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    依頼者との関係を変えたもの

     日本の弁護士の意識のなかで、かつてと大きく変わっきたととれるものの、一つとして、依頼者との関係・位置取りがあります。日本の弁護士には、依頼者との関係における、独立・自由にこだわる伝統的な考え方がありました。それは、今でも業務における懸念材料として指摘される、弁護士の従属的地位の形成が、結果的に職業的使命たる、正義の実現を阻害するといった捉え方として残ってはいます。しかし、一方でこの考え方が、かつては、それ以上に弁護方針の決定をはじめ、依頼者との関係のあらゆる面で、実質的に弁護士の優越的地位を彼らに意識させ、それを醸成させるものになっていたことも否定できないのです。

     その具体的な根拠であると同時に、そうした弁護士の考え方を裏付けるものを、かつて弁護士倫理の中に見つけることができます。現在の弁護士職務基本規程は、依頼者との関係で自由・独立の立場を保持する努力義務を規定する(20条)とともに、弁護士に依頼者の意思の尊重や意思確認を求めています(22条)。ところが、2005年に同規程に代わり、廃止された、それまでの弁護士倫理には、依頼者の意思尊重の規定がありません。同倫理18条には前記職務規程とほぼ同文の、自由・独立保持の努力義務規定がありますが、依頼者の意思尊重も相談も求めておらず、依頼者の正当な利益の実現(同19条)、依頼者が期待する結果の見込みがない事件を見込みがあるように装っての受任禁止(同21条)、事件処理の報告義務(31条)などがあるだけです。

     かつての弁護士のなかにあった自由・独立へのこだわりは、依頼者の意思尊重より、当然のごとく上に置かれ、その優越的地位への意識を形成していた。弁護士が方針を決定するということが、依頼者の意思よりも、重要な意味を持っていたということです。かつて依頼者市民から、よく弁護士の対応への不満として聞かれた「素人扱い」には、素人を素人として扱うのが、彼らのためになるプロの仕事であるといった、弁護士の自負ともとれる弁明も存在していました(「弁護士に関する苦情(3)『素人扱いされた』」)。しかし、前記事実からは、そうした捉え方では括り切れない、根深い意識の背景が存在していたように思えます。

     弁護士の在り方について、厳しい自戒・自省が迫られることになった、今回の司法改革当初、弁護士会内でもこのことを問題視する見方がありました。「『依頼者から独立・自由』という伝統的考え方が、依頼者に対する背信的弁護活動の温床になっている」「『依頼者から独立』という規範を放棄して、『依頼者のための弁護活動』を自らの『職務』の基本とし、そのためにこそ、訴訟手続における『当事者主義』の徹底を図り、市民にとって『利用価値のある』司法制度へ変革するために尽力すべきだろう」(「いま、弁護士は、そして明日は?」)。

     「市民のため」を標榜した弁護士会の「改革」運動が、その中で、こうした自戒的な視点に立った意識改革に踏み込もうとしたこと自体は、ある意味、当然の流れであり、今でもそれを肯定的にとらえている弁護士もいると思います。しかし、あえていえば、「改革」の結果、この自省と自戒はどういう成果をもたらし、そして評価されているのでしょうか。一見正しい彼らの意識改革は、何を生み出したのでしょうか。いま、これが弁護士の正しい変化として、評価する声が、あまり聞かれないのは、なぜなのでしょうか。

     結論から言ってしまえば、この弁護士の自省・自戒に基づく意識改革の最大の「不幸」は、それが「改革」の無理な激増政策とともに、実行されたことではないでしょうか。激増政策に伴う弁護士の経済環境の激変。これは、弁護士と依頼者の関係、別の言い方をすれば、双方にこれまでにない現実的な視点を与えることになりました。

     弁護士からは、これまでになく、依頼者をつなぐための従属的傾向が言われ始めました。最も効果的で、依頼者の利益になる主張よりも、無理な主張であると分かっていても、そのままなぞった主張を掲げる弁護士。無理を説得するよりも、依頼者の言い分に従ってファイティングポーズを取る。同業者からは、「かつてでは考えられない」という姿勢の弁護士の登場が、盛んにいわれています。依頼者の思い込みに従った、有利な和解への説得回避といった傾向も聞かれます。選択基準が変わった、むしろ生き残りのために変わらざるを得なくなったということかもしれません(「歓迎できない『従順』弁護士の登場」 「『ポーズ』弁護士増加の嫌な兆候」)

     そして、その一方で、依頼者の弁護士に対する目線も変わりました。弁護士か増えたという事実を以て、弁護士を安く使えると誤解したり、これまでよりも無理難題を持ち込む傾向。さらに、弁護士はいくらでもいるとばかり、どこかに自分の言う通りに主張し、それを実現する弁護士がいる、と思い込む依頼者もいる。依頼者側の勘違いという意味で、採算性にごだわらざるを得なくなった弁護士にとって「望ましくない客」という判定が下されることにもなってきていますが、ただ、それとて100%弁護士が正当というケースだけではなく、そして、そのことを依頼者側が判別することもできない(「『望ましくない顧客』を登場させたもの」 「法律相談無料化の副作用」l)。

      「依頼者のための弁護活動」も「当事者主義」も「利用価値」という言葉の意味も歪み、すべてはビジネスと自己責任に溶かし込まれる関係へ。もちろん全ての弁護士がそうだといっているのではありませんが、経済的な力関係と利害が自律的な弁護士の判断に影響することを、「改革」の現実が示してしまっているような感じになります。そして、そうなったところで、結果は必ずしも依頼者が望むものではない(結局、終わってみれば望ましい解決ではない)のですから、そう考えれば、「改革」が想定した社会的評価につながるわけもありません。

     「改革」の結果を直視して、弁護士の独立・自由の意味を、弁護士と利用者双方が再考すべき時期に来ているように感じます。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    描かれた弁護士「社会進出」論

     増やしてしまったものを、あるいは創ってしまったものを何とかしなければならない――。今回の司法改革論議は、残念ながら、こうした捉え方に陥っているようにみえます。「現実論だ」「改革の軌道修正だ」と、これを正当化される方は、業界内にも沢山いらっしゃいますが、なぜ、こういうことに陥っているのかを問わないというのであれば、永遠にこの「改革」の正当な評価はできないはずですし、本来、どうあるべきか(あるべきだったか)という議論にも到達できません。

     しかも、前記「何とか」論は、いまや正確にいえば、増やし続けるもの、存在させ続けるものを何とかするということになっているとみれば、そのことは、よりはっきりしている、というべきです。ここでも、いろいろな形で書いてきたことですが、司法改革には、初めから現在に至たるまで「改革」推進者が、疑わない「前提」が存在している。どう言い逃れしても、彼らの「現実論」は、その上に乗っかっているようにみえるのです。

     なぜ、こういうことになっているのか――。こと弁護士という存在を軸に、「改革」論議の「前提」を辿ってみると、実は弁護士の「社会進出」論に突き当たることが分かります。司法制度改革審議会意見書は、弁護士が膨大に必要とされる未来を描き、その一方で、有名な「社会生活上の医師」という例えを使い、弁護士法1条を引いて、あるべき社会的役割を定義しています。

     「改革」は、この時から弁護士必要論と活用論を「前提」としていますが、有り体にいえば、現実的実態的な弁護士ではなく、「改革」のあるべき論に従い、数に置いても業態においても弁護士が今後変わり、未来の膨大な必要性に応えなければならない、ということになっています。そのうえに弁護士が、これまで以上に「社会進出」することが、望ましいこの国の未来であるという、「改革」の「前提」が描かれることになります。

     この間に、その必要とされる未来の描き方が本当に正しいかどうかもさることながら、それを支えるのが、どうしても弁護士という資格者でなければならないのか、というテーマは、司法審意見書が隣接士業との役割分担というテーマを棚上げにしたのでも明らかなように、突っ込んで議論されていません。

     あえて皮肉な言い方をすれば、この流れを作った最大の「功労者」は、弁護士会(界)であったといえます。当時の彼らの多くは、身内が提唱した「二割司法」という膨大な司法機能不全の存在を信じ、その責任の一端とともに、前記「改革」路線の弁護士必要論・活用論を正面から受け止めて、そのための弁護士激増政策を、自戒的、積極的に受け入れたからです。

     当時、「改革」の先の、この国の弁護士像がいかなるものになるかを模索していた、日弁連のプロジェクトチームがまとめた資料をみると、その時の彼らの問題意識がうかがい知ることができます。

     そのなかで、チームリーダの中の、ある論者はこう言っています。

     「業務拡大によって、全体としての弁護士の社会的な信頼も高まり、意識の高い有能な人々が弁護士になれば、さらに弁護士業務は順調に拡大し、発展するであろう」
     「しかし、弁護士が進出することによって、法の支配が正しく実現されず、そのことについての社会の批判が高まり弁護士に対する信頼が低下すれば、業務の範囲は制限され、やがて弁護士の社会的必要性に対する疑問すら出ることも考えられる」

     その一方で、正しい業務拡大の基本的条件として、資格制の堅持が必要とし、「資格制は、訴訟のみならず、現在そうであるように、法律事務全般にわたるべきである。その方が、資格としての魅力が大きく、多くの優秀な人材に参入の意欲をかきたてる」「弁護士資格は、それを持つ者が、独占にあぐらをかき、社会から与えられた役割を果たさなければ、正当性を失い崩壊する」などともしています(「いま、弁護士は、そして明日は?」)。

     業務拡大への楽観論と、進出論の成否が弁護士の社会的必要性にまで関わるという危機感。資格の堅持を業務拡大の基本的条件にしながら、それを崩壊させないために必要なことは、前記「改革」が定義している役割を果たすことである、というような自覚――。

     しかし、現実の「改革」をみれば、業務拡大の楽観論は大きく外れ、進出論の成否ではなく、膨大な弁護士の数を支える経済的基盤と社会的必要性の在り方(需要の有償性)が問われることになり、資格制はそれらの失敗によって、経済的「魅力」を失い、「多くの優秀な人材に参入の意欲をかきたてる」ものではなくなる結果を生んでいます。

     「法曹有資格者」という捉え方が登場した時点で、「改革」の弁護士必要論、活用論の上の乗っかった、前記「社会進出」論は変質した、というよりも、もはや持ちこたえられなくなったとみるべきではないでしょうか。弁護士の社会的進出はますます進んでおり、最近の児童相談所配置も含めて、こうした弁護士活用の「発見」を、「改革」の成果のようにいう人は、業界内にもいます。ただ、これらをこれまでの「改革」の発想の中に、すべて描き込むのには、やはり無理がある。組織内弁護士の増加にしても同様ですが、いくら肯定的評価を加えても、数の規模をみれば明らかなように、当初の描き方からすれば、後付け感は否定のしようがありません(「弁護士『資格』必須度というテーマ」 「児相への弁護士配置と処遇をめぐる発想」 「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。 

     本当に弁護士という資格業でなければならないのか、「法曹有資格者」では本当にだめなのか、もっといえば、「資格者」でなくても、その分野それぞれに専門的な法的な教育を受けた人材であれば、どこまでが対応でき、逆にどこまでが資格者としての権限が問われ、必要なのか。それはどこまでが、個人事業主としての経済的無理を強い、資格そのものの魅力を減退させ、志望者を遠ざけている現実があっても、なお、どうしても実行しなければならないのか、そして、もっといえば、その選択への社会的理解の先に、本当に資格者としての弁護士が「インフラ」として必要とされ、遇されるのか未来があり、それが唯一の未来といえるのか――(「身近な司法」と「身近になってほしくない司法」)。

     増やし続けるもの、存在し続けるものを何とかする、というところに至っている、現在の「改革」が、その視点に立てないことに、今、もっとこだわっていいように思えます。


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    「改革」の発想の呪縛

     今回の司法改革について、弁護士と話をすると、まだ「改革」は決着していない、いわば発展途上だという考えを強く打ち出す方々に、時々出会います。彼らは、さすがに「改革」が当初の想定通りには進んでいないことを認めざるを得なくなりましたが、司法制度改革審議会最終意見書の方向性や理念は間違っていない、という前提に立ち、むしろそちらの方を重要視しているようにとれます。

     しかし、現実的には、その方向性や発想が、完全に一つの結果を出している、そのことを前提にすべきではないかと思うのです。それは、有り体に言えば、彼らが間違っていないと強弁する前記方向性や理念が、それこそどういう描き方を前提にしていたか、そしてそれがこの結果にどうつながったかに、こだわるかどうかの問題といえます。

     例えば、司法審意見書は、「国民生活の様々な場面における法曹需要は、量的に増大するとともに、質的にますます多様化、高度化する」という大前提に立ち、その要因のなかに弁護士の地域偏在も含め、法曹人口の大幅な増加を図ることが喫緊の課題と位置付けました。その一方で、「実際に社会の様々な分野で活躍する法曹の数は社会の要請に基づいて市場原理によって決定される」という前提に立っています。そして、さらにはそれを支える法曹の質・量の養成には、旧司法試験体制の改善では限界がある、という大前提のもとに、法科大学院を中核とする新法曹養成の必要性が導き出されることになります。

     これらを現状に照らして、冷静に考えれば、今、一体、どこにこだわるべきなのでしょうか。前記「改革」の描き方は、法曹、事実上弁護士の量的なニーズの増大が確実に見込まれ、具体的な法曹の量は、市場原理で決せられるという発想のもと、何もそれを支える特別な手当てが必要だとはしていません。ということは、要するに、増員弁護士を支えるだけの有償の需要の存在を前提とし、それが増員政策とともに顕在化してくる、という前提に立っていることは明らかです。

     よく増員反対派からは、ここで法曹の数は、「社会の求めに応じて市場原理で」、と「改革」の「バイブル」が明言しているのだから、現状からして、「改革」路線派も率直に減員の必要性を認めよ、というニュアンスの発言が聞かれてきました。しかし、逆に言うと、意見書はそういうベクトルでの発想で、この一文を入れたわけではないことも、当時の議論を知っている人たちは分かっているはずです。意見書が、司法試験年間3000人の目標が「上限を意味するものではない」と付け加えているように、あくまで「更なる増員」の可能性を視野に入れていたことは明らかで、それだけ「改革」路線が、前記前提と描き方に依拠していたことを示しているといえるのです。

     要するに、国民が求めるニーズが増員弁護士を支えるだけ存在し、だから弁護士増員は可能かつ必要であるという前提が、あたかもアプリオリに存在しているような捉え方。そして、そこから逆算した結果が今である、という発想に立たないのが、まさしく冒頭の彼らの発想ではないか、と思うのです。

     日本の弁護士が昨年4万人を突破したが、そのほぼ半数が東京に集中し、弁護士会が対策に力を入れてきた弁護士の過疎・偏在問題は未だに解決したとは言い難い――。こうした問題意識のうえで、「地域社会に必要なインフラ」である弁護士をどうするのかについて、二人の論者に語らせる企画を、2月7日付けの朝日新聞朝刊オピニオン面(朝日新聞デジタル)が掲載しています。

     朝日がなぜ、今、このテーマを取り上げたのか――。司法試験の受験者が5000人を割り込むことになり(平成31年司法試験出願状況の速報値 「Schulze BLOG」 「弁護士 猪野亨のブログ」)、 また、13弁護士会が、供給過剰という現状認識のもとに、司法試験合格者数の更なる減員を求める声明を出すといった現状を考えると、朝日は「それでも弁護士は減らせない」と言いたいのか、と取りたくなります。

     しかし、そのこともさることながら、ここで登場する飯孝行・専修大学法学部教授と大窪和久弁護士の意見を読んでも、やはり感じることは「改革」の「結果」を認識しながら、基本的な発想が「改革」路線の前提に乗っかっているようにとれる点です。

     飯教授は、弁護士過疎・偏在解消について、「ゼロワンマップ」に始まる機運の高まり、1990年代の日弁連の法律相談センター開設、2000年代からのひまわり基金法律事務所、さらに「改革」で登場した法テラスの成果を挙げています。しかし、それらが撤退したら「ゼロワン」地域は復活するだろうとして、その理由は、「弁護士は自由業であり、経済的合理性を追求する職業」だからであるとし、弁護士が都市部に集まる必然性にも言及しています。

     そのうえで、「改革」が描き、失敗した「地産地消」といわれているロースクールの役割が成功している米国では、弁護士過疎が問題になっていないとして、日本での地方法科大学院撤退に繋がっている、司法試験合格率に基づく補助金カットを疑問視。地方弁護士会による、高齢による地方閉鎖事務所の若手あっせんを提案しています。

     しかし、これまでの経緯も、弁護士の経済的合理性追求も分かっていながら、増員政策の先に織り込んだ「ゼロワン」解消、また法科大学院設置の先に織り込んだ偏在対策、という「改革」の発想から抜け出していません。不思議なことに彼は、その後に「将来的には、国が最低限地方に必要な弁護士数を設定する必要が出てくる」かもしれない、とさらっと付け加えています。地方に弁護士が必要だというのであれば、本当は何が必要なのか、彼は分かっているのではないか、なぜ、まずここから逆算しないのか、という気持ちになるのです。

     一方、大窪弁護士も、やはり弁護士過疎対策での、ひまわり事務所や法テラスが果たした成果を挙げたうえでえで、ひまわり事務所の理想とする、最終的な個人事務所としての定着の困難性、それらを支える地方勤務志願者の減少を挙げています。彼は、この現実から不採算地域の法テラスの優先整備や、若手が都市部に戻ったあとのキャリアプランを描ける枠組みを国が整備する必要性に言及しています。

     しかし、ここまで分かっていながら、残念なことに彼は最終的に弁護士に次のように呼びかけています。

     「探せば、地方には仕事がまだまだあります」
     「弁護士は自ら地域に飛び込んで、住民がどんなことで困っており、解決のために何ができるのか周知し、潜在的なニーズを掘り起こしていけばよい」
     「こうした取り組みが増えていけば、弁護士は『地域にとって不可欠なインフラだ』と住民に理解してもらえるはず」。

     潜在的ニーズにしても、弁護士の犠牲的な取り組みの先に、弁護士を「不可欠なインフラ」という、地域住民の認識形成が待っている、というのは、「改革」が既に「無理」もしくは「限界」という結果を出した、それこそ「改革」の描き方ではないでしょうか。もし、地域に弁護士が必要であるというのであれば、「改革」の発想に縛られず、非採算地域で弁護士が生存できる手当てをどうするかから逆算した発想が前提的に必要、というのが、「改革」の結果が教えていることではないのでしょうか。

     今こそ、この「改革」のどこから、これからを考えるべきかが問われているように思えてなりません。


    地方の弁護士の経済的ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798

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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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