「改革」の先に登場した「アディーレ」

     今では当たり前のような、弁護士とその利用者が広告によってつながる関係を、この方向を受け入れた、多くの弁護士が果たして本心から望んでいたのかといえば、甚だ疑わしいといわなければなりません。以前も書いたように、日弁連は弁護士の業務広告について、1987年に「原則禁止・一部解禁」となったときも、2000年に「原則解禁」と舵を切りましたが、当初、それを選択した弁護士たちの広告に対する反応は極めて鈍かったのです(「『改革』が曖昧にした弁護士業と商業主義」)。

     効果や同業者の反応に対する様子見というムードが会内にあったことや、広告としての効果への疑問もありました。しかし、それ以上に当時の多くの弁護士たちは、実は会内の反対論者が強弁していた、広告という手段を用いることへの根本的な懸念、そもそもこの資格業には合わないのではないか、という疑念(「『弁護士広告』解禁論議が残したもの」)を、本音の部分では払しょくしていなかったようにとれました。

     彼らは予感していたのです。この資格業が本当に広告競争に乗り出す未来が来るとすれば、その時、真っ先に利用者が犠牲になることを。一方的に広告を大量に打てる弁護士が、必ずしも良質な弁護士とはならないこと、そして広告という手段で公開される情報によって、利用者の適正な選択が保証されることにはならないであろうことを。要は本気を出せば、いかようにも自らの利のために誘導できる立場を利用と、優先する同業者が現れかねないことを、他らない弁護士自身が一番分かっていたのです。

     ただ、ある意味、不思議なことではありますが、総会に出席した多数派の会員は、いわばそうした十分理解できる同業者からの懸念論を乗り越えて、この方向を選択します。利用者は情報提供を求めているということと、それに対する弁護士の姿勢が問われる、という、いわば時代の要請という受けとめ方が、彼らをこの方向に進ませたのです。しかし、決定的に弁護士の背中を押すことになったのは、「改革」だったというべきです。

     弁護士増員が決定的となり、弁護士がさらに国民にとって身近な存在となることが掲げられるなかで、他のサービス業では当たり前の広告という手段を弁護士だけが拒否することはしにくい、さらにあるはずの潜在需要が顕在化せず、これまでにない競争やサービス業としての自覚を迫られるなかで、手段としての広告をより否定しにくい状況となり、そしてそのころには、どんどん広告を打ち出す弁護士が現れはじめ、現実が先行していったのです。

     もっともこの流れは、広告問題に限ったことではありません。増員政策そのものが、多くの会員が持っていた懸念、疑念、弁護士本人であればこそ、分かっている「改革」推進論の同業者が描いている未来図の無理、つまりは急激な増員に耐えられる経済需要が生み出されるという話の危さへの認識を、「改革」の勢いのなかで、乗り越えて選択されていったという事実があるのです。

     そして、いうまでもないことですが、この引かれた「改革」のレールのうえで、競争もサービス業としての自覚も弁護士広告も当たり前の、かつて同業者が本音で持ち合わせていた懸念や疑念を乗り越える必要もない、新たな弁護士たちが、新たな養成の枠組みのなかで誕生してきたのです。

     別の言い方をすれば、旧来から存在していた弁護士にとって何がふさわしいかという捉え方よりも、そうした前提や枠にとらわれない、既成の弁護士のスタイルを壊さねば生きられない時代の弁護士として、彼らが生まれてきた。その意味では、広告も含めてサービス業として極めることから、まず逆算してこたえを出すような生き方を選ぶという意味では、「改革」路線に忠実な存在の登場だったといえるのです。

     そしてまさに、その「改革」時代の象徴、申し子といえる存在が、アディーレ法律事務所だった、といって過言ではないと思います。「過払いバブル」の波に乗り、大量のテレビCMを打ち、多数の弁護士と事務員を擁して、全国展開して、その規模と知名度で業界上位の法律事務所に躍り出た彼らは、「改革」時代にこそ、生み出された、既成の弁護士像にとらわれない、弁護士業を一事業として発想する存在として注目されました。代表の石丸幸人弁護士は、もはや組織成長のためには、リーガルサービスとの親和性も不要とし、さらに最近では医療を市場として弁護士業界よりも注目し、今後の事業展開として、もはや「アディーレ」とのシナジー効果すら、笑い飛ばして否定する、という発想の持ち主です(「『ビジネス』が強調される弁護士の魅力度」 「法律事務所系『回転ずし』という現象」 「弁護士支援という『アディーレ』の挑戦」)。

     しかし、「アディーレ」に対して、同業者や会の目線はずっと厳しいものがつきまとっていました。それには、いくつかの側面がありました。一つは彼らの派手な広告戦略に対する個々の同業者の目線。仕事を取られていくという現実的実害とともに、前記したような広告がもたらす依頼者の不利益という問題を引きずりながら、それは一面、経済的に全体が沈下する弁護士業にあって、「やっかみ」という同業者の感情的側面としても、しばしば取り沙汰されることになりました。所属弁護士に関する苦情が多いことを理由に、東京弁護士会から司法修習生への合同就職説明会への参加を拒否され、裁判にも発展(今年2月、東京地裁でアディーレ側が敗訴)。このときも、これは所属弁護士や取扱事件数の多さによるもので、苦情の発生率は低いといった、アディーレ側から弁明もなされ、さまさまな見方があるなかで、現実的には業界内では逆風という、一般的な捉え方がされていたのも事実です。

     ただ、この「アディーレ」への業界目線に対して、ある種の違和感を指摘する関係者もいます。つまり、それはやはり「改革」との関係です。「改革」路線が彼らを生み出したのではないか、彼らの登場は十分予定されていたのではなかったか、と。増員政策による競争激化と、一サービス業化への自覚が促進されるなかで、基本的に彼らこそが忠実にそれを実践し、その新たな可能性のなかで、あるいはその先を見据えた、彼らこそ多様な弁護士業へのチャレンジャーだったのではないか、と。

     それを考えたとき、「改革」派会主導層や会員たちの彼らへの冷ややかさはどう考えるべきなのか、という話です。「改革」路線を問題視する側のなかにも、この点で、矛盾にも近い違和感を感じている人がいます。見方をかえれば、前記したような会内の懸念を乗り越えて選択された「改革」の問題性に触れずに、当然に生まれた彼らの姿に眉をしかめている、とみえるからにほかなりません。

     その「アディーレ」が、過払い金請求の着手金を無料・値引きするなととする広告を掲載していたとして、景品表示法違反で消費者庁から広告禁止の措置命令を受けていた件で、東京弁護士会から事務所に2ヵ月、石丸代表に3ヵ月のそれぞれ業務停止の懲戒処分を言い渡されたことの波紋が広がっています(「弁護士法人アディーレ法律事務所らに対する懲戒処分についての会長談話」)。全国85支店、180名以上の所属弁護士の業務ストップによる依頼者への甚大な影響に、弁護士会や同業者が対応に追われる事態に発展しています。

     法律事務所が組織的な違法行為を多数回反復して行ったということは、弁護士会が消費者庁よりも厳しい措置に出る、当然の理由とされるでしょうが、一方で、当事者の不利益は、業務停止の影響の方が大きいとか、罪刑の均衡の問題を指摘する声も会内から聞こえてきます。そして、そこには弁護士会あるいは会内と「アディーレ」のこれまでの経緯、いわば因縁のようなものを被せる余地も作っています。

     しかし、今回の事態に至った「アディーレ」について、私たちが最もこだわるべきなのは、やはり「改革」との関係ではないでしょうか。弁護士・会が、まさに懸念、疑念がありながら、選択した「改革」の先に、彼らは現れた、そして、懸念のなかで想定していた通り、結果として利用者が犠牲になっている、という現実です。

     「アディーレ」については、日弁連への審査請求や効力停止の申し立ても予定されていると伝えられ、事態はまだ流動的ですが、一方で、今後の経営不安もささやかれ始めています。今回の事態を受けて、「彼らは『改革』の申し子ではなく、徒花なのではないか」という同業者がいました。「改革」路線は正しくとも、違法は許されない、彼らは行き過ぎた、という推進論者の弁明も聞こえてきそうですが、どこで弁護士・会はボタンをかけ違えたのかを問うことこそ、今、大きな意味があると思います。


    弁護士自治と弁護士会の強制加入制度についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    スポンサーサイト

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    弁護士の使命と事業者性をめぐる現実的視点

     一事業者である弁護士が、ある種身を削って、公益的な仕事を行っていくことの無理が、いまや普通に弁護士の口から聞かれます。弁護士法の「基本的人権の擁護と社会正義の実現」という弁護士の使命に対する解釈としては、あくまで有償案件、つまりは事業者として成立する仕事を手掛けるなかで実現されていけばよい(そうした業務のなかでも十分にこの規定が意味をなしている)ことの方を強調する人は、かつてから弁護士会のなかにもいましたが、いまや当たり前のように、それが言われます。

     さらにいえば、若手のなかには、この使命規定の無用論まで口にする人さえ出始めています。この使命規定が、有償案件について対価を得て、サービス業としてこなすこと以上の社会の期待を、この仕事に被せることにつながっているという見方。そこから、弁護士自身がもはやこの規定に共感できない、理解できない、という状況が生まれている、といえるかもしれません。

     これは、改めて言うのもおかしな話ですが、あくまで「改革」の結果です。弁護士増員によって経済的により厳しい立場に立たされた弁護士は、これまで以上に弁護士の事業者性を意識し、また、余裕がなくなった。その結果として、弁護士会活動や自治・強制加入を含めて、この前記使命のもとで、あいまいに許容してきた部分や、現実に参加していた部分について、強くこだわり出した(こだわらざるを得なくなってきた)、ということなのです。

     その意味では、かつて弁護士の改革について主導した中坊公平弁護士が、事業者性の犠牲の上に公共性を追求することこそ市民が求める形であるとして、あたかもそうした弁護士を生み出すかのように描かれた「改革」の結果と、現実は真逆なりつつあるようにみえます。当時、この捉え方に異を唱えなかった多くの弁護士たちの意識を思えば、大量需要の発生による弁護士業の揺るぎなき経済的安定、いわばちょっとやそっと事業者性を犠牲にしても、多くの弁護士がそれを死活問題として目くじらを立てない、余裕ある未来を思い描いていた証明ではないか、とすら思ってしまうのです。

     本当にこの国に、前記使命から有償ではない無償の(採算性がとれない)、弁護士が取り組まなければならない案件が大量に存在し、それを一事業者である弁護士が引き受けなければならないというのであれば、何度もここで書いているように、基本的に医師における保険制度のように(保険には限りませんが)それを経済的に下支えするものが検討されなければならないはずです。むしろ、そのことを「改革」結果がはっきりさせた、といえます。

     ただ、あえて逆のことをいえば、弁護士の事業者性を犠牲にする中で、前記使命が実現されていく、という形が、好都合といえる社会的な事情が、ひとつだけあるように思います。弁護士・会がかかわってきたそうした案件が、必ずしも社会的なコンセンサスを得られるものではない、という現実です。少数者・弱者の人権、誤判・冤罪事件など活動、さらにいえば刑事被疑者・被告人の弁護はいうに及ばず、他人の民亊事件の救済・援助に至るまで、なんらかの形で税金が投入されることそのものに、実は抵抗がある。

     「なぜ、『犯罪者』に」「なぜ、他人の紛争に」というところから説き起こさなければならないことが存在しているのが、弁護士の仕事を取り巻く現実なのです。最近の当ブログのコメント欄で、「法テラスは勤勉な納税者に見返りがない」として、本人訴訟の当事者は納税者であるのに、「貧乏で非課税の相手方」が法テラスで弁護士を付けているのは不条理、不公平という見方が出ていました。これも現実といわなければなりません(「弁護士『多様性』後退という結果」)。「明日は我が身」的な論法で、当事者的理解を求めるのは、弁護士会の主導層の一部が考えている以上に困難である現実が、弁護士の仕事を取り巻いているのです。

     だとすれば、といわなければなりません。「改革」の結果として、弁護士はやはりより事業者性こだわり、かつて弁護士・会が支えてきた分野に目をそむけ、かつ、それでも所詮弁護士の経済基盤を下支えする制度的議論など生まれない(弁護士会主導層が強調するほど、そこまで弁護士がインフラ視されていない)。そうであれば、かつてのような形の方がよかった、というよりも、実はそれでしか支えられないものが存在したのではなかったか、と。つまりは経済的な安定や余裕を奪えば、実は失われるものが存在していた、という問題なのです。

     一事業者としては、いわば特殊な使命を持つ弁護士が、それを自ら実現することに、もちろん社会は異を唱えない。むしろ、税金を投入する制度的担保よりも、よほど歓迎されるでしょう。それを不十分ながら担保する経済的な安定が、現実的にあったときの方より、弁護士の意識・動向を含め、前記「改革」後の状況の方が、社会にとって有り難いと果たしていえるのか、という気持ちにどうしてもなるのです。これによって、自治を含めて弁護士会そのものが崩壊していくのであればなおさらです。

     かつて弁護士が自力ともいっていい形で、主導的に支える協会によって、法律扶助制度が運用されていた時代、それにかかわっていた「扶助閥」ともいわれた弁護士たちが、異口同音に「われわれは国家がやるべきことを自力でやっている」という趣旨のことを、胸を張っていうのを耳にしました。国の責任という点も、ある種の限界を感じていた点も当然ありましたが、一方で、ある種の自負が原動力になっていた面もあったようにとれました。そして、そういう犠牲的な意味での自負が、弁護士会活動のなかに現在に至るまでずっとあることも事実で、そこがまた今や会員のコンセンサスが得られなくなってきている、ともいえます。

     過去のような、経済的な余裕に支えられた弁護士の公益的活動も、「改革」が描いた事業者性の犠牲の上に公益性が求められるという未来も、ましてや前記自負で取り組む活動なども、いずれも所詮無理だったし、どれも望ましい形ではなかったのだ、というのであれば、ただ単に「改革」がもたらした、弁護士のさらなる事業者性の目覚めを、私たちは当然の結果として受けとめればいいということになるのかもしれません。ただ、そうであればなおさらのこと、過去との比較において、私たち利用者は現実的に何を失ったか、あるいは失いつつあるのかも知っておかなければならないと思うのです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    弁護士「多様性」後退という結果

     弁護士の「多様性」は、利用者市民に直接跳ね返ってくるテーマといえます。専門的資格業という意味では、試験と修習を経て、一定の資質や能力が限りなく均一に備わっている、そのことを出来る限り、現実的に、資格が保証しているという形以上に、利用者市民が安心できるものはないはずです。資格のあり方としては、付与する側も、支える側も、それを理想として、あるいは究極の目標として、それに近付ける努力をすべきだし、その姿勢から資格への信用も育まれていくと思います。

     ただ、ここで言いたい弁護士の多様性の確保とは、限りなく均一に備わっているはずの能力によって、さまざまな層の利用者市民の、さまざまな問題を解決し得るというだけではなく、現実的にその受け皿となる弁護士側の意思や環境が、依頼者市民にとって有り難い形で担保されているかどうかの問題であるということです。

     弁護士が、あらゆる階層の立場の弁護をする存在であるということは、これまで、だから「少数者や弱者の味方とは限らない」「反権力や人権派とは限らない」「富裕層の弁護だってする」という方向で強調されてきた印象があります。弁護士の一般的なイメージに対するアンチテーゼとしていわれている面はあるかもしれません。ただ、現実的には、逆に弁護士会の多数派が、「少数派弱者の味方」や「反権力」だったというわけでく、むしろもともと少数派なのです。

     むしろ「あらゆる階層」に対応する社会的な役割を担っているのであれば、従来から必ずしも経済的妙味のない案件でも引き受ける意思のある人材がどれだけ確保されているのか、さらにいえば、彼らが現実的に活動できる環境がどれだけ整っているのかが重要なのです。そして、多様性の確保とは、全体的にみれば少数であったとしても、そうした人材が確実に含まれることにこそ、本当の意味があるはずなのです。

     言葉としては「多様な人材」の確保をうたった司法改革は、その意味では、全く逆の効果を生み出しているようにしかみえません。増員政策によって競争・淘汰を意識することになった弁護士たちは、以前よりもはるかに採算性を意識し、意識せざるを得ない状況に追い込まれました。いまや企業や自治体に勤務する組織内弁護士が弁護士の未来を背負っていくような扱いになっており、それがあたかも「改革」が生み出した「多様な人材」であるかのような扱いもありますが、自由業弁護士として培われ、担保されていた多様性は逆に失われつつあるようにみえます(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。

     修了の受験要件化という強制化を伴った法科大学院制度という新プロセスは、そのうたい文句とはうらはらに、誰でもチャレンジできた旧司法試験体制よりも、はるかに社会人など「多様なバックグラウンド」を持った人材には高いハードルを課すことにななり、現実的には彼らを排除するものになりました。新法曹養成制度における「多様の人材」確保という目標設定そのものが疑わしいものに思えます(「『多様性』のプライオリティ」)。

     給費制廃止や法科大学院制度をめぐり、「おカネ持ちしかなれない」という指摘は繰り返しなされてきましたが、経済的な意味での人材の階層化も、明らかに旧制度より懸念されています。そもそもプロセスが重視される教育でない方が、これまでいわれてきた在野性ということにつながるような反権力性や反骨精神が育つという意見もあります(永井俊哉ドットコム)。

     これまで以上に弁護士が採算性を追求し、無償性の高い業務への関心をなくし、結果的に少数者弱者の権利擁護や人権、反権力といった分野の担い手も、減らしていく――。かつて「増員させなければ同志も増えない」とばかり、母数を増やすべきという発想から、人権派の弁護士が増員必要論を唱えたことがありました。相対的少数派の立場がそうした発想にさせたことは理解できますが、現実は増員が、既存の同志もまた経済的に追い詰め、より新人も参入できない環境を作ってしまったといえます。意思ある人材と生存できる環境の両方が備わる必要だったのです。

     冒頭書いたような資格の保証はなく、質は競争・淘汰の成果と利用者市民の自己責任、多様性は後退し、市民は以前のように立ち上がってくれる、かつ良質な弁護士には、より出会えないかもしれない現実。現実に何が失われているのかを直視しなければ、「改革」に対するフェアな評価はできない、といわざるを得ません。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事





    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

    最新記事
    最新コメント
    最新トラックバック
    月別アーカイブ
    カテゴリ
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR