弁護士会「公的活動」に対する意識の裂け目

     高い弁護士会会費への会員の不満の矛先が、日弁連・弁護士会が担ってきた公益活動に向かおうとしています(「弁護士会『会費』の無理」)。組織と目的で重層的に会員にのしかる負担額は、弁護士会によって異なり、最高で年間117万円、最低で49万円という、もはや会費のレベルではない、といわれる額に及んでいます(「『会費』イメージを超越した弁護士会費」)。

     弁護士会費が通常の業者団体の会費に比べて、ずばぬけて高額である理由は、一般的には公的な領域をカバーしているからとされてきました。つまり、本来公的な費用が投入されてしかるべきである公的活動を個々の弁護士の持ち出しで支えている、ということであり、会員弁護士の認識としても会費の多くが、そういう性格であることを自覚し、形式的には「合意」しているとされてきました。

     ところが、弁護士の経済的な環境の変化に伴い、この会費と公益活動に対する会員弁護士の目線が大きく変わってきました。批判的な立場は、大きく分ければ、2種類です。一つは形式的な「合意」そのものに疑問を持つ立場。強制加入団体であればこそ、個人として納得がいない日弁連の「公的」な活動支出に対し、会費が徴収される形の不当性を指摘するものです。現状を前提とする以上、強制加入・自治の不要論につながることが考えられ、これまでの「人権擁護」という使命の領域で日弁連・弁護士会活動への会員理解を束ねてきたことが、通じなくなってきている人々ということもできます。

     そして、もう一つは、基本的な活動への理解は示しながらも、現実に即した縮小を求めるものです。これは、実は以前から会内に根強くあります。「弁護士会のヒット商品」といわれた当番弁護士の登場以来、弁護士会は会員の負担を回す形で、身の丈にあった活動をしていないのではないか、という疑問の声が徐々に強まってきた観があります。なぜか、弁護士会は「やれる範囲でやる」という発想に立っていない、というものです。そこに、社会的な要請を強く受け止めている使命感を読み取る人もいますが、ある種の理念・意義先行体質をみる人もいます。

     結果として、会活動の事業仕分けをすべき、という意見が出されていますが(「『会費』と弁護士会の事業仕分け」)、現実的な会員負担を考えて「やれる範囲でやる」発想への転換を求めるものとみることもできます。

     さて、前日弁連会長の宇都宮健児氏が、昨年、東京弁護士会の機関誌に、この問題に関連した一文を寄稿していました(「LIBRA 」2011年 8月号「弁護士会が行う社会貢献活動について」)。宇都宮氏は、そのなかで、日弁連の法律援助金額の大きさは、アジア各国の弁護士会会長に驚かれるなど、日本の弁護士会の社会貢献活動は,世界でも誇れるとする見方を示したうえで、日弁連・弁護士会がそうした活動を行う根拠について言及しています。

      「弁護士及び弁護士法人の使命及び職務にかんがみ、その品位を保持し、弁護士及び弁護士法人の事務の改善進歩を図るため、弁護士及び弁護士法人の指導、連絡及び監督に関する事務を行う」

     弁護士法31 条1 項の弁護士会の目的規定です。同45 条2 項の日弁連の目的規定にもほぼ同文の内容(同条では「全国の弁護士会に対する指導」「連絡及び監督に関する事項」)が規定されています。宇都宮氏は、この規定について大きく二つの考え方が対立するとされていることを紹介しています(日本弁護士連合会調査室編著「条解弁護士法(第4 版)」)。

     一つは、規定を限定的に解釈し、弁護士法1条に定める基本的人権の擁護と社会正義の実現という使命は、あくまで個々の弁護士・弁護士法人の使命であって、日弁連や弁護士会は、それをサポートするものであるとする見方。もう一つは、前記使命は個々の弁護士・弁護士法人の職務活動のみでは達成困難であり、日弁連・弁護士会は個々の弁護士・弁護士法人の職務に必要な助言を与えるとともに、より困難・重要な問題については、日弁連や弁護士会が独自に積極的な活動をなし得るものとする見方、があると。彼は言います。

      「思うに前者の考え方は、表現に素直ではあるものの、弁護士法1 条の目的の実現、日弁連や弁護士会の現実の諸活動の必要性を顧みないものというべきである。従って、後者の考え方に立って、日弁連の目的を解釈するのが相当であるといえる。また、日弁連や全国の弁護士会のこれまでの活動の実績を考えれば、当然に後者の考え方となるものと考える」
      「弁護士自治は、ひいては国民から付託されたものであるといえる。したがって、弁護士・弁護士会は、監督官庁は持たないが、市民・国民の目線が弁護士・弁護士会を監督する役割を果たしているといえる。そして市民・国民の信頼を獲得してこそ、弁護士自治は維持され強固になっていくものと考える」
      「市民・国民の信頼を獲得し弁護士自治を守るためにも、さまざまな社会貢献活動は、弁護士会が積極的に取り組むべき活動といえる。今後、日弁連や弁護士会の社会貢献活動は益々拡大し、活発になっていくものと思われるし、またそうしなければならないと思う」

     ここで宇都宮氏が後者の積極活動論に立つ根拠として示しているのは、一つは日弁連・弁護士会のこれまでの活動実績、もう一つは弁護士自治護持、つまりは社会貢献活動によって市民・国民の信頼を得ることが弁護士自治護持につながるということのようです。

     しかし、冒頭に挙げた会内の二つの批判的立場は、まさに前記目的規定の後者の解釈から前者の解釈を求めるものと、後者の立場に立ちながら「より困難・重要な問題」という点において取捨・縮小を求めるものですが、いずれについても宇都宮氏の根拠が、どれほどの説得力があるのかは、残念ながら疑問です。過去の活動実績が将来への無理への理解につながるとは必ずしもいえず、弁護士自治護持そのものを絶対的に必要とみない立場に立てば、前提も成り立たないからです。

     つまり、これは宇都宮氏が掲げるような、伝統的な理念が、冒頭書いたような経済的な環境変化がもたらした会員意識の変化に効果をなさないことをうかがわせます。会費という問題は、その意識の裂け目の入口にあるといってもいいと思います。逆に言えば、伝統的な理念を弁護士の事情ではなく、本当に社会的な要請として見直すならば、裂け目の入口をまずはなんとしてでも修復する必要があります。


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    裁判員「量刑」傾向報道の読み方 

     裁判員制度のように、司法に参加する市民に、量刑まで担わせる形については、専門家の間でも異論があります。いうまでもなく、多くの国民には過去の刑事裁判への知識の蓄積がなく、量刑の基準がないからです。

     職業裁判官には過去の類似判例などをもとに蓄積された、いわゆる量刑相場というものを基準とする実務慣行があるわけですが、なぜ、そうしたものがあるかといえば、いかに裁判官が法と良心にしたがって、個別の案件の事情を勘案して判断しても、同様のケースで量刑にバラツキが出るからです。そのため、公平性や安定性という意味から、前記量刑相場という基準が有効になるという説明がなされてきました。

     裁判員制度では、それがない市民が裁きの場に入ってきます。「市民感覚」による判断にそこをゆだねれば、大きなバラツキが出ても、当たり前です。さらにいえば、そのバラツキを生むものは、情緒的な感情の有無、もしくはその度合いによるということもできます。被害者感情に大きく共鳴すれば、自ずとそれは大きく触れたり、個々人の感性によって非常に恣意的な結果をもたらすこともあり得ます。職業裁判官だって、そうだという声もありますが、それは職責においても、訓練においても、どちらがこの点でバラツキを生むリスクが少ないかははっきりしているというべきです。

     この問題の解消を、裁判員制度は、おそらく二つのことによって期待している、とみることができます。一つはいうまでもなく、職業裁判官が関与するということです。彼らが相場を示すことによって、それを基準に市民が裁くから大丈夫だろう、という話です。ただ、いうまでもなく、それに過度に引きずられるということであれば、逆に少なくともこの制度が量刑段階に市民を参加させている意味が問われることになりかねません。

     そして、もう一つあるとすれば、「市民基準」が成立するとみる、ということです。つまり、現行の相場を「市民感覚」によって調整した一定の新相場が形成されるかのごとく、見る見方になります。当然、こちらは裁判員制度の「市民参加」の意義が、保たれる形です。しかし、これまた、いうまでもないことですが、無作為抽出で選ばれた市民の裁判体は、そもそも均一な質を持っていません。無作為は選ばれる側は平等だとしても、実は裁かれる側にとっては、運不運の不平等をもたらします。

     この不平等についても、これまで散々推進派の方々の意見を聞いてきましたが、少なくとも裁判所側の方からは、まさにそこも職業裁判官による是正を期待しているようなご意見が返ってきました。したがって、そうだとすれば、バラツキの危険性は少なくとも彼らには、もともと想定内であり、ならばその結果にしても、職業裁判官の関与を期待しないことには、「市民感覚」という一定の尺度が存在しているかのように見て、それによって公平さが担保できるようなことにはならないというのは、当然の話なのです。

     さて、そうした不安定要素をもった市民参加の量刑について、制度導入3年で、一つの傾向が報道されています。5月15日付けの朝日新聞朝刊は、最高裁の公表結果から、裁判員が性犯罪に対し、量刑が厳しくなる一方、それ以外の犯罪では執行猶予をつく割合が増えたとしています。気になるのは、「朝日」の扱い方が、頭から肯定的だということです。

      「犯罪の背景や被告の境遇をよく踏まえて市民が量刑を考えた様子がうかがえる」
      「市民感覚 刑の幅広がる」
      「プロの裁判官が積み重ねてきた量刑にとらわれない裁判員たちの姿が浮かぶ」

     性犯罪については、「これまでが軽すぎた」ということを強調し、裁判官の理解なども挙げて、この厳罰化を例外的かつ肯定的に取り上げ、一方で、執行猶予増加も市民が被告人の事情を汲んで、社会復帰を見守る「保護観察」を付すケースの増加傾向ともに紹介し、結果として検察の求刑7、8割といわれてきたものが、上回ったり、大幅に下回ったりするケースが相次いでいることを「刑の幅広がった」と表現しています。

     しかし、やはり、これはこうとばかりは即断できないように思えます。性犯罪の厳罰化は、ケースの中身を見ない限り、それが最も情緒的な反応に流された結果である可能性はありますし、いうまでもなく「刑の幅」というのは、懸念されていたバラツキと置き換えられます。裁判官やコメントを寄せている元裁判官らによるこの傾向に理解を示す見方は、もちろんこれらが問題を生じさせていない、ということへのプロからのお墨付きです。そして、ここには、前記したような裁判員制度の意義に直結させられるような、正しい「市民基準」の登場を描き込んでいるように読めてしまいます。

     これもまた、裁判員制度推進派の大マスコミによる、バイアスのかかった順調報道の一環である可能性を考えて、現実を見ていかなければならないように思います。


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    「助け舟」論調の狙い

     弁護士増員政策によって、弁護士がいろいろ方面に目が向け出している、という言い方を聞きます。もちろん、増員の効果を肯定的にとえるものです。「改革」路線の生みの親ともいえる佐藤幸治・元司法制度改革審議会会長は、現在でも国会で企業内弁護士の増加や、銀行・国立大学での弁護士募集、法テラスや国際機関で働く弁護士の存在などを挙げて、「やっといろいろな方面に弁護士資格を持った人たちの目が向き出し始めている」として、合格3000人方針は今でも正しく、やめるべきではない、ととれる発言をしています(「『改革』設計者の止まった発想」)。

     しかし、これはどう考えるべきなのでしょうか。増員によって、なぜ「目が向き出し始めている」ととらえているのでしょうか。数が増え、現在ある顕在需要ではやっていけない弁護士たちが、「仕方がなく」別の領域に向かうという環境がつくられた、ということになるのでしょうか。だとすれば、これまでの弁護士は既存の業務形態にあぐらをかいており、こうした追い詰め方をしなければ、多様な分野に弁護士は向かわなかっただろう、といっているようにもとれます。

     しかし、この見方には二つの疑問を持ちます。一つは、果たして今起きている現象を、あたかも「改革」が彼らを「押し出した」ように、「仕方がない」方向に進ませているという見方だけでくくれるのかということです。あえていえば、彼ら自身がなぜ、妙味を追求しないと考えるのでしょうか。利があれば、そこに人は向かうし、食っていけなければ、そこにはいかないからです。

     弁護士過疎問題を見ると、はっきりします。弁護士を増やせは、都市部で食えなくなった弁護士が地方に流れるだろう、という描き方がありました。確かに過疎は解消に向かいましたが、実は、これを支えたのは、「仕方がない」という諦念ではなく、むしろ意思的な有志の精神です。しかし、彼らでさえ、そこに根を下ろすには、やはり別のシステムや対策が必要だとしていますし、過疎対策でのこれ以上の激増政策の必要性にも疑問が呈されています。

     つまり、経済的な妙味や社会的な使命感といった、弁護士側の認識を増員政策がコントロールできるような描き方への疑問です。いくらなんでも、利にならないとこにはいかないだろう、また、社会的使命感がいくらあっても、食えないところにはいかないだろう、と、なぜ、考えないのだろうか、と思ってしまうのです。

     そして、もう一つの疑問は、根本的なことですが、そもそもの増員政策の必要性自体は、果たしてそういう話だったのかどうかということです。「二割司法」のなかに眠る大量の弁護士ニーズに対し、大量の弁護士が必要となる話は、有償と無償のニーズの存在を考えれば、成り立つ話なのかどうかは当然疑問視されてしかるべきだったのですが、少なくとも弁護士が経済的に「押し出される」ように別の分野に向かう、それを強いられる事態が生まれるという話だったのか、弁護士のうち、それをどのくらいの方々が想定して賛成に回ったのか、ということです。

     弁護士の「競争」ということや、意識改革といったことが議論の俎上には上りましたが、増えた弁護士が相当頑張って「掘り起こさない」ことには、破滅するという見方があったようにも思えません。ましてや、そうした状況が、国民にとって本当に望ましい状況なのかということは、大マスコミも含めて誰も投げかけていなかったことです。

     最近、同じようなことが司法試験合格者についても言われています。合格者を増やしたから、法曹三者以外への就職者が増えてきているというものです。だから、就職難を理由に減員に舵を切るな、ということのようです(ジュリナビ)。ある弁護士のブロクが、こう指摘します。

      「『法曹三者以外の職に進むものが増加してきた』という結果論は、それが、本当に、その『道に進むもの』が意図していたことなのか、ということが重要です」
      「しかし、私は、違うと思います。LSで何百万の投資をして、時間も使って、新卒資格を失って、そして、LSに来る人というのは新卒ならばそれなりの企業に就職可能な人たちなのに、それをわざわざぶち捨てて、LSでクソの役にも立たない授業を受けて遠回りすることに我慢できるのは、そのあと、法曹になれる可能性をつかめるからです。『法曹三者以外の職』すなわち企業・官公庁を目指すなら、新卒の段階で企業・官公庁に行くほうが、学生にとっても、また、早い段階でトレーニングできる企業・官公庁にとってもメリットが大きいのです」
      「LS側もわかっているのでしょう。いまLSに人気がないのは、『出口』すなわち就職先がないからであることを。だから、『出口(「法曹三者以外の職)はありますよ〜どんどん来てね』というわけです。無責任極まりない」(「福岡の家電弁護士 なにわ電気商会」)

     このブログ氏も言っていますが、要するに、これらは、すべて「改革」が当初掲げていたことではない後付けの話です。当時の議事録を国民が読み返して検証しないことをいいことにした、失策隠しにほかなりません。もちろん、当時、こうしたことになることが掲げられていたのならば、「仕方がない」選択による犠牲もなかったということになります。

     あちらこちらから出ている「改革」路線への「助け舟」論調が、今の状況を良い方に導くとは、とても思えません。


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    「司法の正統性」という視点

     司法制度改革審議会以来の、裁判員制度に具体化された「国民の司法参加」の議論では、その意義として、司法の国民的基盤の確立という目的とともに、「統治客体意識」からの脱却を含め、むしろ国民側が責任をもって、主体的に司法を支えることの意味が、当然のように語られてきました。国民の主体意識への転換が21世紀のわが国の社会の姿のなかに描き込まれ、裁判員制度は、そうした意味のうえ立って、いわば司法を変革すると同時に、あたかも国民への教育的効果をもたらすもののようにとらえられてきた感があります。

     一方で、この議論のなかで、不思議なくらい、すっぽり抜け落ちているように思えるのは、「司法の正統性」といったテーマです。司法「改革」の議論は、いわば「国民」が司法に直接参加するという一事を持って、これを民主主義国家の「民主的」手続として、前記テーマを飛び越えている、あるいは不問にしてきたようなところがあります。

     ただ、これは不思議なことでもあります。なぜ、無作為で抽出された国民の裁判に、「司法の正統性」をここでゆだねられるのか、ということは、司法を信じようとしてきたはずの国民にとっては、当然の疑問であって不思議ではありません。と同時に、これをさらにはっきりさせておかなければならないのは、そうした形で飛び越えて裁判員制度が導入されても、参審制の変形である、この制度では、すべての決定過程に職業裁判官が関与し、また控訴審においては職業裁判官だけによって裁判が行われるからです。

     最高裁も、法曹のみによって実現される高度の専門性は、時に国民の理解を困難にしているとか、国民の視点や感覚と法曹の専門性とが常に交流することで、相互理解を深める、とか、必要性を強調します。しかし、だからといって、これまでの「司法の正統性」や「権威」が、今、国民を強制的に直接参加させなければならないほどに、ぐらついてしまっているということを、正面から認める話をしているわけではありません。

     この問題に関して、社会学者の宮台真司氏が著書「日本の難点」のなかで、重要な指摘をしています。実は「国民参加」のテーマの背景にはポストモダンにおける「正統性の危機」という問題が確実にあったのだが、司法審にはその専門家が一人もいなかったので、それ自体が議論になっていない、というのです。

      「司法の正統性」は、立法や行政の正統性と違って、民主的票(で選ばれた人による投票)に由来するとは観念できない。それが民主主義であっていけないのは、移ろいやすい民衆の感情から法原則を隔離するためであり、法的裁定の適法性を担保する仕組みが大幅に欠落した裁判員制度は、「司法の正統性」の本義に反する。司法の裁定を人々の意見を寄せ集めた合意に基礎づけてはいけない――。

     彼は、「司法の正統性」からみた裁判員制度の問題性をこう指摘したうえで、この流れをポピュリズムを不可避的にもたらすポストモダン化のなかでとらえます。

      「ポストモダンでは、第一に、社会の『底がぬけた』感覚(再帰性の主観的側面)のせいで不安が覆い、第二に、誰が主体でどこに権威があるのか分からなくなって正統性の危機が生じます。不安も正統性の危機も『俺たちに決めさせろ』という市民参加や民主主義への箇条要求を生みます」
      「不安や正統性危機を民主主義で埋め合わせるのは、体制側にも反体制側にも好都合です。体制側は危機に陥った正統性を補完でき(ると信じ)、反体制側は市民参加で権力を牽制でき(ると信じ)るからです。ところが人文知の治験では、ポストモダン化が市民の無垢(イノセンス)を信頼できなくさせてしまいます」
      「そのことは裁判員制度への疑念の噴出それ自体に見出せます。僕の考えでは、ポストモダン化に伴う権威や正統性の劣化を市民合意(民主主義)で補完するのは危険です。その危険は法理学や法社会学の伝統的思考に従えば明らかです。権威や正統性の劣化を食い止める別の方策が必要です」

     彼は、移ろいやすい庶民感覚や生活感覚を当てにしてはいけない領域、状況に依存する感情的反応から中立的な長い歴史の蓄積を参照できる専門家を当てにすべき領域が確実に存在し、それを毀損してしまうと、そうした感覚に従う「市民政治」が疑念の対象になる、と結んでいます。

     今、本当はなぜ、この国に「国民の司法参加」がもたらされているのか、また、それは司法にとって、何を意味しているのか――。その答えを導き出すために必要であるはずなのに、やはり「改革」論議からも、大マスコミの報道からも抜け落ちた視点のように思えます。


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    法科大学院導入を支えた「欠陥」批判

     10年くらい前に書いた記事を読み返しながら、当時、こんなことをよく尋ねられたことを思い出しました。

      「司法研修所というのは、そんなにダメなのか」

     法曹界外の人間の口から、こんな言葉が出されていたという事実は、あることを物語っています。それは、当時、国民の目には突如として現れた観もあった法科大学院制度の導入理由が、いかに司法修習を含めたそれまでの法曹養成制度への批判的見方を伴って、大衆に伝わっていたか、ということです。

     例えば、司法制度改革審議会の最終意見書がいうような大学の法学教育と法理実務の乖離、予備校依存、司法試験という「点」ではなく、法科大学院を中核とする「プロセス」としてとらえるべきとの説明。さらに、法学と他の学問に関する十分な教育をするには、前後期6ヵ月の修習期間は短すぎ、教授陣の中核は裁判官で知的多様性がなく、法廷実務以外の教育は手薄であるという司法研修所の知的限界をいう説明。当時、マスコミの報道を通じて、大衆が目にしていた新法曹養成肯定論=現行制度否定論でした。

     当然、こんな反応もありました。

      「何でそんな制度ならば続けてきたのか。今の法曹も欠陥品か」

     事実、欠陥養成課程で育てられた日本の法曹の質には、問題がある、ということを堂々と言う大学関係者の声を聞きました。彼らの言い分のなかには、前記疑問に関していえば、実は、本来受けられる多様なサービスを受けられていないことを市民が知らない(気がつかない)ため、結果として制度がえんえんと存続してきたのだ、というものもありました。あたかも欠陥品に市民はならされているだけであり、新法曹養成で輩出される法曹によって、市民は本来得られるはずの多様なサービスを享受できるようになる、というように聞こえます。

     現に、その後も、法科大学院の研究家教員のなかには、旧司法試験下に誕生した法曹の質を「欠陥品」のごとく批判する人がいた、という話はよく耳にしました。

     もちろん、新法曹養成に協力する姿勢をとった最高裁・司法研修所が、そんなことは、微塵も認めるわけがありません。彼らが、あくまで法科大学院を受け入れたのは、法曹の大量増員決定に伴う、司法研修所の限界であり、法曹教育の役割分担化でした。当時の彼らへの取材で、必ず聞かれたのは、無用論台頭への脅威の裏返しのような、現行司法修習の意義・実績の強調でした。

     点からプロセスといっても、点と司法修習が残ったことを考えれば、プロセスとしての司法修習の改革であってはいけないとの説明はしにくようにも思いますが、今、思えば、不思議なくらい、その方向転換は、あっさりと行われた感がありました。長年の法曹養成をめぐる議論、大前提として打ち上げられてきた統一試験・統一修習の理念、司法試験「丙案」導入是非論議等は、急きょ具体化してきた法科大学院構想の前に、ほとんど意味性を失い、論議そのものが仕切り直すことを余儀なくされた割にはという意味で。

      「法曹大量増員と大学改革の要請が結び付いた結果」

     これが、多くの法曹関係者が受けとめた仕方がない方向転換の割り切り方でした。当時、それでも各大学に設置される法科大学院と、そこから生まれる法曹の質のハラツキという問題は、法曹界サイドから提示され、その一つの対応策として、司法審も一形態として言及していた、複数の大学が連合して設置する「連合大学院」構想が取りざたされたこともあるにはありました。

     各高裁管内8ブロックごとに1〜3の大学院を複数の大学で設置し、各ブロック弁護士会(弁護士会連合会)がこれに協力。これによって、学校間レベル格差は縮まり、既に課題となっていた教員確保にも道が開ける。補助金と引き換えの政府の大学自治介入への不安も減退する――。しかし、この構想は、既に当時から、メインの議論にはならないだろうという見方ができました。法科大学院構想を大学運営のメリットとして注目している関係者の方々にとって、これでは妙味のない形になってしまうからです。

     結果、10年後、いまや法科大学院構想の破綻が言われ出しています。いまでも法科大学院を死守したい関係者の方々は、旧司法試験下の法曹を「欠陥品」と言いたげにもみえますが、少なくとも今の法科大学院が前記したような「多様なサービス」を市民に実感させるような法曹を、未来に向けて多数輩出させる状況にはない、むしろ、この制度そのものが、かつてより志望者を遠ざけることが懸念されているのが現実です。いまや大学関係者からは、とりあえず合格させろ、法曹の質は競争と淘汰で担保しろ、という声まで聞こえます。「欠陥品」を輩出しない責任感も目的意識もそこには感じられません。

     そうだとすれば、法科大学院制度導入への有利な地平を切り開いてみせた、当時の現行法曹養成への過剰ともいえるネガティブキャンペーンも、結局は彼らの思惑を隠すための目くらましだったのではないか、と思えてしまいます。


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    プロフィール

    Author:河野真樹
    法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士〜弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士〜弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士〜弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

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