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    直視されていない「多様な人材確保」の現実

     法科大学院を中核とする新法曹養成制度が目指したとされる「多様な人材の確保」、司法制度改革審議会意見書の表現でいえば、「多様なバックグラウンドを有する人材を多数法曹に受け入れる」という点は、いまやこの制度の無理と失敗をもっとも明確に、分かりやすく社会に示していると思います。

     法科大学院の修了を司法試験受験の要件とした新制度が、これまでの「多様な人材」のチャレンジを阻害しないためには、それを上回る「価値」が示されなければなりませんでした。そして、その失敗を証明しているといっていい、予備試験の人気と実績。しかし、新制度を守ろうとする側は、法科大学院「本道」にこだわるあまり、それをこともあろうに「抜け道」の如く扱い、制限すべきという要求を持ち続けている――。

     「在職しながらの合格者が増えれば、多様な人材が法曹界に供給されます」

     「伊藤塾」の予備試験対策学習関連コーナーには、こんなタイトルで合格者の声が紹介されています。彼はこう結論付けています。「多様な人材が法曹界に求められていますが、それが可能になるのは、予備試験です」。これが「改革」にとって、皮肉な現実であり、いわば結論です。

     問題は、メディアも含めた「改革」推進、制度擁護側が、この結論を直視しないこと、別の言い方をすれば、これほど分かりやすい話を制度の本質的な問題として、延々と捉えないことです。もともとこの点についての、彼らの「本気度」には疑わしいところがありました(「『多様な人材確保』の本気度」「『多様性確保』失敗のとらえ方」「『多様性』のプライオリティ」)。

     それは、端的に言って、前記したように、そもそもこの新制度が旧制度に比べて不利な現実を抱えることになり、それを制度側が後方から乗り越えなければならない課題という捉え方がはじめから希薄であること。つまり、旧制度のこの点での優位性と、不利を埋められない新制度の責任からの評価が弱い。メディアも新制度の現実に「多様性が達成されていない」と言いつつ、この制度が維持できればなんとかなる、やがて旧制度のような、あるいはそれ以上の「多様性確保」が実現されるようなイメージを垂れ流している。

     そんななかで、今、新たに法科大学院修了者への一部科目免除などを盛り込んだ新司法書士試験の導入が検討されているという情報がネットで話題となっています(Schulze BLOG)。詳細も真偽も未確認の部分があり、現状、あくまでこれが本当に具体化するのであれば、という仮定の話になりますが、ネット界隈の法曹関係者には相当な違和感をもって受けとめられているようです。いうまでもなく、現状の法科大学院教育の実績が、司法書士試験の科目免除の条件にぴたっと収まるものなのかもさることながら、このいかにもとってつけたような話が、それこそ前記したような失敗を抱えた新法曹養成制度の、それこそ存続のための苦し紛れの発案に映ってしまうからです。

     そもそもの話をすれば、あくまで法科大学院を中核として、新法曹養成でこの「改革」が構想したのは、法曹を量産することを前提とした制度であり、いわゆる司法書士を含む「隣接士業」については、「代理権付与」など時限的活用論(弁護士増員後の仕切り直しを示唆)は議論の対象になったものの、養成という観点からは、検討からも完全に排除されました(「司法書士にとっての弁護士激増」)。

     それは「差別化」という見方もされました。「法曹」と「隣接」が同様に試験によって選抜されていた形から、「法曹」だけが特別な養成課程を経る形に。在野の法律実務家のなかに、これまで以上に上下の差別化が図られるのではないか、と。旧制度に対して明確な実績を示したといえるか疑わしい現状にあって、それが現実のものになったかも疑わしいことではありますが、それよりも見落とせないのは、明らかに「改革」はそれも承知のうえで確信的にこれを推進したということです。

     「改革」が、あくまで「多様なバックグラウンドを有する人材を多数法曹に受け入れる」という目的のために、司法書士という人材に着眼したというのならば、まだ話は分かります。今回の話は全くそういうことでなく、あくまで法科大学院の活用案、しかも、前記「改革」のスタンスからすれば、出てきようがない。もし、新制度が実績が示せていれば(というか、今後示せるというのであれば)、およそ見向きもされなかったであろう発案にとれるのです。それが透けれていればこその、前記違和感といわなければなりません。

     前記ネットで流れている情報では、この新司法書士試験について、「多様な人材の確保に向けて、受験資格は設けない」という記述が、前記違和感に油を注いでいるようです。これが本当にこの構想として検討されているものならば、これほど不思議で、かつ、法科大学院を中核とした新制度擁護が目的化した話はないことになります。いうまでもなく、多様な人材確保の阻害要因としての受験資格化を、こちらではきっちりと前提としていることになるからです。

     「多様な人材確保」よりも重要なこと、当然にそれを犠牲にしても許されることが、こと法曹養成には、いまや存在しているということでいいか――。やはり、まず、そこが問われていいはずです。


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    新法曹養成制度が犠牲にしているもの

     ある弁護士ブログが、改革の結果として現れた受験者数の減少、受験者の総体的なレベル低下により、司法試験の選抜能力が失われつつあることに危惧の念を表明しています(弁護士坂野真一のブログ)。

     基礎的な問題に限定されているはずの、令和元年度の短答式試験は、175点満点で108点以上が合格(但し1科目でも40%以下の得点である場合は不合格)。受験生全体の平均点は119.3点だから、受験生の平均点を10点以上、下回っていても短答式試験には合格できるというザル試験。予備試験ルート司法試験受験生の短答式試験合格率は同年度で約99%であるのに対し、法科大学院ルートの司法試験受験生の短答式試験合格率は約71%。法科大学院卒業者と同等の実力を持っている、裏を返せば、法科大学院を卒業したならば、これくらいの実力を持っていなくてはならない、と判断したレベルにある予備試験合格者が99%合格する試験で、法科大学院ルート受験生は3割も落第している。そして、志願者が激減しているにもかかわらず合格者を1500人程度に維持しているため、短答式試験に合格した受験生のうち約半数が最終合格する――という現実。

     こういう指摘を、今、私たちは、率直にどう受けとめるべきなのでしょうか。こうしたデータをみても、新制度が輩出した人材のレベルということになると、少なくとも旧制度とも比較においては、「低下」とはいえないという見方が出されます。端的に言えば、新制度においても優秀な人材は育っている、とか、そのなかには、旧制度にはいなかったような人材も生まれ出している、というような「一概にはいえない」論が、事実上、新制度擁護論として繰り出されたりもします。

     ただ、どういしてもここで考えてしまうこと、というよりも当然、考えていいと思えるのは、旧制度の欠陥とは一体なんだったのか、ということです。何度となく、繰り返し強調された、司法試験という「点」による選抜ではなく、法学教育、司法試験、司法修習を有機的に連携させた「プロセス」としての法曹養成制度の価値。そこに導かれる、質を維持しつつ大幅な合格者増を図ることは旧制度では困難、という前提や、旧試法曹の資質批判につながる「予備校批判」「受験者の受験技術優先」といった批判要素。

     新制度の建て前では、司法試験の性格が変わり、それは法科大学院教育の効果測定ということになりました。もちろん、それは前記したような法科大学院という制度の絶対的価値とともに、それがまさに改革の額面通りの成果・実績を当然に出していることを前提にしています(「法科大学院制度の『勝利条件』」)。

     そうなると、前記したような現状のなかでも、司法試験が不当に難し過ぎる、あるいは現状に合っていないとして、そちらを法科大学院の現状に合わせろ、という要求が聞かれることをどうとらえればいい、ということになるのでしょうか。

     前記ブログ氏の次の一文が、的確に表現しています。

     「法科大学院卒業生の実力が全体的に見て不足だからといって、司法試験を簡単にしようというのは、目的と手段が完全に入れ替わってしまっているのではないかと。かつて大学教員たちが、司法試験に合格するだけの実力くらい3年で身につけてみせると豪語して導入された法科大学院なのだから、本来であれば法科大学院の側から、司法試験を簡単にしないでくれ、というのが筋だろう」
     「司法試験を法科大学院のレベルに合わせるべきだ(簡単に合格できるようにしてくれ)という、一部学者の主張は、自らの教育能力が乏しいことを自認する、極めて恥知らずな主張だと知るべきだ」

     旧制度を前記のような主張のもと、変えさせた側として、そのことをどう考えているのかが分からない。あえていえば、法科大学院教育の「完成」が、もし、道半ばで、これからその実績が現れてくるというのであれば、あるいは、そこに胸を張るというのであるならば、確かにブログ氏の言う通り、彼らの側から今、司法試験を簡単にするな、という意見が出てもいいくらいです。

     基本的に法科大学院を経ていない、予備試験組の実績に対抗することを諦め、本道のレベルを基準に合格しやすくしろ、というのであれば、あそこまで言った旧試への優位性はどう考えればいいのでしょうか。どんなに予備試験組が司法試験での実績を上回ろうと、それはあくまで実力差や、法曹としての適格性の差を意味しない、と強弁するということでしょうか。いや、むしろそれしか辻褄が合わない。しかし、社会と法曹志望者がどう受けとめるのかは別問題です。

     いや、もはやそういう理屈はどこにもないというべきかもしれません。ブログ氏が文中、別の箇所で想像しているように、レベルを維持しようと思えば合格者を確保できない。ゆえに、司法試験を既に犠牲にしている。しかし、それは言い方を換えれば、法科大学院制度をなんとかこのまま維持するために、法曹のレベルを犠牲にしている、少なくとも低下の危険にさらしているということを意味します。

     別の弁護士ブログも、このブログの指摘を取り上げて、さらに司法試験受験者数低下、法科大学院入試の志願倍率低下など、レベル低下の要素を挙げたうえで、こう述べています。

     「合格ラインを下げることによって得られる利益・目的は何か、です。言うまでもなく、これは人数の確保ということになりますが、法曹のニーズ・需要の開拓が進んでおらず、経済的な苦境が指摘される中で、学力を犠牲にして人数を増やすことが本当に国民の利益につながるか、です。国民の利益ではなく、法科大学院制度の維持が目的では本末転倒です」(Schulze BLOG)

     現実が本当は何を犠牲にしているのか、そして、その犠牲に果たしてどのような意味があるのか――。不思議なくらいそこからのアプローチがなされないまま、制度維持の方向ばかりが取り上げられているのが、新制度の現実と言うべきです。


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    「受験要件化」の正当性という視点

     なぜ、法科大学院制度には、その修了を司法試験の受験要件とする形が張り付いているのか――。現在、ネット上で見れる、法科大学院に関するQ&Aで最も直接的にこの問いに答えているのは、文部科学省でも、法務省でも、法科大学院協会でもなく、日弁連です(「法科大学院Q&A」2012年7月、日弁連法科大学院センター作成)。

     日弁連以外のQ&Aの扱いは、「なぜ」には直接言及せず、あるものとして説明していたり、それを飛ばして、むしろ法科大学院に行くメリットの方を強調するものになっている印象です。そこはもはや改めて説明するまでもない、という扱いにもとれます。

     その日弁連のQ&A(Q7) には、およそ次のようなことが書かれています。

     法科大学院は、従来の旧司法試験時代の受験競争による「点」のみの選抜ではなく、法曹養成に特化した専門的教育機関を設置し、これを中核とした「プロセス」としての法曹養成制度を新たに整備すべきという観点から、創設された。現在の法科大学院には解決すべき課題が様々に存在しているのも確かだが、法科大学院の修了を司法試験の受験資格と切り離せば、「点」のみの選抜に逆戻りすることとなり、法科大学院教育を中核とする理念は骨抜きとなる。仮に受験資格を撤廃すれば、法科大学院教育は法曹になるために必須なものでなくなり、法科大学院における専門教育を法曹養成の中核とした理念に反することになる――。

     つまり、ここで言っていることは、「点」の選抜には戻せないから、ということです。当然、法科大学院を創設した「改革」は正しいのだから、という前提で、「理念の骨抜き」を懸念していることになります。これは、法科大学院制度を擁護しようとする側から、度々聞かれてきた「模範回答」みたいなもので、Q&Aで直接言及していない他の組織にしても、それこそ説明するまでもない前提のはずです。

     しかし、あえていえば、ここではそうした地位を与えられた法科大学院という存在が、何によってその地位足り得るか、誰がそれを決めるのか、というところがあいまいです。そして、その意味で最も気になるのは、受験資格を撤廃すると、法科大学院教育は法曹になるための必須なものではなくなる、という懸念です。撤廃して必須でなくなり、法科大学院を経ない法曹が誕生するのは困る、適切ではないという発想ならば、前記理念による教育による質の統一化を目指すものととれ、制度としていわば「欠陥品」を輩出するわけにはいかない、という発想になります。当然、理念による教育のハードルは上がり、重い責任を背負う形になります。

     一方、必須でなくなる=選択されなくなる、という懸念ととることができます。必須にされなければ選択されないということは、時間とお金を使ってまで、この「プロセス」を経る「価値」が認められないことへの懸念、制度の自信のなさと言い変えられます。

     話が分からなくなってくるのは、骨抜きになったら問題な「理念」とか、法曹になるために「必須」かどうかは、結局、導入されたときから「制度」が実証しなければいけないことで、実際に法曹になろうとする当事者や社会がそれを評価すべきことのはず、ということがあるからです。制度が背負う責任部分はどう考えるべきなのかが分からないまま、選択されない懸念を制度が引きずっている。少なくとも、「改革」の結果が出ている今は、そういう目線でみられても仕方がないはずなのです。

     つまり、制度の理念が、当初の予定に反し、法曹にとって必須であることを証明できなかった場合、あるいは証明していないと社会も志望者も判断した場合、それでも修了の司法試験受験要件化を制度が、理念の看板のもとに握り続ける正当性は果たしてあるのかどうかの問題なのです。

     制度が導入されるとき、少なくともこれまで司法試験と司法研修所という、実は「プロセス」の教育を実践して来た法曹界側の多くの人が、「改革」の旗を振りながらも、新制度が必ずや、それを上回る「価値」を示すとみていた、あるいはそれは確信していたわけではなかったという事実があります。取材した法曹三者のトップやその周辺の人間の中にも、旧制度を「欠陥制度」とは見ていない人は多く、新制度については「とにかくお手並み拝見」という目線の人も少なくなかったのです(「法科大学院の『本音』と『自覚』」 「司法試験合格『1500人』で問われるべきこと」)。

     以前も書いたように、これまで法科大学院関係者から聞いてきた本音は、あくまで受験要件化=法科大学院制度、あるいは前記必須でなくなる=選択されなくなる、で、これを失えば制度は事実上終わる、と考える人は、少なくありませんでした。しかし、前記したような「価値」の実証性と評価を飛び越えて、この「本丸」を死守できる状況にはないのではないか、時短化政策といえる今回の「改革」も延命策にしかならない、という見方は徐々に強まってきています(「法科大学院制度『執着』が切り捨てているもの」 「法曹資格取得『時短化』法成立が意味するもの」)。

     前記関係者の本音の認識に反して、法科大学院そのものをなくせ、というのではく、あくまで受験要件化を外すべき、それが最も効果的な「改革」であるという意見も業界内にあります(Schulze BLOG)。リカレント教育など、別の存在意義を模索すべきという意見も、ここ数年さらに聞かれるようになっています。

     当初の「改革」の発想に縛られず、何を疑うべきか、というところから、考え直すべき時期に来ているが、もうとっくに来ているように思えてなりません。


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    予備試験「抜け道」批判が隠し続けるもの

     予備試験という存在が、法科大学院制度擁護派、とりわけなんとしてでも制度を死守したい方々にとって、非常に都合の悪い存在になっていることは、もはや明らかです。しかし、制度にとっての本質的な「不都合」は、彼らが繰り返し言う、予備試験が「抜け道」になっているということに止まらない。そしてそれが表層的な現象だけをとらえたものであることを、ほかならない彼らが知らないわけはない、と思うのです。

     いわば志望者の「心得違い」による、予備試験の目的外使用をいう「抜け道」批判は、もちろん本道に流れるはずの人材が、そちらに逸れてしまう、人材を奪われる機会を与えてしまっていることを問題視し、それが彼らにとっても、あるべき法曹養成にとっても「不都合」であるというものです。

     しかし、それをいうのであれば、予備試験という存在は、制度にとってもっと本質的に「不都合」な存在になり得るはずです。それはいうまでもなく、その結果が、本道の「価値」そのものを揺るがしかねないからです。つまり、予備試験ルートで輩出される人材が、法曹として何の問題もない、という社会的な評価が下された場合、それでも司法試験の受験資格を「人質」に、プロセスを強制する制度が、このまま維持できるのか、という話です(「『予備試験』が明らかにするもの」)。

     予備試験ルートの人材が大手事務所から注目されているという話はありますが、現状においても法曹として有為な人材は両ルートに存在していると思います。だからどちらが優秀であるかといった、両者のレベルの問題より、むしろ本道側が何を根拠に、プロセス強制の必要性を強調できるのか、ということになってだと思うのです。有り体にいえば、「結果的にこれほどの違いかある」ということを立証できないまま、このまま受験要件化を掲げて強制化の論理を貫くのか、志望者の自由な選択を認めない制度を維持できるのか、ということです(「『価値』の実証性から見る法曹志望者の『選択』」)。

     冒頭の見方につながりますが、あくまで印象とお断りしたうえで言わせて頂ければ、制度を死守したい方々は、彼らにとって、最悪に「不都合」な展開をよく認識している。認識しながら、否、認識していればこそ、前記の恐るべき不合理さには触れない。彼らが、二言目にはいう「抜け道」批判は、実はそれを証明しているようにとれます。つまり、プロセスの正統性を、所与の前提として、頭ごなしにそれから逸れることを批判する本意は、決定的に制度を揺るがす、「価値」の立証不能を覆い隠すところにあるのではないか、ということです。

     11月7日、今年の予備試験合格者が昨年より43人増え、476人と過去最多となったことが、法務省から発表されました。このニュースを伝えた、同月8日付け朝日新聞朝刊は、今年の司法試験合格者の内訳で、予備試験ルート組が合格率で8割と、法科大学院修了者の約3割に比べ、2倍以上の開きがある現実を伝えたうえで、次のような一文で記事を締め括っています。

     「予備試験は本来、経済的な事情などで法科大学院に進めない人を救う制度だが、法科大学院に通う時間や費用を節約できる『抜け道』として受験者が増えているとみられる」

     相も変わらぬ制度擁護派・大マスコミの「抜け道」論に、業界関係者の中からはため息も聞かれます(「Schulze BLOG」)。これまでも書いてきたことですが、そもそも志望者が「法科大学院に通う時間や費用を節約できる」と考えることが、なぜ否定的にとらえられなければならないのでしょうか。それをそれぞれの個人的の「経済的な事情」に含めない、というのも、境界線がよく分からない話です。

     しかも、「法曹コース」新設や在学中司法試験受験容認の、制度改革についていえば、身内の擁護派からも異論があったとはいえ、結局、その志望者の気持ちを汲んだ負担軽減策としての、時短策を打ち出したのではないか、と言いたくなります。いわば、その「抜け道」の意図を汲んで、予備試験と同じ土俵で競争することにした。朝日の立場からすると、今回の「改革」にはやや批判的かもしれませんが、そこに違和感を覚えます。

     そして、そのこともさることながら、やはり彼らは、制度の「価値」が問われていることに触れない、というか、問題をそういうことにしない。あえていえば、「節約」が悪いという前提に立っているだけでなく、「時間や費用」をかけてまで選ぶ制度ではない、という志望者の判断が反映しているとは、絶対に捉えない。さらにその判断の裏に、単に司法試験合格率の問題ではなく、社会的にみて、いまだ制度が不可欠である(予備試験、あるいは旧試との違いを示す)ことができていない制度の現実と将来性には言及しない――。

     制度の勝負は、「まだ決着していない」という人もいるかもしれません。それがいつまで言われるのか、ということも問題ではありますが、表立ってそう表明する人は、むしろ少なくなっている印象です。しかし、「価値」で勝負しようとせず、あくまで受験要件という「特権」にしがみついて、「抜け道」批判で制度を維持しようする、法曹養成の形に、私たちの社会はいつまで付き合うことになるのでしょうか。


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    新法曹養成をめぐる格差への「感性」

     大学入学共通テストで導入される民間の英語試験をめぐる、萩生田光一・文部科学大臣の、いわゆる「身の丈発言」に批判が集まっています。教育格差容認との批判の拡がりに、既に同大臣は「説明不足」として、謝罪・撤回に追い込まれていますが、制度自体のアンフェアを問題視する声は収まっていません。

     朝日新聞は10月29日朝刊「視点」で、深刻なのは、この制度自体が「身の丈入試」であることを拭えない点であるとし、「民間試験を使う以上、都会の裕福な家の子が何回も受験の練習をするのを妨げられない」と問題視。さらに、翌30日には社説でも取り上げ、「入試には貧富や地域による有利不利がつきまとう。その解消に努めるのが国の責務であり、ましてや不平等を助長することはあってはならない」「格差を容認する暴言と批判されたのは当然」と厳しく指摘しました。

     大臣の問題発言そのものよりも、それを許さない、この社会の反応を見るにつけ、経緯や前提となる内容が異なることは承知していても、司法改革の対象となった法曹養成は、ある意味、不幸であったという印象を持ってしまいます。

     新たに志望者へ課されることになり、これまでの司法試験受験の公平・平等の機会を奪うことになった法科大学院制度でも、さらにそれに上乗せして新たな経済的負担を課すことになった給費制廃止でも、この議論同様、「裕福な子弟しかチャレンジできない」という、不平等を危惧する声は出されたからです。

     しかし、資格取得のための費用の自弁性や、予備校依存批判を含めた旧試体制改革の意義を強調する推進論は、常に公平とか格差といった問題を後方に押しやって進めてきました。大学入試と司法試験の間に、社会的反応の差があるのは当然という片づけ方をすることができたとしても、それでも法曹養成において、もっとこの視点が強調されていれば、あるいはこの点にこだわる社会の感性があれば、今、どうなっていたのかと思わざるを得ないのです。

     大臣発言をきっかけに、制度自体の問題を鋭く指摘している朝日にしても、司法改革での格差については、今回とは全く違う反応だったといえます。今回の社説のなかで、朝日は「改革の方向性は正しいのだから、多少問題があってもやるしかない。(萩生田)氏に限らず今回の入試改革の関係者には、そんな開き直った態度が見え隠れする」と批判的に述べています。司法改革推進の関係者に、なぜ、朝日は今回見せたような、格差を問題視する感性で、このような言葉をぶつけられなかったのか、と言いたくなります。

     アメリカのロースクールの危機的状況を告発した、ブライアン・タマナハ・ワシントン大学ロースクール教授の書「アメリカ・ロースクールの凋落」(邦題)の訳者、樋口和彦氏は「訳者あとがき」の中で、アメリカのロースクールの現状の問題点を次の5点にまとめています。

     ① ロースクール卒業生は膨大な借金を抱える。
     ② 法律家需要より多くのロースクール卒業生を輩出し続けるので就職困難となる。
     ③ 景気動向とは関係なく法曹志望者は減り続けている。
     ④ 多くの若き弁護士は借金返済のための企業法務を目指す。
     ⑤ 金持ちでないと法曹を目指せない傾向がある。

     あえて説明するまでもなく、日本の法科大学院で全く同様なことが生じているのです。日本の司法改革でモデルとしたアメリカのロースクールにおける、問題点までを、日本の現状がなぞることになっているという、皮肉な結果です。

     そして、さらに樋口氏は「格差」に関連しては、こう言及しています。

     「そもそも、アメリカのロースクールが3年制となったのは、裕福な白人階級の保身のためであった(本書2章)。その結果、法曹の主流は中流より裕福な白人で占められている。日本が法科大学院制度を導入した真の狙いはこの辺にあるのではないかと疑いたくもなるのである」

     19世紀末の、アメリカ法曹協会を牛耳っていた超エリート法曹人たちによる、新移民法律家による法曹の評判低下への危惧。学生を集めるのに苦戦していた大学付属ロースクールの事情。「法曹界と一流大学のロースクールは、経済面と専門性の利益の一致を共有し、法学教育に高い基準を課した」「この二者の連携を確固たるものにしたのは、アメリカの法曹支配階級の心の奥底にある人種・民族差別主義と移民排斥主義であった」(前掲書2章)。

     アメリカのロースクール長い歴史のなかで、当初定着していた2年制課程が、こうした事情を背景に20世紀に入ってから現行の3年制課程に変えられます。そして、すべての学生に経済的窮乏を強いてまで強制する3年制への疑問を引きずりながら、「専門職の統一化」モデルから、それは維持されているのです。

     「中流や貧国階級の真の敵は、ロースクールに行くのを思いとどまらせ、ロースクールに行った者には過重な借金を課すお金がかかる3年制課程というロースクールの制度である」(前掲書同)

     1990年代から2000年代初頭の、日本での司法改革論議の「季節」に、日本が範としようとする国の制度をめぐり、現実には何が起こっていたのか――。「改革」の勢いに任せず、制度の真の影響を浮き彫りにして、そこを丁寧に議論することにつながる、「格差」への感性が、社会から示されていれば、あるいは今、志望者も法曹養成もここまで傷ついていなかったのではないか、と思ってしまうのです。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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