9月19日の「屈辱」
政権とそれにつながる私たちの代表による様々な軽視。今回の安保法制の成立に至る過程で、私たちがみせつけられたのは、結局、彼らによる憲法と世論を軽視し、強引に考えを押し通した彼らの姿であったとしかいいようがありません。
民主主義は、多数決にとどまらず、少数意見に対してどう向き合うのかでその真価が問われるとされてきました。しかし、今回の安保法制反対の声は少数意見ですらない。少なくとも8割の世論が審議不十分、政権の説明不足を感じている代物です(共同通信世論調査)。およそそれを無視できる彼らに、少数意見への配慮など期待できるわけもありません。
安倍晋三首相がメディアでも再三唱えていた「丁寧な説明」は建て前でしかありません。「国民の理解」が広がらないことが分かると、あたかも本当はこの「強行」の先に、それが必ずや広がるという新たな建て前を掲げました。彼らが「丁寧な」つもりで行った「説明」をもってして、逆に「これではダメだ」「不安だ」という「国民の理解」が広がったということはハナから認めない。そうした前提での、結論ありきでは、もはや「独裁」といわれても仕方がありません。
この政権や安保法制を擁護する側からの、この国に広がったデモを軽視する発言がみられます。国民の意思は選挙で反映される、国民が選んだ代表の多数派が決めようとしているのだ、嫌ならば次の選挙で彼らを落とせばいい――、と。国会を包囲して、叫んだところで無駄といわんばかりの言い方です。
選挙が国民の意思を反映させる貴重な機会であることは当然だとしても、現実問題としてすべての政策を代表に委任できない場合は当然ありますし、選挙時に政策についての、彼らの恣意的な濃淡づけや隠ぺいも行われます。そして、何よりも当選後の「裏切り」が存在します。それでは、当然、選挙と選挙の間に取り返しがつかない形でこの国を変えられてしまうかもしれません。
デモは、そのときのためにあります。9月21日の朝日新聞朝刊1面で山中季広・特別編集委員は、「投票とデモは代議制民主社会を支える2輪」とし、主輪は投票であり、それ一本での安全運転が理想だが、危険な運転が始まったときは、デモという補助輪を回さなければならない、と例えています(「安保とデモ、刻まれた主権者意識」)。まさにこのことを示したのが今回の安保法制成立強行への事態だったというべきです。この手段を軽視すべきどろか重視すべきことが、今回むしろはっきりしたのではないでしょうか。当然、デモは次の選択に反映させ得るものにもなるのです。
そして、さらに強調しておかなければならない軽視がありました。それは専門家の知見に対する軽視です。圧倒的多数の憲法学者、弁護士、元最高裁判事までが「違憲」とした法案に対して、彼らがどういう態度をとったのか、私たちは記憶にとどめなければなりません(「安保法案反対、学者・日弁連共同記者会見で示された認識と現実」)。
その軽視が立脚したものは、議論の潮目が変わったとされた6月の国会での3憲法学者「違憲」見解後に、高村正彦自民党副総裁が口にしたものの(テレ朝ニュース)なかに集約されているといえます。つまり、安全保障環境の変化による法制の必要性は、多数憲法学者の知見を超える「価値」を持つという言い切りです。
そして、そこには自衛隊という存在も引き合いに出されます。憲法学者の知見で「違憲」とされたものの実績の強調です。この論調は、その後も安保法制の「違憲」主張に対して、「じゃあ、自衛隊はどうなんだ」式の批判的切り口につながっていた観があります。
あたかも上回る「価値」よって、軽視は許されるという立場です。しかし、そうした政権の「価値」判断に憲法が歯止めにならないということと、この多数の専門家の知見を軽視できるということは、どうみても同義ではないでしょうか。「厳粛に受け止める」という建て前の言葉さえない、あからさまな軽視を安倍政権と私たちの代表たちは、やってのけたというべきです。自衛隊にしても、違憲性に向き合わずに既成事実化した側の開き直りにもとれます。集団的自衛権に関して誤読というべき彼らの「砂川判決」解釈に対する、専門家の批判的見解も軽視された格好になっています。
しかし、あえていえば、これはある意味、私たちがずっと見てきたことと言うべきかもしれません。国の政策に都合がいい「有識者」が集められ、会議が重ねられて出た結論を「お墨付き」のようにする慣行を私たちは見ています。まして、大衆の叡智を聞くかのように行われるパブコメの声が反映されるなど、夢のまた夢。安保法制論議でも、公聴会の扱いを含め「セレモニー」という言葉が飛び交いましたが、形式で行われる意見聴取は、本当の知見の重視ではもちろんありません。
自民推薦の参考人までが「違憲」と断じた前記見解後、「犯人探し」までが同党内で取り沙汰されたのを見るにつけ、もともとすべて「セレモニー」。そうみれば、もともと専門家の知見にしても、国民の声もフェアに扱われ、重視される前提にない現実があったといわざるを得ません。むしろ、それが今回の安保法制で、ここまであらさまに行われたことには、追い詰められて出さざるを得なかった本性という見方もできるように思えます。
戦後安保政策の大転換という局面で、国の進む方向について、民意や専門家の知見を遠ざける重大な軽視を目の当たりにしたというべきです。この安保法制が成立した9月19日は決して「悲劇」ではなく、民主主義国家の市民としても、専門家にとっても次の選択につながる、彼らの軽視が貫かれた「屈辱の日」として銘記されるべきだと思います。
安保関連法案の強行採決、同法成立についてご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「ニュースご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6834
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民主主義は、多数決にとどまらず、少数意見に対してどう向き合うのかでその真価が問われるとされてきました。しかし、今回の安保法制反対の声は少数意見ですらない。少なくとも8割の世論が審議不十分、政権の説明不足を感じている代物です(共同通信世論調査)。およそそれを無視できる彼らに、少数意見への配慮など期待できるわけもありません。
安倍晋三首相がメディアでも再三唱えていた「丁寧な説明」は建て前でしかありません。「国民の理解」が広がらないことが分かると、あたかも本当はこの「強行」の先に、それが必ずや広がるという新たな建て前を掲げました。彼らが「丁寧な」つもりで行った「説明」をもってして、逆に「これではダメだ」「不安だ」という「国民の理解」が広がったということはハナから認めない。そうした前提での、結論ありきでは、もはや「独裁」といわれても仕方がありません。
この政権や安保法制を擁護する側からの、この国に広がったデモを軽視する発言がみられます。国民の意思は選挙で反映される、国民が選んだ代表の多数派が決めようとしているのだ、嫌ならば次の選挙で彼らを落とせばいい――、と。国会を包囲して、叫んだところで無駄といわんばかりの言い方です。
選挙が国民の意思を反映させる貴重な機会であることは当然だとしても、現実問題としてすべての政策を代表に委任できない場合は当然ありますし、選挙時に政策についての、彼らの恣意的な濃淡づけや隠ぺいも行われます。そして、何よりも当選後の「裏切り」が存在します。それでは、当然、選挙と選挙の間に取り返しがつかない形でこの国を変えられてしまうかもしれません。
デモは、そのときのためにあります。9月21日の朝日新聞朝刊1面で山中季広・特別編集委員は、「投票とデモは代議制民主社会を支える2輪」とし、主輪は投票であり、それ一本での安全運転が理想だが、危険な運転が始まったときは、デモという補助輪を回さなければならない、と例えています(「安保とデモ、刻まれた主権者意識」)。まさにこのことを示したのが今回の安保法制成立強行への事態だったというべきです。この手段を軽視すべきどろか重視すべきことが、今回むしろはっきりしたのではないでしょうか。当然、デモは次の選択に反映させ得るものにもなるのです。
そして、さらに強調しておかなければならない軽視がありました。それは専門家の知見に対する軽視です。圧倒的多数の憲法学者、弁護士、元最高裁判事までが「違憲」とした法案に対して、彼らがどういう態度をとったのか、私たちは記憶にとどめなければなりません(「安保法案反対、学者・日弁連共同記者会見で示された認識と現実」)。
その軽視が立脚したものは、議論の潮目が変わったとされた6月の国会での3憲法学者「違憲」見解後に、高村正彦自民党副総裁が口にしたものの(テレ朝ニュース)なかに集約されているといえます。つまり、安全保障環境の変化による法制の必要性は、多数憲法学者の知見を超える「価値」を持つという言い切りです。
そして、そこには自衛隊という存在も引き合いに出されます。憲法学者の知見で「違憲」とされたものの実績の強調です。この論調は、その後も安保法制の「違憲」主張に対して、「じゃあ、自衛隊はどうなんだ」式の批判的切り口につながっていた観があります。
あたかも上回る「価値」よって、軽視は許されるという立場です。しかし、そうした政権の「価値」判断に憲法が歯止めにならないということと、この多数の専門家の知見を軽視できるということは、どうみても同義ではないでしょうか。「厳粛に受け止める」という建て前の言葉さえない、あからさまな軽視を安倍政権と私たちの代表たちは、やってのけたというべきです。自衛隊にしても、違憲性に向き合わずに既成事実化した側の開き直りにもとれます。集団的自衛権に関して誤読というべき彼らの「砂川判決」解釈に対する、専門家の批判的見解も軽視された格好になっています。
しかし、あえていえば、これはある意味、私たちがずっと見てきたことと言うべきかもしれません。国の政策に都合がいい「有識者」が集められ、会議が重ねられて出た結論を「お墨付き」のようにする慣行を私たちは見ています。まして、大衆の叡智を聞くかのように行われるパブコメの声が反映されるなど、夢のまた夢。安保法制論議でも、公聴会の扱いを含め「セレモニー」という言葉が飛び交いましたが、形式で行われる意見聴取は、本当の知見の重視ではもちろんありません。
自民推薦の参考人までが「違憲」と断じた前記見解後、「犯人探し」までが同党内で取り沙汰されたのを見るにつけ、もともとすべて「セレモニー」。そうみれば、もともと専門家の知見にしても、国民の声もフェアに扱われ、重視される前提にない現実があったといわざるを得ません。むしろ、それが今回の安保法制で、ここまであらさまに行われたことには、追い詰められて出さざるを得なかった本性という見方もできるように思えます。
戦後安保政策の大転換という局面で、国の進む方向について、民意や専門家の知見を遠ざける重大な軽視を目の当たりにしたというべきです。この安保法制が成立した9月19日は決して「悲劇」ではなく、民主主義国家の市民としても、専門家にとっても次の選択につながる、彼らの軽視が貫かれた「屈辱の日」として銘記されるべきだと思います。
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