまで弁明し、理解を求めたのか、ということです。当時の弁護士会側の認識は、あくまで報酬規定による関係を改め、顧客との信頼関係による自主的な報酬額設定にすることともに、額としての、「透明化」「明確化」を強調するものでした。

     これは、一方で、事実上、弁護士・会側が前記「不当性」批判を自省的に受けとめたとされ(現に、当時の会外の「改革」推進論者たちには、増員政策の受け入れとともに、弁護士・会は、この点で姿勢転換を余儀なくされたととった)、しかしながら、その一方で、弁護士・会側の基本認識は、あくまで報酬を情報公開の問題ととらえていて、透明化さえすれば、利用者の理解はついてくる、という楽観論に立っていたものでした(「変わらない弁護士報酬『不評』から見えるもの」)。

     結局、この結果として、弁護士報酬への利用者の本質的理解というテーマは完全に抜け落ちてしまった。なぜ、弁護士の費用が高額になるのか、さらに弁護士も採算性を追及しなければ、個人事業者としてもたないこと。増員政策によって、より厳しい経済環境になるにもかかわらず、そこが強調されず、依頼者のリテラシーは高まらないまま、一方的に「改革」の成果だけが期待されたところに、今の溝の深まりがあるのではないでしょうか。

     弁護士報酬が高額化になる理由として、この仕事が個々の案件に応じた、いわば「オーダーメイド」であることを指摘した弁護士がいました。また、過払い請求のような形式処理できる案件以外、薄利多売化が困難で、かつ、採算性に関係なく、同様の手間がかかるという面も、理解されていない、という不満を弁護士から度々耳にすることがせあります(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。

     これらの主張が、本当に利用者に理解されにくい話なのかといえば、それも疑問といわなければなりません。いくら質が同じならば、安ければ安いにこしたことはない、といっても、さらに利用者が選択できるといっても、この質で安くやれという要求が常に通るわけもないことは、さすがに誰でも分かることだからです。まして限りなく無料に近ければお願いしたい、という欲求を、別の前提的条件抜きに、業として成り立ちニーズと扱う業界もない。弁護士という仕事に強く張り付いたイメージの問題もありますが、そういうニーズにこたえるのが使命だというのであれば、それこそそこについては、逆に普通のサービス業と同じ枠組みで考えてはいけない、考えられない仕事ということなのです。

     実際は、この報酬を挟んだ認識の広がりに、むしろ諦めに近い声を弁護士の中から聞くことになっています。個々の弁護士の力でどうかできることにはもちろん限界がありますし、経済的に余裕のない状況であればなおさらのこと、理解されない利用者は、「極力相手にしない」という選択肢しか現実的にはない、ということも理解できるところではあります。

     やはり「改革」によって、結果的に積み残されてしまっている問題のように思えてなりません。


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    失われた発想と生まれた発想が意味するもの

     個人事業者として見た場合の、弁護士の特殊性は、何と言っても弁護士法1条の使命を抱えていることといえます。つまり、他の事業者同様、自らの事業活動による収益で生存していく前提でありながら、同条にある「基本的人権の擁護と社会正義の実現」を使命とするという、人権と公益にかかわることが宿命付けられているということです。

     そもそもが限界を抱えた、一見して無理をはらんでいるようにも取れる、この仕事の性格の特殊性が、従来、あまり問題化せず、内的にも外的にもなんとなく成り立ってきたのには、二つの要素があるといえます。一つは、弁護士の経済的な安定性の担保。弁護士は、収益性の高い活動で経済的に安定させることで、採算性がとれない活動が可能になる、という考え方は、弁護士会内で一昔前まで当たり前のようにとらえられていました(「『経済的自立論』の本当の意味」)。

     もっとも、儲けた先に、それがどの程度「使命」への貢献になっていたのかは、各弁護士の意識によっていた、というべきですが、逆にこの世界に根強く存在して来た、「弁護士はビジネスではなく、プロフェッションである」という捉え方を、それが矛盾なく支えてきたともいえます(「弁護士『プロフェッション』の行方」)。

     そして、もう一つの要素は、弁護士会という存在です。前記「使命」達成へ弁護士個人が抱えている「限界」があればこそ、その先を担うものとして弁護士会があった、ということです。弁護士会の活動への参加や意識もまた、個々の弁護士によって濃淡があり、現実的にはかつても消極的な関与者は絶対的に多数だったといっていいと思います。しかし、サイレントマジョリティが支える形のなかにも、前記「使命」とつながる弁護士会に対する、一応のコンセンサスがあったようにみえました。

     度々話題になる、高い会費にしても、強制加入への諦念や、あまり気にしなくても済んできた前記経済的「余裕」だけではなく、自らは活動に参加しないが、協力・貢献はしている、という納得の仕方が、公費で養成されたという意識の裏打ちもあって、会員の中には確かに存在していたということです(「弁護士会費『納得の仕方』から見えてくるもの」 「『改革』のあいまいさと職業モデルの関係」)。

     司法改革は、この弁護士という資格の特殊性を支えてきた「形」を結果的に壊すものになりました。いうまでもなく、弁護士の増員政策は、前記「形」を支えた経済的安定性を奪っただけでなく、個々の弁護士が競争と採算性を意識せざるを得なくなるなかで、これまでの「形」そのものに疑問を持つ方向になりました。「改革」は自分たちに、普通のサービス業としての自覚を迫ったのであるから、その中で、考えるべきではないか。そして個々のバラツキのある使命感に支えられてきた「形」ではなく、「改革」が求めている自由競争の中の、対価性のなかで達成されるものとして使命をとらえるべき、という発想へ――。

     そして、こういう発想に弁護士がシフトし出したとき、従来の発想のうえに成り立ってきた、前記強制加入と高額会費を伴う、弁護士会に対する、彼らの位置付けも変わってきた、というべきです。つまり、弁護士のあり方についての再定義をはらんだ前記発想に立ち、自由競争のなかで「覚悟」を迫られている弁護士たちにとって、負担だけがのしかかる、むしろ弁護士会自体が、その「覚悟」の足を引っ張る規制のように映り出したのです。

     しかも、困ったことに、この「改革」の旗を振ったはずの弁護士会自体は、旧来の「形」をどうやら現在においても壊すつもりはない、というか壊すことになる「改革」の旗を振ってしまった自覚はないようなのです。有り体にいえば、「改革」以前の弁護士が経済的余裕のなかで、一部の強い使命感と、多数の基本的なコンセンサスによってきた「形」が、(あるいは表向き)今後も維持できると思っているということなのです。

     一方で、弁護士の増員政策を止めようとせず、弁護士会員が自由競争への「覚悟」を迫られる状況を横目にみながら、いつの日にか有志たちが新たな需要を開拓し、かつての「形」を取り戻す、と。事業者性を多少犠牲にしても、これまで以上に弁護士は奉仕者性を高められるはず、という、当初の弁護士会「改革」主導層の発想は、思えば需要顕在化の見通しだけでなく、そもそも自由競争が弁護士にどういう覚悟を迫っるものになるか、現実的に想定できていなかった、というべきです。ところが、「改革」の結果がはっきりした今も、その発想が変わっていないようにとれてしまうのです(「弁護士と社会が払っている本当の『犠牲』」)。

     個人事業者としての経済的安定性によって、採算性がとれない案件を弁護士が使命感で引き受け(られ)、弁護士会そのものがそうした使命感への了解のうえに、強制加入と高額会費を維持できた「形」。それを今の弁護士たちが、過去のものとして批判的にとらえること自体は、もはや仕方がないことであり、むしろ「改革」の成り行きとして当然のことというべきです。

     問題はむしろそこではなく、その「形」がかつてなんとか背負っていてたものは、「改革」によってどうなったのか、これからどうなるのか、ということの方です(「弁護士の活動と経済的『支え』の行方」)。法テラスはそのその代わりとして、無償性の部分をきちっと担っていると胸を張れるのでしょうか。弁護士の犠牲的精神に依存する形は変わったのでしょうか。そして、本当に今後も弁護士が支えることに期待するのであれば、今、何が必要なのかは議論されているのでしょうか。 

     「弁護士を追い詰めても、結局手弁当の部分はなくなるだけ、成立しなくなるだけ」。かつて、この「改革」の結果を、こう懸念した弁護士がいました。それが現実のものになり、むしろ「手弁当」の過去の、無理とサービス業としての不健全さの方が強調されかねない状況で、私たちの社会が現実的に何を失おうとしているのかを問い直さなければ、あるいは弁護士に依存することの無理と限界がはっきりしただけの「改革」になってしまいます。


    弁護士会の会費についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4822

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    弁護士と社会が払っている本当の「犠牲」

     今の弁護士が置かれている現実から考えると、もはや忘れてしまいそうになる、と言いたくなりますが、今回の司法改革は当初、弁護士にプロボノを含めた「公益」に対する奉仕者性を求めたものでした。いま考えれば、弁護士を増やし、より競争・淘汰にさらさせる中で、なぜ、これが以前より実現できると想定したのかは、不思議な気持ちにもなります。

     要するにこの想定には、もともと弁護士は、公益に資するような顔をしながら、ビジネスとして儲けている、それによる経済的余裕があるという、捉え方が前提的にあったとしかいえません。つまり、有り体にいえば、ちょっとやそっと金儲けを犠牲にして、公益のために汗をかいても、弁護士という仕事はやっていかれるはずだ、むしろ、そうしなかったこれまでが、社会にとっては不利益だったのだ、という捉え方になります。

     そして、この「改革」を受けとめた弁護士会主導層が、少なくともいったんは、この発想を受け入れたといえます。現に、弁護士会内で「改革」路線を主導した中坊公平弁護士が、事業者性の犠牲のうえに公益性を追求する弁護士のあり方を是とし、市民・社会が求めているのは、これであると言い切っていたのでした(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     もし、この「改革」が本気でそれが実現できるということを前提的に想定していたのであれば、現時点ではそれだけで、この「改革」は失敗だったといえます。「改革」によって、明らかに弁護士は、制約どころか、より事業者性の方を意識せざるを得なくなったからです。公益性への貢献は、よりその枠内で、いわば余裕があればその範囲で行うものとするべき、という意識は強まったのです。

     さらにいえば、「サービス業」としての自覚が進むなかでは、そこがあいまいだった過去の弁護士の姿を望ましくないものとする考え方もより広がった。無償性への誤解が、事業者性、採算性を脅かすという現実に当たっているからです。前記事業者性の犠牲で、公益性がカバーできるというのは、あくまで経済的余裕がなければならず、そもそもその公益性を何としてでも弁護士がカバーしなければならないものであるならば、サービス業の犠牲に期待すること自体に無理があり、むしろそれはふさわしくないという発想になります。

     もし、「改革」が本気で弁護士の公益性を、さらに目覚めさせようとするのであったのならば、むしろ弁護士界内で主張されてきた「経済的自立論」をあたかも古い考え方のように葬らず、それを前提的にとらえるべきだったともいえます。医師の場合の、保険制度のような経済的な支えがなくても、弁護士を激増させて競争状態においても、それでも弁護士がこれまで以上に、公益に奉仕する存在になれるなどという無謀な見通しが、土台無理な話だったのです。

     しかし、この無理を分かっていた人間も業界内には沢山いたのです。つまり、公益性あるいは非採算性へのアプローチとしては、これは明らかに後退する結果を生むという見通しから、この方向に異を唱えていた人たちです。有り体にいえば、これまでボランティア精神からそうした案件を支えてきた人材、たとえそれがこれまでも相対的に少数派であっても、結果、それも生存できなくなる、根絶やしにされる方を危険視するべきだということ。そして、その結果こそ、弁護士への攻撃という「改革」の正体である、という人たちもいたのです(「貧困なる精神134 『司法改革』で日本の裁判は本当によくなるのか(6)」)。

     一連の「改革」路線の結果なかで、推進派にもっとも深刻なダメージを与えた、いわば無視できない結果として突き付けるものとなったのは、法曹志望者の減少という事態だと思います。法科大学院擁護派も含めた「改革」推進派は、その根本的な原因が、増員政策による経済的価値の下落を含む弁護士資格そのものの変質にあることから極力目をそらし、法曹養成制度をいじくることで解決できる問題ととらえたがっているように見えます。

     一方、前記したような弁護士の現状からは、最近、これからの弁護士が生き残るのにはより起業家センスが必要だとか、大事務所や組織に雇用される方向を選択肢として推奨する意見が出され、経済的な意味においての、新たな意識や覚悟で事実上、人材が選別される形が生まれつつあるようにみえます。逆に、現状に耐え得る人材よ来たれ、というメッセージの発信の方が、やみくもにこの業界の可能性、将来性をつまんで強調するよりも、良心的ではないか、というところまで、この業界が来ているという話でもあります。

     しかし、これはあえて印象とお断りして言えば、この世界を目指そうとする人材、あるいは目指そうとして経済的な理由で断念した人材のなかにも、変質後の弁護士イメージを受け入れている人たちばかりではない。なりたい弁護士のイメージは、ビジネスローヤーではなく、弱者や少数者のために働く弁護士であり、それに憧れている人もいれば、かつてのように経済的自立のもと、両立できることを期待する人もいる。それらの人材も、現在の弁護士界には残念ながらふさわしくないとして、結果的に受け入れられない現実は、冒頭の「改革」の想定した結果(もっともそれが建て前ではなく、本気だったとしてですが)とは、あまりにもかけ離れているといえないでしょうか。

     この結果のどこが社会にとって有り難いのか、失ったものよりも得たものが大きいのであれば、それは何なのか――。「改革」の価値にかかわる、この業界と社会が払った本当の犠牲がぼやけてしまっているような気がしてなりません。


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    「超人」弁護士たちへの目線

     おカネをとらずに、弁護を引き受ける弁護士がいます。私が尊敬している故・遠藤誠弁護士もそういう人物でした。おカネのない、闘う市民の弁護は、タダで引き受ける。仏教者であり、左翼であり、革命夢想家であった彼は、あくまで本業はそちらの方で、「人権派弁護士」を自認しながらも、「弁護士はあくまで余技、趣味」とまで言い切っていました。

     彼との思い出、というよりも、彼の存在と生きざま自体が、今でも強烈に私のなかに焼き付いていますが、彼は自分のスタンスについてこう語っていました。「革命でも法律でも救済されないものがある。そのために仏教が必要なのだ」と。彼は、自らの思想を、釈迦とマルクスを信奉する「釈迦マル主義」であるとも、真剣に主張していました。

     「奇人」と言われていましたが、彼には幅広い分野の熱狂的なファンが沢山いました。左翼・右翼活動家、仏教をはじめとする宗教関係者、メディア関係者、彼が主宰する仏教の会でつながる市民たち、日弁連会長経験者を含む法曹関係者などが、時々開かれる彼を囲む会に集まり、彼を持ち上げたり、こき下ろしたりするのを、いつも末席で見ていた私はつくづく、彼は多くの人に愛され、幸せな人だなあ、と思ったものです。

     そして、その集まった人々の中には、いつも前記彼の信念に基づき、弁護士としての彼に救われた市民が、まさに手を合わせるように彼に感謝の言葉を述べる姿もあったのでした。

     「『お金のために、というのは僕の生き方じゃない』 北海道の山奥に移住、費用ゼロで公権力に挑む”山小屋弁護士”」

     こんなネットニュースの記事が、最近、ネット界隈の弁護士の間で話題になりました。ここに登場する市川守弘弁護士も、思想的な背景が同じかどうかは分かりませんが、遠藤弁護士同様、自らの信念に基づいて、弁護士費用を受け取らとらずに弁護を引き受けるタイプの弁護士として紹介されています。

     彼はこう語っています。

     「極力経費は落としちゃって。食っていければいいんだから。その代わり、意味のある公益的な事件は率先して弁護士費用なしで取り組めたら、僕の残りの人生、生きがいがあるんじゃないかなあと」
     「昔ながらの戦後の日本の経済成長と同じで、地域社会がしわ寄せを受けながら、儲かるところが大きく儲かっていこうという、その構図が現代においても典型的に現れている。これは正義に反する、アンジャスティスなんですよ。こんなのは許せない」。
     「弁護士である前に一市民であると思っているし、市民として行動するときにたまたま自分が弁護士という職業についているんだから、その職業についていることを市民として生かせればという風に思っている」

     ここでやはり二つのことを、あえて確認しておかなければならないように思います。一つは、弁護士界には、昔から業界内でも話題になるような、時に清貧という言葉をあてがわれるような、彼らのようにおカネ度外視、経済的成果度外視の、信念に基づいて闘う弁護士がいること。そして、もう一つは、それは昔から決して一般化できない、絶対的にレアな存在であったこと、です。

     この記事の中で登場する、同業者をはじめとする関係者の声を見ても分かるように、市川弁護士も遠藤弁護士同様、「奇人」の部類に属するという扱いです。一般的な資格業としての弁護士とは、別の、あるいはそれを上回る「価値」を見出している個人的な信念がなければ、彼らのようなことはできないし、彼らの領域に達することはできない(遠藤弁護士にとっては、本業ですらなかったのですから)。

     だから、逆に彼らのような姿勢を、弁護士業という資格業に求めるというのは、違うというべきなのかもしれません。別の言い方をすれば、資格業たる弁護士から入って、彼らのような人材に辿り付くのは、ある意味、昔も今も無理があるといわなければならないように思うのです。

     以前から時々、メディアで取り上げられる、彼らのように信念に基づき、無償で弁護を引き受ける弁護士について、ひとつかつてと大きく違ってきたと感じることがあります。それは、彼らの取り上げ方に対する同業者の目線です。今回のような取り上げ方がされる度に、こうした弁護士の姿勢が一般化される、そういう形で社会に伝わることの方を危惧する同業者の声が、ネットなどを通じて聞かれるのです。

     「彼らは尊敬できる。でもどの弁護士もが、彼らのような『超人』になれるわけではない」

     同業者のそうした声は、当然、利用者市民の過度な要求につながることを懸念するものといえます。彼らのような「超人」が、弁護士の鏡であり、あるべき姿のようにとらえられれば、即座に「なんであなたはそれをやらないのか。やっている弁護士もいるじゃないか」という依頼者市民の声が返って来るのではないか、そういう声につながるのではないか、というおそれです。

     しかし、もともとそれは現実的に無理といわなければなりません。資格業として成り立たせ、普通に生活をして、家族も養う、そのなかでゆとりや豊かさも求める。そういう前提でない人だけが、弁護士になるなどということは、過去においてもない。いかに人権の擁護と社会正義の実現を使命にする資格であっても、「超人」「奇人」だけが務まる仕事という話はどこにもないのです(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。

     もっとも、かつてと違うところもう一つ挙げるとすれば、「超人」も「超人」予備軍の人材も、「改革」によって、かつてよりも生きづらく、生まれづらくなった、ということはいえるかもしれません。おカネをとらない弁護士たちが、何で生活できているのかには、そもそも個々人の一般化できない事情や有利な条件がある可能性もあります。しかし、それを脇においても、増員政策による弁護士の経済的激変は、彼らの信念を貫けるだけの、最低限の経済的余裕も奪っていることは考えられます。

     どこまで耐えられるかは、それこそ彼らの信念と価値観に委ねられることですが、依頼者市民にとっては、それこそ手を合わせたくなるような彼らの信念を、貫き難くする方向、いわば足を引っ張る方に、「改革」が作用していることは十分に想像できることです。

     もう一つ、メディアの取り上げ方に関係して、同業者の不安をかき立てている事情を付け加えておく必要があります。それは、日弁連・弁護士会主導層の姿勢が、自己犠牲を前提にしている弁護士像を、弁護士法1条の使命の先に、理想としているように見えることです。そして、それは個々の普通の弁護士として、決して有り難くないアピールを社会に対してしているのではないか、ということです。

     採算性ではなく、あるべき論を前提に、弁護士のニーズを考える。まさに増員政策の失敗につながった発想は、基本的に変わっていないのではないか、と。強制加入でありながら、会費が個々の弁護士の業務にプラスに跳ね返ってきているという実感できない現実につながっているものです。そして、そうした主導層の弁護士自身は、必ずしも「超人」ではない、という事情も付け加わっています(「問われる弁護士会主導層の現実感」 「日弁連の『改革』の発想と会員の『犠牲』」)。

     市川弁護士の記事のなかに「絶滅危惧種」という表現が出てきます。昔も今も彼らのような弁護士は「絶滅危惧種」だったというべきです。また、彼らのように生きて、信念を貫き、感謝されることは、遠藤弁護士に感じたように、傍目にもそれは幸せな人生のようにも思います。しかし、間違えてはいけないのは、それは彼らの個人的な信念を貫く幸福感のうえに成り立つものです。増やせば「超人」も増えるのではないか、という期待感も介入しがちですが、資格業のあるべき論につなげることは、一般の弁護士たちにとってだけではなく、結局、弁護士という資格が成り立つ基盤を根底から揺るがし、そして私たちにとって有り難いはずの、彼らの「信念」も絶滅に導くということは分かっておく必要がありそうです。


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    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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