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    増員既定路線に縛られる日弁連 

     今は姿を消すことになった、司法試験合格者を年3000人にするという「改革」路線の方針を、日弁連がはじめて公の場で示すことになったとされている、2000年8月29日、司法制度改革審議会第28回会議での、久保井一匡・日弁連会長(当時)の発言。地方の過疎化、弁護士受任率の伸び悩みなどから、行政指導や司法の透明化、広告などをもってしても、この急増政策には、弁護士にとって経済的に無理があるのではないかと質した経済界出身委員の声に、久保井氏は、それでも弁護士は「十分に大丈夫」と太鼓判を押しました(「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」)。

     後日、彼は、その時の心境を次のように機関誌「自由と正義」所収の座談会で語っています。

     「3000人という数字は現在の合格者の3倍を意味するわけで、日弁連にとってとても重い数字である。しかし、審議会が国民各層・各界の意向をくんで出した数字である以上はこれに反対するわけにはいかない」(「司法改革――日弁連の長く困難なたたかい」)

     久保井会長個人の意見というよりも、ここには当時の日弁連「改革」主導層の本音が示されているようにとれます。彼は、前記委員への回答の中でも「3000人」を「国民の声をくみ上げた結果お出しになった数字」としています。国民各層・各会がこの3000人増を望んでいるという「前提事実」を前に、経済界出身委員の極めて現実的でもっともな意見を含め、もはや異論にも慎重論にも耳を貸すわけにはいかない、という姿勢です。

     弁護士に与える経済的な無理、そしてそもそも「3000人」が本当に国民各層・各会の意見なのか、もし、弁護士に対する大きな要求が社会にあるとして、「3000人」がそれに応えるものになるのか、ということなどについて、その時、もっと慎重に検討するという選択肢は、本来はあったはずです。しかし、久保井氏の発言を読めば、それは、当時の彼らの判断として、「政治的」にはありえなかった、といっているようにとれるのです。

     1990年代の日弁連内には、増員と司法基盤整備のどちらを先行させるのかを争点とする議論がありました。その当時のもようを、森山文相弁護士は、著書の中で次のように、言及しています。

     「日弁連内における増員論も、その主流は、司法基盤整備が重要であると認めていた。司法基盤整備が伴わない増員は、弊害があるか、少なくとも増員の効果は限定的だということである。しかし、増員論の最大の特徴は、司法基盤整備を増員の条件にしてはいけないという立場にあった」
     「これも、『増員=善』と考えるところから出てくる論理的帰結だと思う。つまり、司法基盤整備は大事だが、増員はもっと大事だ。しかも、増員すること自体がよいことなのだから、仮に司法基盤整備が伴わなくても(あるいは遅れたとしても)、増員が実現するだけでもプラスだ。このように考えるから、司法基盤整備を条件とするのは間違いだということになるのである」
     「日弁連内の増員論は、『われわれは増員先行論ではない。司法基盤整備と同時並行論だ』と主張した。しかし、司法基盤整備と同時並行が条件だと言わない限り、結局、増員だけが進み、増員先行になってしまう。司法基盤整備には予算が必要なので、そう簡単には実現しないかである」(「変貌する法科大学院と弁護士過剰社会」)

    この日弁連内の増員と司法基盤整備をめぐる、当時の議論状況を振り返ってみれば、久保井発言で示された「政治的」な発想で、結果的に日弁連が、いわば「増員ありき」の無条件増員論に傾斜する、あるいはそういう形に絡め取られていく要素を、内包していたことが分かります。

     そして、それは司法審「改革」路線があくまで「民意」であると信じる前提とともに、今に至っても変わっていないようにとれるのです。

     司法基盤整備されていない増員が、弊害を生む可能性も、増員効果を薄める可能性も分かっていた。現実は、その通りになっているともいえます。しかし、当時の増員論のなかには、それを分かっていながら、増員の実行が、根拠なく、あたかも本当に司法基盤整備にもつながるようにとらえられていた面もみられました。増員だけが進み、弁護士がここまで追い詰められるということは、想定していなかった、という、今にして見れば、ちょっと信じられないような現実もあったのです。 
     
     森山弁護士も、前掲書で指摘していますが、司法基盤整備によって司法の需要が増えたなら、その需要によって法曹人口の確保を考える。法曹人口が足りなければ、足りない分増やす。増員はあくまで現状から導き出される――、とう、当然の発想に日弁連は今も立っていない。

     日弁連主導層が、取りあえず「1500人合格」にこだわり、いったん「1000人」にすべきという地方会の声を無視している事情、さらに、いわゆるぺースダウン論(増員ペースが早過ぎたのが問題という主張)もここにつながります(「伝わっていない司法試験『選抜機能』の危機」)。「3000人」の失敗から、合格死守ラインを後退させながら、増員基調を守る「改革」の発想か、いったん「改革」の前記検証なき増員の失敗を認め、足りないなら増やすという慎重な発想に戻るか――。既に「改革」の増員政策の失敗がはっきりし、かつ、前記慎重な増員検討路線であれば、弁護士が現在ほどの経済的ダメージを回避できたことを一番分かっているはずの、日弁連・弁護士会「主導層」が、なぜか「改革」路線の初期の「政治的」決断を引きずっているようにとれるのです。

     今月10日、今年の司法試験合格者が1502人と発表され、いよいよ「1500人」という政府設定の「最低死守ライン」に、ほぼ到達した(「司法試験合格者数『死守ライン』到達と今後」)ことを受け、菊地裕太郎・日弁連会長は、談話の中で次のように述べています。

     「当連合会は、市民にとってより身近で利用しやすく頼りがいのある司法を実現するために、司法基盤の整備、司法アクセスの拡充、弁護士の活動領域の拡大などに積極的に取り組むとともに、社会の様々な要請に応えることができる質の高い法曹を輩出するべく、法曹養成制度の改革に主体的に取り組んできた」
     「一昨年は1543人、昨年は1525人であり、近年の推移に鑑みれば、上記推進会議決定で言及された『1500人程度』に至ったと考えられる。この傾向を前提として、法曹養成制度の成熟度や現実の法的需要、問題点の改善状況についての検証のためのデータを集積しつつ、引き続き注視していきたい」

     日弁連が主体的に取り組んできた、と自負する前段の本当の成果こそが、法的需要につながり、かつ、会員を経済的にいまほど追い込めない、増員の条件であるという発想に依然、立っていない、増員既定路線の発想から検証しようとしている日弁連の姿が見てとれます。


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    弁護士利用者への無理解という「改革」の本質

     弁護士という仕事が、いかに社会に理解されていないか――。司法改革の結果は、残念ながらこのことを改めてはっきりさせたようにとれます。こう書くと、この「改革」によって厳しい状況に立たされている弁護士業を「営む側」への理解ととる人もいるかもしれませんし、とりわけいまだに弁護士の数を増やし、淘汰を促進すべきと主張する側からすれば、またぞろ「理解」と言うことそのものを、自己保身の泣きごとのようにとる声も出てくるかもしれません。

     これまでこの点についても、「改革」論調のなかで誤解されている弁護士業の現実については書いてきましたし、そのことも既に「改革」の結果がはっきりさせているとはいえます(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。ただ、問題はそれだけではありません。実は「改革」は弁護士業を「営む側」だけでなく、「利用する側」を、社会が理解していない現実を浮き彫りにしたようにみえるのです。

     弁護士は、もともとお世辞にも一般的に社会に身近な職業とはいえません。縁遠い存在であるというのは、もちろん誰でもなれるとは簡単に言えない国家資格を経なければなれない職業、ということだけではありません。多くの市民の、普通の社会生活の中では、少なくともこれまで一生に一回かかわるかどうか、およそかかわる機会がない。

     要は、何を言いたいのかといえば、「改革」が描いた弁護士のあるべき姿とは、その利用者への理解を前提としているのか、ということです。むしろ利用しない(したことがない)社会の目線で、「利用する側」をとらえているのではないか。そのことが、むしろ「改革」の結果として明らかなっているのではないか、ということなのです。

     例えば、利用者市民が弁護士を選ぶということが、現状においてどれほど困難を伴うことなのか。客観的に専門性や能力を見極められるような、信頼できる格付けのようなものが存在するわけではない。しかも、専門的な知見を求める仕事にあって、その良し悪し、それが自分の求める結果に向けて、果たしてべストな方策なのかを、素人が見抜かなければならない。

     数を増やして淘汰に質をゆだねる、とは、実は弁護士選びを体験した人間ならば誰でも分かるはずの、この困難さを度外視し、適正な選択が行われることを前提にします。しかし、適正な選択が行われなければ、適正な淘汰など生まれようがないことは誰でも分かります。そして、誰がこの関係を主導できるのか、そしてどういう弁護士が結果的に残る可能性があるのか、ということも、実はリアルにこの関係を知る人間ならば分かることです。「うまいお店」が残り、「まずいお店」が消えていく、残る業者は利用者が選んだ社会にとって「有り難いお店」、消えた業者は消えて当然の「有り難くない業者」という単純な話にはならない(「弁護士自由競争の先に見えているもの」)。

     しかも、医療とか、薬品と比べた場合、弁護士淘汰論のおかしさはより明白です。とりかえしのつかない利用者被害が生まれるかもしれない対象の質の確保を、いつ果てるかも分からない、素人の選択による淘汰にゆだねるなどという発想があり得るでしょうか。数を増やして、市民の選択に任せて、欠陥品は選別されればいい、利用者の犠牲を織り込み済みの、あるいはそれを利用者の自己責任に投げかける「淘汰」が、許される分野なのでしょうか。

     そもそも何のための国家資格や検定制度か、という話です。法曹も医師も厳格な試験や修習が課されてきたという、当たり前の現実を考えれば、これがいかにあり得ないことであり、資格としての責任の放棄以外なにものでもないことが分かります。弁護士側に対する厳しい目線から、「資格は生活の生涯保証ではない」などという言い方がしきりとなされましたが、それ以前に、資格の根本的な役割、しかも情報の非対称性がある資格との関係で、利用者にとって最低限必要な役割はどうなる、ということが言われて然るべきです。100%実現できるかどうかではなく、それが第一義的に目指されるべきものだということなのです。

     この話になると、「改革」推進論者は、弁護士を適正に市民が選択できる情報を開示されれば問題ない、そうすれば他の業者同様り、素人の選択も可能になると言います。しかし、弁護士と市民の前記関係を考えれば、適正な選択を担保できる情報開示の内容もあり方も実は誰も導き出せません。また、それを保証できるところもない。その現実を度外視した「たられば」的な話こそ、無責任であり、利用者を見捨てるものです。少なくとも自己責任論は、それこそそれが適正に担保されてから言われるべきです。

     この「改革」推進者は、当初から、弁護士対社会(利用者)という構図で、この「改革」を描いてきました。つまり、社会(利用者)の利益を阻害している弁護士のあり方を改めなければならない、そのためにこそ、まずは数を激増させなけれはならない、と。市民の側に立つ、といってきた弁護士・会が、この構図を突き付けられた時、結局、それに抗することができなかった、という分かりやすい経緯もあります。しかし、今、改めて見た時に、「改革」は本当に利用者の側に立ったものといえるのでしょうか。利用者の現実を知らない、社会のイメージや声に乗っかった「改革」は、実は本当の利用者を理解しない、彼らに「有り難くない」結果を導くものではなかったのでしょうか。

     やはり、この責任は、「改革」の旗を振り、依然、増員基調の流れを止めようとしない弁護士会にもあります。彼らは、「淘汰」が必要などとは言っていませんが、結果的にこの状況を受け入れている。「二割司法」などがイメージさせた大量の眠れるニーズはどこにもなく、増員弁護士が社会に必要とされ、少なくともパイの奪い合いで競争・淘汰が起きるという状況は招来しないなどということはなかったのですから。そして、前記した利用者市民の困難さを一番分かっているのは、間違いなく彼らなのですから。

     これまで弁護士業に関する市民に対する弁護士会のアピールは、常に市民の「誤解」を前提として、活用を期待するものでした。つまり、市民は理解していないかしれないが、弁護士はこんなに皆さんの役に立つと。そして、その「誤解」が解ければ、確実にそしてもっと市民は弁護士のもとを訪れる、と(「日弁連『フレンドリー』広告の見え方」)。

     しかし、「誤解」というならば、もっと社会に対して弁護士会がはっきり指摘すべき誤解があるのではないでしょうか。弁護士を激増させても、いいことは起こらない。数を増やせば、身近になるということでもないし、そのことだけで良質で安く利用できる弁護士で、この国が満たされるということでもない。「ミスマッチのせいだ」「ペースが早すぎた」という弁明よりも、市民の期待を裏切るだけでなく、いいことどころか、このままでは、利用者に自己責任のツケだけが回って来かねない、「改革」が既にはっきりさせている「誤解」にもっと言及すべきではないでしょうか。

     もちろん「誤解」している社会に責任がある、とも思いません。この「改革」の形は、「国民が選択した」という声が業界内にもありますが、弁護士に依然縁遠い社会に対して、「これでもあなたは本当に選ぶのか」という問いかけが、なされていないことが問題なのです。


    弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800

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    ある「改革」批判者の絶望

     当ブログのコメント欄でも紹介されていましたが、法科大学院制度や弁護士会の現実に、舌鋒鋭く、批判的な分析を加え、業界関係者を中心に注目されていた、弁護士(のち請求退会)ブログ「黒猫のつぶやき」が、今月28日の更新を最後に、新たな記事を掲載しないことを発表しました。

     「改革」の失敗と、それによる法曹界の変質を直視した論調は、「改革」論議が過去のものになりつつある業界内にあって、貴重な視点を提供する役割を果たしてきただけに、それが今後、新たに見れなくなることを惜しむ読者の声が聞こえてきます。その一方で、時に旧試体制との比較において、新法曹養成体制で生まれた法曹の質の問題に触れる、辛辣な表現には、一部から反発や異論の声も出されました。

     彼の主張の根底には、常に「改革」後のこの世界に対する、失望感もしくは絶望感が横たわっていたようにとれました。「改革」によって壊れた、彼からすれば劣化した法曹養成と法曹、そしてそれについて自覚のない業界に対する、緻密な批判的分析は、今にしてみれば、それ自体、彼のこの業界に対する嫌気の発露だったといえます。そして、その言葉通り、やがて彼は弁護士会から離れ、そして今回、その業界を見放すかのように、批判者の立場にも幕を下ろすことになったのでした。

     28日の「最終記事」と銘打った投稿は、まさにそんな彼らしい、法曹養成をめぐる「改革」に関する総括的な彼の見方を提示するものとなっています。ただ、彼が振り返る「改革」と弁護士界の変遷を、ずっとウオッチしてきた立場からすると、正直、的確に言い当てていると感じる部分と、微妙な違和感を覚えるところがあります。

     もとより立場の違い、あるいはこだわりどころの違いはあります。彼はあくまで業界の中にいた人間として、業界にとっての失敗と劣化をえぐります。一方、業界の近くで見てきた一市民である、当方の立場からすれば、あくまで「市民のため」「国民のため」と銘打った「改革」が一体何であったのか、その誤魔化しのない「価値」そのものに一番の関心があります。だから、当然、彼のような業界への絶望を背景に、見放すと形で終わらせるという結末にもなりません。

     それはともかく、彼の「最終記事」には、次のようなタイトルが振られています。

     「『弁護士=負け犬』の構造」

     彼は、ここで「弁護士業界の凋落」の経緯を時系列的に取り上げていますが、彼が言いたいのは、司法改革批判者が考えているような、小泉政権下における、今回の司法制度改革がその原因ではなく、それ以前からその前兆があったということでした。

     詳しくは、お読み頂ければと思いますが、昭和の高度成長期を通じた経済発展に伴い法律関係の需要増大と、司法試験受験者増のなかで合格者が長年抑えられてきた事実。その背景にあった政府・自民党側の増員欲求と、官僚司法打破、判検を含む法曹三者増員を条件化する日弁連の対立と、法曹三者間の合意の不調。その結果としての、司法試験の超難関固定化、合格者層の高齢化。そのなかで、難関を突破したというエリート意識にあぐらをかいた弁護士たちは、実は経済的合理性や採算性を度外視した発想の持ち主であり、資格によって生活が保証されていただけで、そこに客観的には既に「負け犬」の構造が成立していた、と。

     その後の、実質弁護士のみの合格増を受け入れることになった「中坊路線」、経済界や大学法学部の復権を目論む法律学者・文部科学省などの政治的圧力に屈していったのは、そうした昭和の時代からの、多くの「おかしな信念の持ち主」である弁護士が、経済界の需要に応えられなくなり、そうした彼らの弁護士に対する不満が爆発したことによる、のだというのです。

     そして、彼は弁護士会主導層や旧世代弁護士に矛先を向け、次のような、いつもながらの「黒猫節」を炸裂させています。

     「日弁連や大規模弁護士会の執行部で実権を握っている高齢の弁護士たちは、大半が前述のような馬鹿げた信条の持ち主」
     「自分たちが、経済的損得など考えず何年も司法試験の勉強を続けた結果ようやく弁護士になれた『エリート(笑)』である以上、同じように経済的損得など考えずに法科大学院へやってくる人間だけが弁護士になればいいという発想の持ち主が、呆れるほどに多い」
     「結局のところ、何年もかけて『難関』の旧司法試験に合格したことの一事をもって、自分は社会のエリートだと勘違いしている旧世代の弁護士も、他に逃げる術もないため弁護士の肩書にしがみつかざるを得ず、現実逃避のために自分は司法試験に合格した法務博士様であるから社会のエリートだと主張し続けざるを得ない法科大学院世代の弁護士も、そのほとんどが愚かな社会の負け組であるという一点においてはほぼ同類」

     法科大学院世代の法曹に対する、旧試体制で輩出された法曹の、実力面での優位性が強調されているイメージがあった黒猫氏の論調のなかで、今回はその旧試体制で生まれ、「改革」を主導した(受け入れた)法曹たちの発想の問題に着眼しているのが特徴です。彼は「負け犬」「負け組」と表現していますが、それを自覚していない当時の弁護士たちが、その無自覚のゆえに、「改革」につながる、当然の社会の不満を呼び起こし、その「改革」の結果が法曹養成を破壊するものであってもなお、いまだに無自覚であるということになります。そこで「弁護士業界が持ち直せる可能性」がなくなったと見切った結果が、今回の彼の最終決断ということになります。彼の絶望が導いた結論です。

     確かに、「改革」主導層の無自覚さがあることは当ブログでも書いてきたことです(「問われる弁護士会主導層の現実感」 「司法試験『選抜機能』の危機が省みられない事情」 「現実を直視できない増員路線」)。しかし、前段の日弁連・弁護士会がこの「改革」を受け入れざるを得なかった、つまりは必然的に「中坊路線」が登場せざるを得なかった、という論調につながる見方は、むしろこの「改革」の旗を未だに振ろうとする側と、「改革」の失敗に対して弁明しようとする側の捉え方と変わりません。

     「改革」側の思惑に乗せられ、あるいはその意図通り、弁護士が変質したという事実、警鐘を鳴らし、あくまで抵抗した弁護士たちもいたという事実を見てきた側からすれば、弱点をまんまと突かれた(法曹一元待望論、法曹養成でのイニシアティブ獲得、あるいは抵抗しても無駄という敗北的現実論等)という方がしっくりくるように思えます。弁護士会全体を俯瞰した時に、盲目的な無自覚が、現在の状況に至る「負け組」の起源というのは、何かしっくり来ない表現のように感じます。

     より早くから経済界から不満が出ないような、経済的合理性を持った弁護士の自覚があれば、こんな「改革」の結果になっていないということを言いたいのでしょうか。そうだとすれば、「改革」推進論者は、この「改革」は間違っておらず、遅すぎたくらいだと言うでしょう。そして、この混乱と淘汰の先に、お決まりの経済的合理性を持った弁護士が生き残る姿を描くでしょう。

     また、「改革」主導層の現在の無自覚は、「改革」の失敗を認めて舵を切れないこと(その意味では無自覚ではなく、自覚しながら認められないだけかもしれませんが)。経済的合理性を考えれば、弁護士過剰状態に対して、もっとはっきりとした姿勢を示せるはずなのに、市場原理に乗っかった増員を受け入れながら、それはできない、という矛盾にこそ、問題があります。

     「負け組」というのであれば、逆に一体どういう形が勝利の形であったのか、それがよく分からなくなってくるのです。それはもちろん、前記したような立場の違いからすれば、やはりそもそもその答えも違うのかしれません。しかし、少なくとも、彼を絶望に追い込んだ、「改革」と業界の現実と、私たち社会にとってのその意味には、今後も目を向けていかなくてはなりません。その意味で、最後までこのブログは、貴重な視点を提示してくれているように思えます。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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